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支援があっても、「危険」は回避できない―監視付き面会交流は、子どもの利益か?

千田有紀武蔵大学社会学部教授(社会学)
(ペイレスイメージズ/アフロ)

「妻へのDVは子どもには関係ない*。子どもへの虐待があっても、第三者機関を使って監視をすれば、面会交流はできるはず」。

こういう主張が、親子断絶防止法をめぐって、なされている。また、子どもの虐待の認定のハードルは証拠主義であまりに高いため、虐待があると主張されても、裁判所でも多くの監視付き面会交流が、実際に命じられている。「監視つきの面会交流」と聞くと、「それなら大丈夫ではないか」と考えるひとも、多いのではないか。

以前、面会交流によって、アメリカでは年間何十人もの子どもが殺されているという記事で、Dastardly Dadsという「データベース」を紹介させていただいた。これは、新聞報道などに基づいた親による子どもの殺害などの記事の集積である。

面会交流関連記事に限っていえば、アメリカにおける親による子どもの殺害は、年間平均70人程度である。データベースで発見した関係者の名前などを入れれば、1件の事件でも報道の記事に何10件もヒットするので、英語が読めるひとはぜひ、読んでみて欲しい。私は、読めば読むほど陰鬱な気分になってしまい、なかなか記事が書けなかった。監視付きの面会交流が、殺人事件を防いでいるともとても思えなかったからである。

監視付き面会交流中に父親に銃で撃たれたジョシュア君のケース

例えば前回少しだけ触れた、2013年にニューハンプシャーで殺害された9歳のジョシュア君のケース。彼は「監視付きの面会交流」を命じられており、YMCA面会センターで、面会交流中の父親によって殺害された。沢山ある記事のなかから、ジョシュア君をとりあげたのは、たまたま目に留まったからにすぎない。よくあるケースのひとつである。

デイリーニュース(Father who killed son in YMCA murder-suicide sent email to hours before, saying no one could stop him: report2013年11月8日)によれば、父親はジョシュア君に向けて、6回も銃を発砲した。

親子が遊んで40分も経過したとき、突然父親が銃を取り出して、ジョシュア君の後頭部を撃ち抜いた。それからさらに5発、息子を撃ってから、父親は自殺した。父親は知人に、事件の数時間前に警告メールを出している。

「君が知るべきことは、君であれ、俺の周囲の人間であれ、誰もこの悲劇を止めることはできなかったということだ」。

「なんで俺がこんなことをしたか知る必要があるって? 気にしないでくれ。頭のおかしい男なんだよ」

父親と母親は結婚していなかったけれども、子どもの親権をめぐって争っており、「この行動は、親権(監護権)を取りあげたジョシュアの母親への「報復」だ」ともメールにあった(様々なニュースで、「共同親権」だったとも報じられている)。

事件の前年に、父親は母親に、自分は銃を持っているんだからなといって脅している。

お前か、俺とジョシュアか、(被害者は)どっちになるんだろうな。そのうちニュースでわかるだろう」ともいったそうだ。

母親はたった一人の息子を取りあげられて、酷い悲しみに暮れたまま、一人残されるんだ。俺のよく知っている悲しみ(を思い知れ)

以上はもちろん、ニュースからの引用である。母親は子どもを引き取りに来たら、警官たちのものしい騒ぎによって、自分の子どもが殺されたことを知ったのだ。母親の心中を慮るにあまりある。

しかしこれは、さまざまな記事についてたくさん調べれば調べるほど、「よくあるストーリー」である。

オンタリオのウエスタン大学のペーター・ジャフィー教育学部教授の説明に、このケースもぴたりと当てはまる。

「調査によれば、父親は一般的にパートナーが去っていったあとに、復讐から子どもを殺害する。そしてたいていDV歴があります」

「関係から去っていった母親へ最大の復讐は、一番大事に思っているひとを殺すこと、つまりは子ども、子どもたち殺害することです」

出典:Parents who kill their children: Why would someone do the unthinkable?

