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今年も8月15日の靖国神社に学生たちと行ってきた

篠田博之月刊『創』編集長
8月15日の靖国神社、正午黙祷の瞬間

毎年8月15日は学生たちと靖国神社に足を運ぶ。今年も炎天下の靖国神社を訪れた。

参拝に行くのでなく、参拝客及びそれを報じるマスコミの取材について見るためだ。

8月15日に靖国神社には全国から参拝客が訪れ、世界中からメディアが取材に訪れる。何年か前には韓国の放送局の取材クルーが日本人の参拝客に取り囲まれるといった事件も起きた。

もう10年くらい定点観測的にウォッチングしているが、今年はやはり参拝客が多かった。以前は軍服を着たり右翼団体が旭日旗を林立させて行進するといった光景ばかりが目立ったが、今年は一般の人が多い。増えている一般の人たちがどういう思いで参拝しているかは気になるところだが、今年の夏は多くの人が戦争あるいは日本の戦後について関心を高めているという、その現われなのだろう。

毎年一緒に行っているのはマスコミ志望の学生たちだが、こんなふうに敗戦の日に大勢の人が靖国神社を訪れている光景が珍しく見えたようだ。学生たちには、現場で戦争の経験者や遺族らしい人を見つけて話を聞くように指示している。戦争体験者の話を直接聞く経験など今の20代にはほとんどないと思う。彼らの両親の世代までは、肉親に戦争体験者がいるのは当たり前だった。今年は「戦後70年」ということでテレビや新聞も大きな特集を組んだが、安保法案をめぐる今の日本の動きは、70年という歳月のもたらした戦争体験の風化を抜きには語れないだろう。

日本の戦後は、戦争に対する反省から出発しているのだが、戦後70年を経て、いつまでも反省や謝罪ばかり続けていてはだめだという人たちが大きな声をあげるようになった。

審議中の安保法案が成立すると自衛隊の海外派兵が可能になるわけだが、こういう戦後日本の基本的枠組みの変更は、戦争体験者がもっとたくさん生存していた時代には上程すらできなかっただろう。安倍政権による安保法案推進という動きが現実化している今年の8月15日は、だから昨年までとは違う意味を持っている。「戦争」について語るにも、単なる回顧ではありえなくなった。

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『サンデー毎日』8月23日号の「一億人の戦後70年」という特集のなかでノンフィクション作家の保坂正康さんがこう語っている。

「僕は75歳になり、がんを二つも患ったし、一期(いちご)とはこんなものだろうと達観しかけていた。でも安倍政権が本性を現すにつれ、何としてでも生き延びて、この政権を倒さなければいけないと思い始めました。そうでなければ、昭和史を検証してきた意味がない」

多くの日本人にとって、日本が再び「戦争のできる国」をめざすのかどうかという選択を迫られる時期がこんなに早く訪れるとは思わなかったのではないだろうか。それは与党が3分の2以上の議席を確保してしまうという状況が生まれたことによって現実化してしまったのだが、法案にどういう態度をとるにせよある種の覚悟を求められる事態となった。前述した保坂さんの言葉は、作家の半藤一利さんとジャーナリストの青木理さんとの鼎談で発せられたものだが、その鼎談での半藤さんの発言にもある種の覚悟がにじみでている。特に戦争を実際に体験した言論人にとっては、いま日本で進行している現実は、単なる議論や論評の対象としてではすまない重たいものだろう。

安保法案の問題は、憲法の問題とつながっている。今の流れがさらに進んでいけば、言論表現や報道規制が強まるのは明らかで、今はまだ安保法案に対してたくさんの反対の声が表明されているが、へたをすると次はそういう声をあげる自由もなくなっていくかもしれない。そういう戦後初めての大きな岐路に、いま私たちは立たされているわけだ。

こういう状況を見るにつけ思い出すのは2010年6月9日の光景だ。当時、日本のイルカ漁を非難したアカデミー賞受賞映画「ザ・コーヴ」が右翼団体の妨害で次々と上映中止になっていた。日本や日本人が欧米の映画で偏見を持って表現されることは以前からあったのだが、近年、そういう映画は日本では上映自体ができないことが多い。ただ、日本を批判しているから上映するのは「反日的」だなどと映画館に街宣攻撃をかけて中止させてしまうというやり方はおかしいだろうと、『創』では映画「靖国」についても「ザ・コーヴ」についても、上映中止反対のキャンペーンを張り、その年6月9日に中野で自主上映と討論のシンポジウムを開催した。

企画した時点では、その時までに幾つかの映画館で上映が始まっているはずだったのだが、右派グループなどの激しい街宣抗議を受けて次々と映画館が上映中止に至り、その『創』主催の自主上映が初めての大きな規模での公開上映となってしまった。不測の事態もあり得ると、当日は、警察も大挙して会場前に警備につめかけ、会場周辺にパトカーが何台も見られるという緊迫した状況下で上映を行ったのだった。

その上映会のサプライズは、ドキュメント映画の主役であるイルカ保護の運動家・リチャード・オバリーさんが、上映後のシンポジウムの冒頭、突然登壇するというものだった。事前に告知すると混乱は必至なので、文字通りサプライズで、映画が終わった直後に映画に出ていた人物が舞台に現れるという演出だったのだが、そのオバリーさんは登壇するや、観客席に向かってパネルを掲げたのだった。私は当日の司会進行だったので、彼が何かパネルと手に持っているのは知っていたのだが、説明を聞いて驚いた。

