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秋葉原事件・加藤智大被告からの2回目のメッセージ(上)

篠田博之月刊『創』編集長

秋葉原事件の加藤智大被告から8月半ばに続いて2回目のメッセージが届いた。彼は2審から法廷にも姿を見せなくなったし、社会に何かを発信するつもりはないように見えたから、こんなふうにメッセージを送ってくることだけでも予想外だが、それ以上に予想外だったのは、その中身だった。

実は前回、彼のメッセージを公開した後にネット上に寄せられたコメントを筆者も弁護士もプリントアウトして加藤被告に送った。筆者の印象だと、「黒子のバスケ」渡邊被告に対するコメントと比べても明らかに否定的なものが多かった。やはり無差別殺傷事件という加藤被告の犯行に対しては、まず嫌悪感が先に立つ人が多いということだ。私としてはそういう厳しい現実を本人に知らしめたほうが良いと思って送ったのだが、今回の文書を読むと、加藤被告はやや違った感想を抱いたらしい。「読んだうえで的確に批判したコメントが多いので希望を持った」と書いてある。つまり、加藤被告としては自分の意見など聞いてくれる人はほとんどいないと思ったのに、予想したよりもきちんと反応してくれる人がいてうれしかったというわけだ。

考えてみれば、これは加藤被告が事件の後に世間と対話した最初の機会だったかもしれない。1審では、事件の被害者遺族が次々と出廷し、法廷で加藤被告に直接怒りをぶつけるという進行が行われた。加藤被告は入廷と退廷のたびに被害者遺族の席に頭を下げ、一貫して謝罪もしたのだが、遺族にすればそんなことで加害者を許せるわけがない。何度も加藤被告を断罪し、反省が足りないと指弾した。それは当然のことだし、遺族にすれば加藤被告を死刑にしても被害者が戻ってくることのないというやりきれない思いだったに違いない。遺族の悲しみの吐露に傍聴していても涙が出て来るという法廷だった。

その後、加藤被告は2審から法廷に姿を見せなくなり、独房で自分の犯した事件について考え、それを本にして出版してきた。それは一方的な発信だったから、このブログでのように、自分の意見に対して70万近いアクセスと大量のコメントが寄せられるというのは、予期しなかった体験だったのかもしれない。

ここで書いておきたいのだが、こんなふうに犯罪を犯した者を含めて社会的議論を行うことは、筆者はすごく大切なことだと思っている。これまで凶悪事件の公判を数々傍聴してきて思うのだが、動機もわかりにくいような複雑な事件が増えている現状で、既存の裁判のシステムではなかなか対応ができなくなっているのだ。

例えば拙著『ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)で書いた奈良女児殺害事件の小林薫死刑囚の場合は、自ら死刑判決を望み、検察側の主張をやってないことまで丸呑みし、死刑判決をくだされた瞬間ガッツポーズまでやってのけた。これまでの裁判のシステムではこういう被告人は想定されていないように思う。被告人が罪の軽減を主張し、検察側がそれを突き崩すというディベートを通じて真相に迫るというのが裁判の基本的フレームなのだが、現実には、その想定からはずれてしまう事件が増えているのだ。ちなみに小林死刑囚は最期まで「裁判は茶番だ」と主張しながら処刑されていった。

「黒子のバスケ」渡邊被告の裁判でも、彼の意見陳述を裁判官は時間の都合でと法廷ではほとんど朗読させず書面で提出させた。実際には法廷でできることなど限界があり、多くの知見を結集して事件を解明していくには、被告の主張を公開したほうがよいのだが、これまでそういう場は現実には担保されていなかった。だから筆者は、「黒子のバスケ」事件については渡辺被告の主張を公開し、彼に対する意見や批判はまた本人に返していくという試みを意識的に行った。実際、渡邊被告はそういう議論の過程で、精神科医の本を読み、自分なりに事件についての分析を進化させていった。冒頭意見陳述と最終意見陳述がかなり様相を異にしたのはそのためだ。

実は犯罪を犯した側も、自分の事件については自分なりに理解し解明したいという気持ちは持っている。あの取りつく島もないように見えた池田小事件の宅間守死刑囚も、自分の精神鑑定には関心を持っていた。自分が事件をどうして起こしたのかについては自分でもわからない面があり、自分なりに理解したいという欲求は、犯人自身も持っている。動機のわかりにくい複雑な事件の解明ほど、これまでの裁判の枠組みを超えた試みをしていかないと、現実に追いついていくことは難しくなりつつあるのではないか、というのが筆者の感想だ。

