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「黒子のバスケ」脅迫犯が獄中で最近書いた元少年A「絶歌」論

篠田博之月刊『創』編集長
『絶歌』と『生ける屍の結末』

このヤフーニュースブログ個人で「黒子のバスケ」脅迫犯・渡邊博史受刑者の文章を公開するのは約1年ぶりだ。2013年から14年にかけては相当なペースで事件の経緯や彼の意見陳述を公開したが、渡邊受刑者の刑が確定して服役してから約1年間は、彼の消息はほとんど不明となった。実はその間ももちろん私は刑務所にいる彼と手紙のやりとりを続けていたのだが、このたび約1年ぶりに彼の手記を月刊『創』に掲載した。そして本人の希望もあって、彼が元少年Aの『絶歌』について書いた獄中手記全文を今回、このヤフーブログに公開することにした。

この私のブログと「黒子のバスケ」脅迫事件との関わりはかなり深い。「黒子のバスケ」関連イベントが次々と中止に追い込まれた脅迫事件当時の2013年10月に犯人からメッセージが届いた時、ちょうど私はこのヤフーブログに関わることになったため、彼からの手紙をリアルタイムで公開していった。当時、犯人は犯行をエスカレートさせてコンビニに毒入り菓子を置き、コンビニが一斉に商品を撤去、その後、脅迫状を受けて「黒子のバスケ」関連のマンガやDVDがツタヤや書店から撤去されるという社会問題に至った。犯人としても警察がアパートに踏み込んだらその場で自殺するために硫化水素を用意し、死を賭けて警察との攻防戦の最終局面に突入していった時期だった。

犯人は犯行声明を新聞・テレビに送るとともに、警察に遠慮することなく報道を行ってくれるメディアとして『創』を選び、独自のメッセージを次々と送ってきたのだった。例えば10月23日の2通目の手紙など、内容をアップした2時間後に警視庁の刑事が飛んできた。なぜならばそこには犯人が毒入り菓子を置いた店名が書かれていたからだ。駆けつけた刑事に私は犯行声明のコピーを渡したのだが、後に明らかになったのは、その何時間か後に実際に毒入り菓子が発見されていたことだ。同時にそのコンビニの防犯カメラの画像も捜査の重要証拠となった。

http://bylines.news.yahoo.co.jp/shinodahiroyuki/20131023-00029155/

当時書いたブログ記事が上記だが、警察は捜査内容を極秘にしていたため、このブログ記事によってそんなふうに事件が動いていたことはその頃は私も知らなかった。

その後12月に警視庁は容疑者を逮捕。私は2日後に彼と接見して、初めて彼がどういう人物だったか知ることになった。その後、彼が獄中で書いた意見陳述などが大きな社会的議論になったことは周知のことだ。

http://bylines.news.yahoo.co.jp/shinodahiroyuki/20140718-00037501/

将来に何の希望も持てないまま、もう死んでもいいと思っている「無敵の人」と自身を規定し、自分のこれまでの半生を法廷で赤裸々に訴えた彼の主張は、大きな反響を呼んだ。それらの全経緯は創出版刊『生ける屍の結末 「黒子のバスケ」脅迫事件の全真相』に収録されている。

http://www.tsukuru.co.jp/books/

さて、それから約1年。今回、渡邊受刑者が関心を持ち、かなりのエネルギーを投入して書き上げたのは、神戸児童殺傷事件の元少年Aが出版した『絶歌』についてだった。既に社会的批判を含め、多くの論評がなされている『絶歌』だが、渡邊受刑者のアプローチは彼ならではの独特なものがある。刑務所で服役しながら書いたその論考を発売中の『創』12月号に掲載したが、ここにも全文公開することにしよう。文中の小見出しは読みやすくするために編集部が入れた。