父親は面会交流の際に子どもを殺害したり、子どもの殺害のあとに自分も自殺したりする。しかしこの、親による子どもへの暴力的な殺害というショッキングな事件は、その加害性が薄められ、「悲劇」として報じられる。この事件でも、加害者である父親自身が「悲劇」という言葉を使っている。

不幸なことに、このような犯罪の報道のされ方は極めて馴染み深いものである。まさに典型的なのは、「ある男」が子どもを殺したこと(その後自殺することもある)、そしてそれがひどい「悲劇」であるという見出しがでる。近所の人が、殺害したとされるひとを「いいひとにみえた」(というのも、かつて芝刈り中に手を振ってくれたから)、「偉大なお父さんだった」とさえいう言葉が紹介される。ここに来て初めてーいくつかのパラグラフを読んだ後にー、その男が通りすがりの人間ではなく、殺された子どもの父親であることが判明するのだ。この「偉大なお父さん」が、子どもたちを撲殺あるいは銃殺したらしいということは、決して矛盾しているとみなされない。その反対に、つじつまの合わない不可思議なミステリーとして片づけられる(『ドメスティックバイオレンス、虐待、子どもの監護』(Domestic Violence, Abuse and Child Custody)のなかの、ジャン・クルースによる「あの男があの子を殺した理由がわからない」2ページ)

この事件でも、ジョシュア君の母親との前に結婚してた前妻の言葉が紹介されている(Father left depressed by bitter custody battle shot dead his 9-year-old son during a supervised visit at a YWCA visit before killing himselfmailonlne 2013年8月12日)。

彼は「心優しきひと」だったそうだ。

「暴力的でなんかなかったわ。できればどんなひとだって助けようとしたでしょうし。彼は、本当にいいひとだった」

ひとは、関係によって見せる顔が違う。少なくともジョシュア君と妻に見せた暴力的な側面は、その前妻には見せていなかった。本来的に暴力的な人間でなくても、その関係がこじれたことによって、暴力的な状態になることもあるだろう。家族という密室で起こっている出来事は、その外の人間に理解されにくいものである。

ジャン・クルースは、「あの男があの子を殺した理由がわからない」において、以下のようにいっている。

父親の親権についての状況は、時が経ち、裁判が行われる頃までには失われるか忘れられるかしてしまう。加えて、詳細な親権「争い」について、また虐待する父親に親権や面会交流権を与えてしまう裁判所、児童福祉機関、またはその他の心理学・法律の専門家の役割について解説するフォロー・アップ記事が出ることは極めて稀である。最も深刻なのは、子どもたちを殺すことになる父親の家に子どもたちを行かせた判事や他の責任者たちの名前がほぼといっていいほど出ないことである――重大な過失や論理の破たんを示す証拠があるにもかかわらず。その結果、公に対する説明責任が果たされることはまずない(「あの男があの子を殺した理由がわからない」2ページ)。

ストーカー規制法や、DV防止法のように、暴力的な関係のときに誰かに「会ってはいけない」と規制することは理にかなっているが、誰かに「会うように」という命令を出すことは、どういうことか、またその責任について考えさせられる。

ジョシュア君の面会交流には、もちろん、監視がついていた。しかし予算をカットされたことで、面会交流センターのセキュリティガードは解雇されていた。しかし、セキュリティガードがいれば、突然鞄から銃(日本でなら刃物?)を取り出されたときに、制止できたのだろうか? そもそも、セキュリティガードをつけて、命を懸けてまで、面会交流をする必要があるのだろうか? そのような面会交流は、子どもにどんな意味をもつのだろうか?

監視付き面会交流は、子どもにもストレス

面会交流のサポートを長くしているひとは、誰にでも「ヒヤッとする瞬間」があるという。子育て経験をしている人間ならよくわかるだろうが、子どもはふと眼を離した瞬間に事故にあう。同様に一瞬の隙をついて、子どもを連れてどこかに閉じこもられるなど、簡単である。逆にいえば、一瞬の瞬間をも見逃すまいと目を皿のようにした援助者がついている面会交流は、緊張に満ちているとはいえないだろうか。

子どもを第三者機関による監視つきの面会交流をさせている田中道代さん(仮名)はいう。「第三者機関がないと、とても面会交流をさせられません。夫は、子どもの振る舞いが気に入らない、子どもの発言が気に入らない、全部母親である私のせいだと、面会交流が終わるたびに、援助者に文句をつけてきます。日程の調整も、決して譲りません。そして子どもの体調が悪くなってキャンセルをしようものなら、援助者に怒鳴り込みにいきます。直接的なやり取りなど、不可能です。

そもそも同居していた時から、子どもへの関心や愛情があったとはいえず、別居後も十分な収入がありながら、養育費を支払いたくないと一貫して主張してきました。面会交流は私への嫌がらせであり、父親の権利を行使したいだけであると、少なくとも私は感じています。