裁判は刑罰を決めるのが第一義の目的だから、どうしても事件の解明は二の次にされ、複雑な事件が単純なストーリーに押し込められてしまうことも少なくない。筆者が12年間もつきあった連続幼女殺害事件の宮崎勤死刑囚の場合も、判決は単純なわいせつ事件に落とし込んでしまったのだが、それでは理解できない要素が多すぎる。そもそも単なるわいせつ目的なら、殺害した幼女を解剖したり、その頭蓋骨を保管したりはしないだろう。

筆者が犯罪者の声をできるだけそのまま公表したいと考えるのも、単にそれを垂れ流しているわけでなく、上記のような考えからだ。既存のメディアのように被害者感情に配慮してそれにそわない加害者の言葉は封印してしまう、一定の文脈に沿った言葉だけ選び出して報道するというのも、それはひとつの考え方だとは思うが、そうでない試みがあってもよいと思う。「黒子のバスケ」の渡邊被告も、秋葉原事件の加藤被告も既存メディアに対して相当な不信感を持っているのは、自分の言葉が切り貼りされ、都合のよい部分だけメディア側の文脈にはめ込まれて使われることに反発しているのだと思う。

以上、加藤被告の第2回のメッセージを公開するにあたって、何のためにそれをするか書いた。以下、彼の文書を公開するが、長文のため、ふたつに分割した。この文書アップが予告した日程より遅くなったことをお詫びしたい。筆者も多忙故になかなか文書を書く時間がとれないためだが、「黒子のバスケ」渡邊被告についての次にアップする文書も、2~3日後になるかもしれないことをご了承いただきたい。

(以上、文責は篠田博之)

【Re:「秋葉原事件」加藤智大被告が「黒子のバスケ」脅迫事件に見解表明!】

まず,前回,拙文をブログに転載していただいたことに感謝申し上げます。どのような用紙にどのような筆記具でどのような文字が書いてあるのか,などといったくだらない情報をいちいち晒さなかったことも好ましく思っています。また,コメントをいただけたこともありがたいことだと思っています。a読まずに中傷,b読んだけれど誤解して非難,c読んだうえで的確に批判,d共感,といったコメントがつくであろう想像はしていましたが,cが意外と多かったことに,世の中はまだ捨てたものではないと,希望を持ちました。「犯罪経験者にのみ理解可能な」などとひねたタイトルを付けたことは大いに反省しています。

ただ,自著『殺人予防』が読まれることを前提とし,また,転載の労を考慮して最低限の説明しかしていないために誤解が生じ,真意が伝わっていないのは,残念でなりません。事件後,私の「止めてほしかった」という発言が問題になりましたが,しかし,私がそう思っていたのは事実です。その心理がどういうものなのか,ひいては事件を起こす心理とはどういうものなのかを明らかにすることで,起きなくてもいい事件は未然に防げるはずだと考えました。だから,私は書くのです。今回は,前回いただいたコメントの一部を引用しつつ,返信をさせていただきます。

>本人の気持ちなんて本人でも解らないことがあるんだから

事件後,取調べでも精神鑑定でも裁判でも,私はどうして事件を起こしたのかが自分でもよくわかりませんでした。公判時には一応まとまった説明にはなりましたが,それでも釈然としません。そのうち気がついたのが,そもそもの説明の型,考え方が間違っているのだということでした。「AだからBする」と考えるのは誤りで,「AだがBすればCになる」と考えるのが正しいのだということなのですが,それを視覚的にわかりやすくすれば,

(正しい考え方)      (誤った考え方)

現状A           現状A

↓             ↓

行動B             行動B

結果C             

ということです。ある問題行動の動機を考えるとき,その行動以前にどのような出来事があり,その人物にどのような歪みがあるから行動を起こしたのかと考える誤った考え方をするから本質が見えてきません。正しい考え方をしましょう。行動を起こせばどうなるのかと,行動後の結果を考えなくてはいけないのです。それこそが,行動を起こす動機です。行動は,現状を変更する手段でしかありません。注目すべきは,行動した本人の性格でも過去でもなければ行動の態様でもなく,「結果」です。

この正しい考え方を使えば,「本人でも解らない気持ち」を説明することができるようになります。「現状A」に対して「結果C」を求めるから「行動B」を起こすのです。その深層心理,真の欲求を知って下さい。何のために行動するのかと,行動の目的を考えましょう。自己分析はもちろん,他者の「理解不能な行動」を理解するためにも,この正しい考え方が必要です。

>意味もなく,暴言で相手を罵る

見識がないのに有識者扱いされている「有識者」らは,自らの無知を棚上げし,自分が理解できない人の言動に「異常」のレッテルを貼りたがりますが,私が思うに,この世には理解不能な行動など存在しません。まして,無意味な行動などあるはずがありません。行動は目的を達成するための手段なのですから。