そこには日本国憲法21条、つまり「表現の自由」条項が書かれていたのだった。日本にはこういう憲法条項があるはずじゃないか、というのが彼の主張だったが、私は隣でそれを聞いていていたたまれない気持ちになった。外国人にそんなふうに憲法の教えを説かれるというのは、日本人としてものすごく恥ずかしいことだと思えたからだ。

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その時、思い出したのは、憲法にある別の文言、それらの自由と権利を我々は「不断の努力によって保持しなければならない」という表現だった。全世界で公開されている映画を日本だけが公開できないという事態は、まさに「表現の自由」が不断の努力によって保持されてこなかったから起こったことだった。そういう日本人として大事なことを、今まであなたたちはやってこなかったじゃないか、外国人にそう言われた気がした。

ちなみに付記しておけば、その集会には一般客として映画を非難していた右翼の人たちも会場に入っていた。なかにはロビーで上映中止を訴えるビラをまく人もいたが、上映会の主催者として我々は、暴力に訴えない限り、開催趣旨と反対の言論も表明する自由は認めようという告知を行った。その右翼のビラは予想以上にさばけたといって、その人は途中の休憩の時に近くのコンビニに増し刷りに行くなど、主催者側からすれば「おいおい」と言いたくなる状況で、しかも終了後の打ち上げにも右翼が参加し、シンポジウムのパネラーだった鈴木邦男さんを含め、飲み屋で議論が交わされたのだった。

最近の安保法案をめぐる状況を見るにつけ、またこの何年か、安倍政権を批判したり、憲法を守ろうという趣旨の集会が会場使用中止などの事態に至ったりする動きを見るにつけ、その集会で感じたこと、つまり私たちは憲法で保障された権利を不断の努力によって守ろうとしてきたのか、ということに忸怩たる思いを禁じ得ない。表現の自由も、基本的人権も、その努力なしにはいつか危うくされてしまいかねないという畏れがあったからこそ、憲法作成者は「不断の努力」を条文に書き込んだのだろうが、私たちはその起草者の思いに応えてきたのだろうか。そんなことを改めて思わざるをえない。

そんなことを、8月15日をめぐる動きを見ながら考えた。TBSなど幾つかの戦争に関する番組には、力のこもった良い作品があったし、籾井会長経由で安倍政権の侵食を受けているNHKでもNHKスペシャルなどこの何か月か放送された番組には、戦争について問い直す良い番組も少なくなかった。たぶん報道や表現の現場にいる人たちも、今、ある種の覚悟を迫られる状況に至りつつあることを感じているのだろう。

このままでは議席数に物を言わせて安保法案が成立してしまう怖れがある。ただ、あきらめるにはまだ早い。これまで『創』でコミック表現をめぐる規制の動きなどを度々取り上げてきて実感しているのだが、都議会での最終局面で都庁にたくさんの人が集まり反対の声をあげたり、共謀罪新設法案の審議の時も国会にたくさんの市民が集まって声をあげたのだが、そういう現場にいると、議席数がどうのという理屈を超えた熱気を感じざるをえないし、それは必ず事態の進展に何らかの影響を及ぼす。議席数からいくと通ってしまうと最初から言われながら実際には継続審議や廃案になったケースもこれまでにはある。その意味では、日本の民主主義はまだ死滅してはいない。

実際、この間の安保法案をめぐる様々な動き、大学で次々と反対の声があがったり、高校生まで街頭に立つというのは、この何年かの日本の政治状況では考えられないことだった。創価学会会員が安保法案に公然と反対の声をあげはじめたことだって、想定外の大きな動きだろう。今の安倍政権を見ていると、格差はものすごい勢いで拡大しているし、原発再稼働やら武器輸出やらと、本当に日本人の誇りはどこへ行ってしまったのかと、暗澹たる気持ちにならざるをえないのだが(しかもそれを日本人の誇りを取り戻すといったロジックで推進しているから安倍政権は度し難いのだが)、状況はかなり深刻でもあきらめるのは早いと思う。

今年は8月15日の靖国神社に足を運んでいろいろな思いが胸を去来した。9月へ向けてこれからが正念場だ。

最後に、前述した、学生たちと現場を見に行くというのは、毎年8月に『創』で開催している夏季実践講座というもので、この後、20日にイスラム寺院を訪れてイスラム教の人たちと議論をするし、25日には新大久保のコリアンタウンを訪れ在日コリアンと話をする。いま日本社会の問題を象徴する現場を訪ねて議論し、それを記事に書くという試みだ。学生はもちろん社会人も今からでも参加可能なので、関心ある人はぜひ一緒に考え議論してほしい。詳細は下記をご覧いただきたい。

http://www.tsukuru.co.jp/masudoku/kouza/kakijissen.html

月刊『創』編集長

月刊『創』編集長・篠田博之1951年茨城県生まれ。一橋大卒。1981年より月刊『創』(つくる)編集長。82年に創出版を設立、現在、代表も兼務。東京新聞にコラム「週刊誌を読む」を十数年にわたり連載。北海道新聞、中国新聞などにも転載されている。日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長。東京経済大学大学院講師。著書は『増補版 ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)、『生涯編集者』(創出版)他共著多数。専門はメディア批評だが、宮崎勤死刑囚(既に執行)と12年間関わり、和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚とも10年以上にわたり接触。その他、元オウム麻原教祖の三女など、多くの事件当事者の手記を『創』に掲載してきた。

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