DVも、子どもへの性虐待もあり、面会交流は子どもの利益にならないという娘の主治医の精神科医の意見書も提出しましたが、面会交流は避けられませんでした。しかしやはり、泊りがけの宿泊は不可、第三者機関の利用は面会の前提条件と流石の裁判所も考えていました。

面会交流が始まってから、子どもが荒れに荒れ、不登校になりました。しかしそれが進んで最近は、面会交流が終わるなり発熱して倒れこんだり、面会交流の数日前から、布団から出られずぐったりとして、身体的不調が続くようになりました。父親に会うだけで、どうしてここまでのストレスを感じているのだろう。ただでさえ大変なシングルマザー生活が、さらに大変になっています。援助者によれば、面会交流の様子は、楽しそうにみえるそうです。

でも最近、思い至りました。援助者の監視の下で、もともと緊張関係のある父親と会わせられて、父親が母親に文句をいわないように精一杯頑張らないといけない。そんな経験が、楽しいわけはない。援助者も『精一杯、父親に応えようと、娘さんは頑張りに頑張りを重ねていますよ』という。つまりは面会交流という舞台で、『子ども』を演じることを求められているわけです。援助者という観客付きで。それはプレッシャーでないわけはないよなぁと。子どもが可哀想です。

性的な虐待もあり、父親の行動は許せないと思います。しかしもともと、子どもを会わせるつもりではいました。しかしこちらが申し立てた離婚調停で、調停委員や調査官がしつこく面会交流を申し立てるように父親にいい、面会交流を使えば嫌がらせができる、離婚を回避できると気がついて『泊りがけの年間140日の面会交流を間接強制の罰金付きで』などと主張されたことによって、ただでさえ離婚するような関係が、ぼろぼろに傷ついてしまいました。もういまは、感情を押し殺して娘も私も面会交流という「責務」を果たそうとはしていますが、子どもは将来、夫を許さないでしょう。私も夫に対する感情は、いまは『無関心』しかありません。前は子どもの父親だとは思っていましたが、もうどうでもいいひと。

なぜ夫かって? 離婚は不可避、親権も私ですぐに合意が取れたにも拘わらず、面会交流で4年間も争われて、面会交流実施後は娘の問題が多発して、離婚すらできていないからです。裁判所が面会交流ににわかに熱心になった時期に重なったため、争いがエスカレートさせられてしまい、5年以上たっても離婚すらできていません。弁護士に払った何百万円ものお金、費やした時間と労力――そんなものがあるのなら、全部娘のために使いたかった。これからまた離婚裁判に向けて、お金と気力を貯めなければなりません。この面会交流が、いったい誰の利益になっているのでしょう。将来、娘にも憎まれるであろう夫(そして私もかもしれません)も、ある意味、面会交流をめぐる制度改革の犠牲者かもしれないと思います。時期を繊細に見れば、笑いあって再会できたかもしれない。

離婚は家族の終わりです。そのことをまず受け入れなければ。そして裁判所は、誰も求めてもいなかった面会交流を押し付けるのを、やめて欲しいです。争いを激化させるだけだと思います。私たちのようなケースまで、「面会交流の申し立て数」に入れられていると思うと、冷ややかな気持ちになります。専門家もいる裁判所でもこうなのに、親子断絶防止法にあるような行政窓口での判断なんて、恐ろしいことになるんじゃないかと思います」。

WMUR-TV(Report: Dad was not searched before murder-suicide) ものものしい警察の様子が映っている。ジョシュア君を迎えに来た母親が目にしたものは、警察の姿だった。

*児童虐待防止法では子どもの前でふるう暴力は、「面前DV」として虐待と認定されている。最近、「面前DV」が単なる「(お互い様の)夫婦喧嘩」に矮小化されることが多くて面食らっている。子どもの前での言い争いも、子どもの心に傷を残す「面前DV」に当たることがあるが、「面前DV」にはもちろん、もっと深刻な暴力も含まれている。

武蔵大学社会学部教授(社会学)

1968年生まれ。東京大学文学部社会学科卒業。東京外国語大学外国語学部准教授、コロンビア大学の客員研究員などを経て、 武蔵大学社会学部教授。専門は現代社会学。家族、ジェンダー、セクシュアリティ、格差、サブカルチャーなど対象は多岐にわたる。著作は『日本型近代家族―どこから来てどこへ行くのか』、『女性学/男性学』、共著に『ジェンダー論をつかむ』など多数。

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