現状A:

行動B:暴言で相手を罵る

結果C:

暴言で相手を罵るという行動によって,どのような現状をどのような結果に変化させられるのか,相手の立場になって想像して下さい。「自分の中の理解できない不安定,未知の不可解な欲求」などというファンタジーに逃げずに,認めたくない現実を直視しましょう。宿題にしておきますので,考えてみて下さい。

>『寄り添う』べきとは「身勝手」の証明みたい

香山リカ氏に見識があるか否かはシンパとアンチで好きなだけ論争してもらえばいいのですが,いずれにしても,「精神科医」という職業であるなら対象に寄り添うべきではないかと考えます。私は,「政治家は民意に寄り添うべきだ」と主張するのと同様に,「精神科医」という職業を指して,「精神科医であるなら」という条件を付けたうえで,寄り添うべきだと書きました。全人類はこの俺様に寄り添うべきだと書いたのではありません。あくまでも,職業人としての意識のあり方に疑問を持っただけです。はるかな高みから対象を見下していないで,対象と同じ目線に下りて「相手の気持ち」を理解しようと務めるのが,精神科医としての第一歩のように思うのは,私だけなのでしょうか。

>他人の気持ちを考えられない人なんだな

私に対して「他人の気持ちを考えられない」と責める人が私の気持ちを考えられているのかという問題は,とりあえず置いておきましょう。私をそう責める人は当然自分は他人の気持ちを考えられるのでしょうから,前々項の宿題もすぐに解けたと思います。他人の気持ちを考えられる人であれば100通りくらいは朝飯前でしょうが,他人の気持ちを考えられない私なりに,一応解答例を示しておきますと,例えば,

現状A:相手が不快な言動をしている

行動B:暴言で相手を罵る

結果C:相手が不快な言動をやめる

という「変化」が考えられます。その変化を起こすのがこの行動の目的であり,この結果を得るのが,行動の裏にある本当の欲求,つまり動機です。世間では,怒るのは図星の証拠などという間抜けな迷信がはびこっていますが,痛いところを突かれるのも確かに不快でしょうけれど,根も葉もない言いがかりもまた不快ですから,同様の行動になります。それを勝手に「図星だ」と決めつける人こそ,人の気持ちを考えられていません。自己中心的な思考をやめて,「A-B→C」と,正しい考え方に基づいて書いてみることで,想像を膨らませましょう。

なお,暴言で相手を罵れば相手が嫌な思いをするからそのようなことはしない,などとキレイゴトをのたまう人は,少し頭を冷やしてきて下さい。こちらの暴言によって相手が嫌な思いをするから,相手の不快な言動をやめさせることができるのです。嫌な思いをさせなければ制裁(しつけ)になりません。

>DやE案を考えられなかった低能

秋葉原無差別殺傷事件が何を目的とした行動であったのかは『東拘永夜抄』を読んでいただくとして,指摘は全くその通りで,何も反論できません。秋葉原無差別殺傷事件に変わる「D案」や「E案」を検討しようともしなかったことを今は後悔していますし,だからこそ反省をして,現在は,何か問題が生じても正しい考え方によって「行動B」に最適なものを選択しようとしています。同じ失敗は二度としません。

>その後自分がどうなるのか考えて踏みとどまるんだよ

これも全くその通りで,やはり何も反論できません。秋葉原無差別殺傷事件という手段によって,目的を達成することができるのはほぼ確実です。一方で,望ましくない別の結果も同時に発生するわけで,そこをもっとよく考えるべきでした。そのために必要なのが,正しい考え方です。多くの人が無意識のうちにできていることができない人がいても,「能力不足」と責め,差別し,排除するのではなく,できないことができるようになる考え方の型やツールを提示することが必要だと思います。  以下、(下)に続く

月刊『創』編集長

月刊『創』編集長・篠田博之1951年茨城県生まれ。一橋大卒。1981年より月刊『創』(つくる)編集長。82年に創出版を設立、現在、代表も兼務。東京新聞にコラム「週刊誌を読む」を十数年にわたり連載。北海道新聞、中国新聞などにも転載されている。日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長。東京経済大学大学院講師。著書は『増補版 ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)、『生涯編集者』(創出版)他共著多数。専門はメディア批評だが、宮崎勤死刑囚(既に執行)と12年間関わり、和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚とも10年以上にわたり接触。その他、元オウム麻原教祖の三女など、多くの事件当事者の手記を『創』に掲載してきた。

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