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死刑を廃止すべきか (その1)

児玉聡京都大学大学院文学研究科准教授
(写真:アフロ)

日本弁護士連合会(日弁連)が10月に開催される人権擁護大会において「2020年までに死刑制度の廃止を目指す」との宣言を採択する準備を進めている。

その背景には袴田事件の再審開始決定で再燃した冤罪の懸念と、世界的な死刑廃止の潮流がある。

現在、死刑を廃止・執行停止している国は140カ国以上あり、死刑廃止をしていないのはG7諸国の中では米国と日本だけだと言われる。その米国でも死刑を廃止・執行停止している州が半数近くある

死刑制度について倫理学的にはどのように考えるべきだろうか。

死刑制度の存廃論については、毎日新聞の記事(「あなたはどっち? 死刑制度は必要か」)がよくまとまっているので、これを用いて検討してみよう。二回に分けて検討することにして、最初は存続論について見てみたい。

死刑制度の存続論の検討

上記の毎日新聞の記事では、死刑制度の存続論として7つの論拠が挙げられている。順に検討してみよう。

1. 人を殺した者は、自らの生命で罪を償うべきだ

目には目を、歯には歯を」。犯罪を行なったものは罪を償うべきであり、他人の命を奪ったのであれば、自分の命で償うべきだ。この発想はタリオの法(同害報復の原則)と呼ばれ、応報刑の中心にある思想である。この考え方に魅力を感じる人は多いだろう。

しかし、これを厳密に実行することは難しい。たとえば複数の人を殺した犯人を複数回殺すことはできない。また、他人の子どもを殺した犯人について、我々は犯人の子どもを殺すこともしない。

このように、まったくの同害報復は無理であり、重要なのは罪と罰の釣り合いをとることであろう。その場合、釣り合いのとり方にはいろいろな仕方がありうる。すると、殺人犯を絞首刑にするよりも、無期懲役にして、生涯罪を償わせた方が、つりあいが取れると言えるかもしれない。

このように考えると、「人を殺した者は、自らの生命で償うべきだ」というのはそれほど自明ではない。殺人を行なった者が罪を償うべきことは確かだが、その適切な償い方、釣り合いの取り方については、議論の余地があると言える。

2. 一定の極悪非道な犯人には死刑を科すべきだというのが国民の一般的な考え方だ

死刑については日本国民の支持は高いとされる。2014年11月に行われた内閣府の世論調査では、「死刑もやむを得ない」とした回答が8割に上っている。

一般に世論は、政策決定の場面では重要な役割を果たす。だが、倫理学の議論においては、世論は重要な根拠にはならない。それどころか、世論に訴えることは「衆人に訴える誤謬」と呼ばれ、良くない議論だとされる。

その理由は、一つには、多くの人々の考えが間違っている可能性があるからだ。ある国で多くの人々が奴隷制度を支持していたとしても、それによって奴隷制度が正しくなるわけではない。

また、このような国民の意見は、死刑制度が長く続いているからこそ形成されている可能性があり、死刑制度がなくなれば、人々の考え方は一変するかもしれない。したがって、死刑制度の存廃を議論するさいに、一般市民の支持の多寡に訴えることはできないのだ。

3. 最高裁の判例上、死刑は合憲とされている

死刑制度の存続についての論証においては、世論に訴えることができないのと同様に、権威に訴えることもできない。「最高裁が認めているから死刑は認められる」と主張するなら、「権威に訴える誤謬」を犯すことになる。

たしかに最高裁の判例は現在の法的立場を知るには有用である。しかし、これも死刑の倫理性を考えるうえでは重要な考慮ではない。問題は、このような判例が正しいかどうかであるからだ。

4. 死刑の威嚇力は犯罪抑止に必要だ

刑罰の主要な目的の一つは、同種の犯罪の予防である(一般予防とも呼ばれる)。そこで、もし死刑が他の刑罰に比べて殺人などの犯罪に対する抑止力をもつのであれば、死刑を存続させる大きな理由になるだろう。

しかし、死刑が抑止力をもつかは実際に調査してみなければわからない。厳密に言えば、死刑が抑止力をもつということだけでなく、無期懲役や終身刑などの代替の刑罰に比べて優れた抑止力をもつということが示されなければならないだろう。

だが、私の知る限り、死刑の抑止力についてはこれまで明確な結論は出されていない。したがって、死刑には抑止力があると主張する人は、その証拠を出すための方策を考えなければならない。