「黒子のバスケ」脅迫犯が書いた「絶歌」論

●「絶歌」で最も非難を浴びた一節

こんにちは。黒バス事件犯人の渡邊博史です。大きな騒動となっている『絶歌』について自分なりの意見を述べさせて頂きます。あらかじめ申し上げておきますが「犯罪被害者及びその遺族は神聖にして侵すべからず」というポリティカルコレクトネスに抵触する内容となります。それが許せないという方は読まれない方がいいかと存じ上げます。

当初は出版それ自体や匿名出版、印税の受け取りなどの是非も取り上げようと思っていましたが冗漫になりそうなので見送ることにしました。

今回はある一点に絞って書かせて頂きます。

〈――なぜ人を殺してはいけないのか?――(中略)

大人になった今の僕が、もし十代の少年に「どうして人を殺してはいけないのですか?」と問われたら、ただこうとしか言えない。

「どうしていけないのかは、わかりません。でも絶対に、絶対にしないでください。もしやったら、あなたが想像しているよりもずっと、あなた自身が苦しむことになるから」〉(元少年A『絶歌』太田出版282頁)

世の中からごうごうたる非難が浴びせられているこのくだりの是非です。恐らく最も多いのは「苦しむのはてめえじゃなくて遺族なんだよ!」という趣旨の批判だと思います。自分はその批判には同意できません。その理由をこれから述べて行きたいと思います。

防犯の施策は犯罪者の我が身かわいさに依存しています。警官の増員や防犯パトロールの強化、監視カメラの設置などは「悪さをしたら必ず捕まえるぞ!」、厳罰化は「必ず長くムショにぶち込む(死刑にする)ぞ!」という犯罪者に対する恫喝です。「捕まるのも、ムショ暮らしも、死刑もイヤだ!」という犯罪者の我が身かわいさによって成立しています。

少年少女による動機不明(あるいは理解不能)の殺人事件は、数は多くないものの、神戸連続児童殺傷事件以降も発生し続けています。これは一般的な防犯の施策がこの手の犯罪には効果がないということです。なぜ効果がないのか? それはその手の犯罪の担い手たちが我が身かわいさを持っていないから、捕まっても死刑になっても構いやしないと考えていたり、あるいは逮捕後のことなど何も考えていなかったり、あるいは考えられなかったりするからです。

人間は面倒臭い生き物で、

1、養育者などから思いやりを以て接してもらう

2、結果として我が身かわいさを身につける

3、それが発展して他者への思いやりを身につける

という段階を経ないと正常な情緒を持てません。幼少期の生育環境に問題があったりすると1がありませんから、必然的に2も3も欠如した犯罪傾向の強い人間ができ上がってしまうのです。これがいわゆるサイコパスと呼ばれるタイプの人間だと2も3もないどころか情緒そのものの欠損とでも表現すべき状況ですので、物凄く犯罪傾向が強くなってしまうのです。

脳科学の進歩のお陰でサイコパスは単なる「異常性格者」なのではなく、「原因は不明だが脳の一部に機能障害があって、そのせいで情緒に欠陥が生じている人」ということが判明して来ています。つまり立派な病気なのです。

自分が留置場で暮らしていた頃のことです。実刑が確実な状況の若い窃盗犯にベテランの警官が教え諭すように「どうせ反省なんかしないんだから、刑務所では刑務官さんの言うことをよく聞いて、一日でも早く外に出られるように頑張りなさいよ」と言いました。この「どうせ反省なんかしないんだから」という言葉は「基本的に反省する奴なんかまず居ない」というベテラン警官の相場感を表したものです。自分はこの相場感に完全に同意します。

刑務所生活を始めてから自分は多くの同囚と話をしましたが、反省している人など見たことがありません。これは自分だけではなくベテランの同囚も同じことを言っていました。「もう絶対に悪いことはやらない」と言っている同囚も居ましたが、その理由は「刑務所がつらくて、もう二度と来たくないから」か「家族に申し訳ないから」です。「反省したから」でも「被害者に申し訳ないから」でもありません。

