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若者ほど「不倫」や反体制を責めるのは、彼らが「持たざる者」だからであるー田中俊英さんの記事によせて

千田有紀武蔵大学社会学部教授(社会学)
(写真:アフロ)

ベッキーさんとバンド「ゲスの極み乙女。」のボーカル川谷絵音さんを皮切りとして、「育休議員」の宮崎謙介元衆院議員、乙武洋匡さんと、「ゲス」と罵られる不倫報道が続いている。以前ヤフーニュースで、ベッキーとゲスの極み乙女。ボーカルの熱愛報道から見る未婚化現象という記事も書かせてもらったが、それにしてもここのところの「ゲス不倫」バッシングは異様な盛り上がりである。

田中俊英さんは、若者が「不倫」や反体制を責めるのは、本を読まず、SNSやネットばかりを見ているからだという(若者ほど、「不倫」や反体制を責める)。なるほど。さらにそれに触発されていえば、実は若者は本気で責めているのだろうかという疑問がわく。

少し前であるが、ある女性タレントの離婚原因が、夫以外の男性を自宅に引き込んだことによるとの憶測があった。それに対する世間、とくに若い女性たちの反感はすさまじかった。最近になってやっと騒動後の初めてのコマーシャルが決まったことがニュースになったほどである。ネット上では、まだ彼女は「許され」ていない。しかし、若者は本当に「不倫」という「悪」を責めているのだろうか。

彼女のバッシングにネットが一役買っているのは間違いないだろう。ネットで「許せない」という機運が高まると、それぞれが番組に抗議の電話などを入れ、テレビ局もスポンサーの意向を気にせざるを得なくなる。確かにネットというバーチャルな空間で、ある種の共同体が成り立っているからこそ、バッシングは盛りあがる。

それだけではなく、バッシングの要因のひとつにもSNSがかかわっている。最近の芸能人は、ブログなどで日常生活を報告したり、写真をアップしたりする。そうすることで芸能人へ親近感がわくのだが、それと同時に芸能人と「一般人」の垣根は低くなる。自分と芸能人との同じ土俵での比較が始まるのである。

「ワイプの女王とかいわれているけれど、あれくらいなら自分にだってできるんじゃないの? あの程度のことでちやほやされているなんて羨ましい(実際には簡単そうに見えても、やっぱりプロはプロなのだが)」という気持ちが、きっかけを与えらえれるとバッシングに結実する。嫉妬という感情は、自分と相手を比較することから始まり、はるか遠く手の届かない相手に対しては起こらない。

ベッキーさんも報道されるまえから素地はあった。ネットでは「ベッキーってどういう芸があるの? 女芸人さんのように体を張っているわけじゃないし」という火種がくすぶっているのを何度も目にした。それが不倫報道というきっかけで、爆発したようにみえる。

またさらにいえば、「恋愛はしない」と公言していたのもよくなかった。「いい子ぶっているけれど、やっぱりそんなのって無理じゃん!」(不倫に限らず、「お芝居の中の役としてしか恋愛しないと決めてる」と発言したことのある女優さんの熱愛報道には、独身同士の恋愛であっても、ネットではプチ盛りあがりがあった)。

「不倫」は非難をぶつけるときの、錦の御旗である。なんといっても、もともとの意味からして、「人の道に外れること」なのだから。

しかし実際には若者の性行動は、以前に較べてずっとカジュアルになっている。なんとなくパートナー以外と関係したり、付き合っていないけれども性関係を持つということも、気軽に行われている。以前のように、最初に付き合ったひと、つまり処女をささげたり、ささげられたひとと責任をとって結婚しなければというプレッシャーもない。結婚と貞操(処女性)が引き換えではなくなっている。生涯に1人の運命の人に出会って、結婚して、子どもを育てて、死が2人を別つまで添い遂げるというロマンティック・ラブ・イデオロギーは、揺らいでいる。そもそも結婚しても、3組に1組は離婚するのだ。にもかかわらず、なぜ他人の「浮気」をあれほどにまで執拗に責めるのだろうか。

それは「不倫」が、結婚してからの浮気だからである。30代後半になっても、男性の3人に1人、女性の4人に1人は独身である。若者はなかなか、結婚に踏み切らない(踏み切る大きな理由は、「できちゃった結婚」である)。ほんの少し前までほとんどすべての男女は結婚しており、結婚しないひとは数パーセントにすぎなかったのに、である。つまり結婚は、「誰でもするもの(しなくてはならないし、できるもの)」から、「選択してするもの(しなくても構わないし、したくてもできないことがあるし、子どもができたらしなくてはならないもの)」へと変化したのである。だとすると、「自分で結婚を選択した人は、きちんと責任をもってその責任を取るべきだ。それが自己責任というものなのではないか」という感覚が大きくなっても不思議はない。

とくに結婚していない若い層であればあるほど、そうだろう。なにしろ結婚を含めて、将来への漠然とした不安を抱えているのだから。また結婚したらしたで、昨今離婚率が高まっている分だけ、自分たちの関係の脆さに不安をもつのかもしれない。

若いひとたちにとって、「不倫」は結婚という「特権(本来は結婚する・しないは自由だが、現状ではとりあえずある程度年収と既婚率が相関しているから便宜上そう呼ぶ。社会通念上も結婚すると「一人前」とみなされることが多い)」を持ったひとたちが、さらに未婚者のみに許された数少ない「特権」のはずの性的な自由をも、行使しようとする試みにみえる。その結果、許せない、と思うようになるのである。さらにいえば、不倫の願望を読み取られないためにも、表向きは「許せないよね」と同調しておいたほうが安全でもある。半分冗談だが。

こうした世論の高まりによって、本来プライベートな関係の問題であったはずの「不倫」は、「消費者や有権者の意向」を通じて「公人」の地位を左右するものとなった。こうした傾向のたかまりは、さらに「一般人」へも適用されていくかもしれない。すでにネットでは、「パートナーの不貞の証拠を着々と集め、その後暴いて慰謝料を要求し、離婚する」という物語への応援が溢れている。

反体制についても、若者の反応が好意的でないのは当然である。1960年代の学生反乱のとき、大学や社会にたてついた学生たちの多くは、そのうち髪の毛を切り、ネクタイを締めて、就職していった。将来、サラリーマンになって日本の経済成長を支える働き手になるという予期があるからこそ、「これでいいのか?」と自問したのである。

ところがいまの学生たちには、その「サラリーマン」になるという選択肢自体が困難である。「つまらない大人になんかなりたくない!」といおうにも、「つまらない大人」になれるかどうかすら定かではない。「反体制とか簡単にいえた世代の大人って楽でいいよなぁ」という思いは、「簡単に結婚して『不倫』している奴って許せない」という思いと、おそらく通底するものがあるのではないか。もちろん、いろいろな要因があり、答えはひとつではないと思うけれども。

武蔵大学社会学部教授(社会学)

1968年生まれ。東京大学文学部社会学科卒業。東京外国語大学外国語学部准教授、コロンビア大学の客員研究員などを経て、 武蔵大学社会学部教授。専門は現代社会学。家族、ジェンダー、セクシュアリティ、格差、サブカルチャーなど対象は多岐にわたる。著作は『日本型近代家族―どこから来てどこへ行くのか』、『女性学/男性学』、共著に『ジェンダー論をつかむ』など多数。

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