一案としては、日本において死刑を廃止する地域をいくつか作り、死刑を存続する地域と比べて殺人などの凶悪犯罪が増えるかどうかを試すということが考えられる。こうした社会実験を行えば、上記の主張の是非を確かめることができるだろう。

5. 被害者や遺族の心情に配慮すれば死刑制度は不可欠だ

被害者や遺族の心情に配慮することは重要であるが、彼らの心情の通りに刑罰制度を作ることはできない。それには少なくとも三つ理由がある。

第一に、被害者や遺族の心情は、世論と同様に、死刑制度があるかどうかで変わる可能性がある。もし死刑が廃止されたなら、殺人事件の遺族は犯罪者を死刑にしたいと望まないかもしれない。極刑が終身刑である社会では、彼らは犯人が終身刑になることを望むかもしれない。

人々の心情はある程度までは制度のあり方に依存している。そのため、彼らの心情に配慮すべきだとは言えても、死刑制度が不可欠だとは言えないと考えられる。

第二に、被害者や遺族の心情に配慮するなら、さらなる厳罰化が必要になるかもしれない。たとえば酔っ払い運転による歩行者の死亡事故、レイプ犯などを考えてみよう。これらの犯罪についてはすでに厳罰化が実施ないし議論されているが、一部の被害者や遺族は、懲役刑では飽き足らず、犯人を殺してやりたいと思うかもしれない。その場合には、彼らの心情に配慮して、犯罪者を死刑にすべきだろうか。

中にはそう思う人もいるかもしれないが、犯罪と刑罰の釣り合いの観点からすれば、死刑にすることはできないだろう。また、仮にレイプ犯が死刑になるのであれば、レイプをした者は「捕まればどうせ死刑になる」と考えて殺人も犯すようになるかもしれない。この意味でも犯罪と刑罰の釣り合いを重視する必要がある。

第三に、被害者や遺族によっては、「犯人を殺しても死んだ人は戻ってこない」などの理由から、殺人犯の死刑を望まない場合もあるだろう。すると、こうした被害者や遺族の心情に配慮するなら、死刑を行わない方がよいことになる。

ここには被害者や遺族の意見に従って刑罰の重さを決めることが許されるかという問題があるが、いずれにせよ被害者や遺族の心情のみを根拠にして死刑制度を不可欠だということはできないと考えられる。

6. 凶悪な犯罪者による再犯防止を図るためにも死刑は必要だ

たしかに、凶悪な犯罪者が再犯を行う可能性を防ぐ一番の方法は、その犯罪者を死刑にすることだろう。しかし、仮釈放なしの終身刑を代わりに作れば、脱獄の可能性が高くない限り、再犯を防ぐことはできる。また、教育を通じた改悛によっても、ある程度までは再犯防止が可能かもしれない。

したがって、再犯防止という観点からのみでは、死刑を唯一の選択肢とすることはできないだろう

7. 死刑反対派は「誤判の可能性がある以上、死刑を廃止すべきだ」と言うが、「誤判の可能性がある」という意味では、死刑以外の刑罰でも同じ理屈が生じてしまう

誤判可能性は死刑存廃論の最大の争点と言えるもので、よく検討する必要があるが、誤判可能性は死刑廃止論の根拠であるため、次回の死刑廃止論の検討において、詳しく検討することにする

ここまで死刑存続論を見てきたが、倫理学的な論証としては、よい議論も悪い議論もあることが理解されたことと思う。

筆者が説得力があると思うのは4.の抑止力に訴える議論である。ただし、これは実証的根拠が必要であり、もし死刑以外の刑罰と同様かそれ以下の抑止力しかないことが明らかになったならば、死刑制度の廃止を考えるべきだろう。(続く)

京都大学大学院文学研究科准教授

1974年大阪府生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程研究指導認定退学。博士(文学)。東京大学大学院医学系研究科医療倫理学教室で専任講師を務めた後、2012年から現職。専門は倫理学、政治哲学。功利主義を軸にして英米の近現代倫理思想を研究する。また、臓器移植や終末期医療等の生命・医療倫理の今日的問題をめぐる哲学的探究を続ける。著書に『功利と直観--英米倫理思想史入門』(勁草書房)、『功利主義入門』(ちくま新書)、『マンガで学ぶ生命倫理』(化学同人)など。

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