人間は懲りこそすれ、そうそう反省などできない生き物なのです。性格に可塑性があるのは遅くても思春期まででしょう。幼少期に体得し損ねた他者への思いやりを改めて身につけるのは限りなく困難だと思います。

●社会防衛の観点から大切な再犯防止

自分がご厄介になっている刑務所はA級(初犯かつ短期刑の受刑者向け)です。同囚の大多数は恐らく少し性格傾向に問題があって規範意識が低いくらいの人たちです。重篤な人格障害罹患者やサイコパスはまず居ないと思います。この程度の犯罪傾向の軽い人たちでも反省できないのです。

よってそもそも脳の機能障害由来の病気であるサイコパスに反省を求めること自体が無理筋であるように自分には思えてなりません。それでも大罪を犯したサイコパスに他者への思いやりを獲得させ、それに基づいて被害者への贖罪意識を目覚めさせるというスキームに則った矯正教育を施したという事実それ自体には意味があることかもしれません。ただし教育を受けるサイコパスが無期懲役囚か死刑囚である場合に限られます。社会復帰の可能性が(ほぼ)ありませんから、効果がなくてもさして悪影響がないからです。

しかしA氏のように少年という理由だけで半永久的な国家による庇護(=無期懲役)も、国家による地獄のような生からの解放処置(=死刑)も受けられずに、娑婆に放り出されてしまう気の毒この上ない重大前科持ちのサイコパスも存在します。このような事態を前に昨今の世論が何よりも重視する社会防衛の観点から最も大切なことは「反省」ではありません。何はともあれ「再犯防止」です。

人間というのは実に利己的な生き物です。我が身かわいさと他者への思いやりが欠如している人間でも、周囲が適切な対応を取れば我が身かわいさならば後天的に身につけさせることはわりと容易ではないかと思われます。A氏に対して施された矯正教育も、まずは我が身かわいさを身につけさせ、そこから他者への思いやりや贖罪意識を持たせるというスタンダードなスキームであったろうと推察されます。

これで人間の悲しさか我が身かわいさまでは身についたものの、そこから先はあまり上手く行っていなかったという現実が露わになったというのが現下の騒動であると思います。あけすけに申し上げれば「世の道学者先生たちを納得させるような形で反省できてねーのは当たり前じゃねーか。だからサイコパスなんだよ。何を大騒ぎしてんだか」というのが、今回の騒動に対する犯罪加害者としての自分の率直な感想です。

仮にA氏が死刑囚で、執行までの待ち時間を使って書いて発表した手記の内容が酷いという事態でしたら、世の道学者先生たちが大糾弾祭りで盛り上がればいいかと思います。しかし現在、A氏は娑婆にいます。再犯の恐れを理由にA氏を予防拘禁にもできないからには、何としてもA氏に再犯を自主的に思いとどまって頂くしかありません。

ここで唯一、頼りになるのがA氏が矯正教育を通じて得た我が身かわいさです。「再犯をしたらしょぼい罪でも法定最高刑での懲役だよな。殺人なんかやっちゃったら死刑確実だよな。そんなのは絶対にイヤだ!」という我が身かわいさ一心から、A氏には犯罪とは無縁に残りの人生を全うして頂くしかありません。これだけがA氏の再犯を防げる最も現実的なシナリオです。

●元少年Aの回答は体験者ゆえに実践的だ

残念なことに世の中には他者への思いやりがどうしても持てない人間が存在するという現実があります。そのような人間に対して、他者への思いやりに基づいた反省をひたすら迫り続けることは犯罪防止に役立ちません。唯一、思いとどまらせる可能性があるのが「やらかしたらあなたも苦しむよ」と我が身かわいさに働きかける言葉なのです。

ですからA氏が「なぜ人を殺してはいけないのか?」と問う少年に「あなた自身が苦しむことになるから」と答えたのは犯罪防止の実効性という観点からすると全く正しいのです。さすが体験者だけあって回答が実践的です。ですからA氏が今さらながら社会貢献をする気があるのなら世の素行障害(=サイコパスの児童版)の殺人志望の少年少女に「人を殺したら本当に苦しむことになるよ」というメッセージを一生涯をかけて語りかけて欲しいと思うのです。

「けしからん!」と憤られる向きも多いかと思われます。そんなお歴々に自分は「なら遺族感情やら命の尊さやら実効性に乏しいお題目を聞かされた少年少女たちがそのまま犯行に至ってしまうのと、「自分が苦しむことになるよ」と聞かされた少年少女が我が身かわいさから犯行を思いとどまるのとどちらがいいんですか?」とお伺いしたいです。

まず何よりサイコパス(及びそこまでは行かないが、他者への思いやりが欠如している人間)が存在することを認めることこそ、少年少女による不可解な殺人事件を防ぐ第一歩です。本当に犯罪を防ぎたいのなら、社会が「被害者が!遺族が!命の尊さが!」という効果のない空念仏をサイコパスにぶつけるばかりの帰結を軽視した現状を脱するべきです。

そして「人を殺すと結局はあなたが損をすることになるよ」という規則功利主義(規則を守るのは、それが最もよい結果になるという思考法)に基づいた効果のある言葉でサイコパスが罪を犯さないように誘導するしかありません。防犯は何が何でも結果を出さないといけないのです。

私見ですが、日本が曲がりなりにも戦後70年間、戦争にあまりかかずらわずにやって来れた理由も「我が身かわいさの反戦平和」とでも呼ぶべき原理が働いたからだと思います。日本人の戦争の記憶は元日本兵たちの「自分たちが軍隊や戦場でいかに酷い目に遭ったか」、外地の邦人たちの「引き揚げがいかに困難だったか」、銃後の臣民や少国民たちの「原爆・空襲・機銃掃討がいかに大きな被害をもたらしたか。戦後の食糧難と焼け野原からの復興がいかに大変だったか」など「戦争で自分がいかにつらかったか」というストーリーばかりが流通しています。

「なぜ戦争をしてはいけないのか?」という問いに「戦争をすると自分が苦しむことになるから」と答え続けたのが日本の平和主義の根本でした。これがもし「アジア諸国の人々を苦しめたから」というストーリーが戦争の記憶でしたら、恐らく昭和30年代には国民の圧倒的な支持の下に9条改憲と再軍備が実現していただろうと思います。

くどくどと書いて来ましたが、いよいよ結論です。「どうして人を殺してはいけないのか?」という問いに対する「あなた自身が苦しむことになるから」という回答。それに対する「苦しむのはてめえじゃなくて遺族なんだよ!」という批判に対する自分の批判は「犯罪防止という観点からはA氏の回答は全く正しいです。『遺族』という言葉では殺人志望の少年少女を思いとどまらせることはできません」というものです。

●世論はA氏の再犯を期待しているのではないか

今回の駄文を書くに際しまして、ささやかな量ながらも資料を独房にまで取り寄せました。それらの中に某月刊誌に掲載された「絶歌」の出版自体も内容も徹底批判している論文がありました。特に目新しい内容でもありませんでしたが、自分はタイトルが気になりました。タイトルは「少年Aの自己愛、私は絶対に許さない」でした。自分にはそのタイトルが「Aは再犯しろ!」という意味にしか思えませんでした。その理由はこれまで書いてきた通りです。しばらく考えてみて、世論はA氏の再犯を期待しているのではないかという結論に至りました。

日本人の大多数は根本で「Aが死刑にならずに、まだ生きていることが納得できない!」と認識していると思います。「絶対に許さん!」「Aには人間の心がない!」「今すぐ『絶歌』を発禁にしろ!」と喚いている向きは「絶歌」の内容に激昂しているのではありません。「絶歌」の出版により改めて突き付けられたA氏がまだ生きているという現実に激昂しているのです。

90年代後半以降、何かにつけて諸悪の根源とばかりに罵倒され、漸進的にチビチビと改定されてきた少年法ですが、日本人の大多数が必要と考える神戸事件の教訓に基づく改定がまだ行われていません。それは18歳未満への死刑適用です。「またAみたいなガキが出て来たらどうすんだよ!また死刑にできねーのかよ!そんなんなら裁判制度なんか要らねーよ!」というのは、市民の素朴な正義感(笑)に基づく率直な感想だと思います。

前出の某月刊誌に掲載されていた別の筆者の論文には以下のような記述がありました。

「成人だったら死刑になっていた少年を、少年院で教育・保護して更生させ、そして社会が、死ぬまで彼を再犯なしに立派に生きさせることができるか。これは世界にも類を見ない挑戦です。もし成功すれば、その時こそ本当に、日本の少年司法の勝利と言っていい」

大多数の日本人からすれば、こんな少年司法など完膚なきまでに叩きのめされて、敗北しなければなりません。人を殺した少年が、遺族の感情回復と社会防衛という最優先の目的に絞ってちゃんと死刑になることこそが大多数の日本人にとっての正義(笑)の実現と少年司法の勝利なのです。

●犯罪加害者としての自分の感想

しかし、18歳未満への死刑適用を禁じた少年法第51条の改定は、とてもハードルが高いのです。なぜなら51条は国際人権規約と子どもの権利条約という日本がうっかり締結してしまっている国際条約を根拠にしているからです。もし51条を改定するなら、この二つの条約との整合性を確保する必要があります(内閣法制局が「条約違反ではない」という結論を強引に捻り出しそうな気もしますが)。

条約を破棄し、関連箇所を留保の上で再批准するというのが(法技術的にもっと上手いやり方が他にあるのでしょうが)最も筋が通っているでしょう。政府が本気になればやれないこともないでしょうが、国際的なインパクトを考えればかなり難しいと思います。もしやれるとしたら、圧倒的な多数世論が改定断固支持の立場から日本政府を突き上げるくらいの状況が必要不可欠です。

A氏が生きているという現実、加害者の更生ばかりを重視する腐り切った少年司法、国際条約を口実に18歳未満への死刑適用のための法改定をサボタージュし続ける日本政府。これらを一挙に解決へと導く方法があります。それはA氏による(殺人の)再犯です。

もしA氏が(殺人の)再犯をすれば、間違いなく死刑でしょう。まずはA氏がまだ生きているという不快な現実が消滅します。さらに「そもそも神戸事件の時にAを死刑にしなかったから、こうなった!」という世論の激昂が、いよいよ少年司法をラディカルに改正(笑)させることでしょう。その改正(笑)には51条改定も含まれることでしょう。世論に包囲された日本政府も国際条約の軛を脱すべく行動することを余儀なくされるのは必定です。自分にはこのような事態の帰結を世論が期待しているように思えてなりません。

以上が一連の騒動に対する犯罪加害者としての自分の感想です。最後まで読み通して頂けた方には心より感謝を申し上げます。ありがとうございました。

〈参考資料〉

香山リカ「元少年A『絶歌』を読んで」『創』2015年8月号

佐藤優「元少年Aの手記出版をどう見るか」同

井垣康弘「元少年A『絶歌』に書かなかった真実」『文藝春秋』2015年8月号

奥野修司「少年Aの自己愛、私は絶対に許さない」同

http://www.tsukuru.co.jp

月刊『創』編集長

月刊『創』編集長・篠田博之1951年茨城県生まれ。一橋大卒。1981年より月刊『創』(つくる)編集長。82年に創出版を設立、現在、代表も兼務。東京新聞にコラム「週刊誌を読む」を十数年にわたり連載。北海道新聞、中国新聞などにも転載されている。日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長。東京経済大学大学院講師。著書は『増補版 ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)、『生涯編集者』(創出版)他共著多数。専門はメディア批評だが、宮崎勤死刑囚(既に執行)と12年間関わり、和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚とも10年以上にわたり接触。その他、元オウム麻原教祖の三女など、多くの事件当事者の手記を『創』に掲載してきた。

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