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「ベッキー」スキャンダル報道、本当にこれでよいのか?

篠田博之月刊『創』編集長

スキャンダル報道の嵐を受けて、ベッキーの所属事務所が2月5日夜、彼女の休業を正式に発表した。スキャンダル勃発直後から出演CMのオンエア停止、レギュラー番組を次々と休業、そして今回の休業発表となったわけだ。この間、芸能界で最初は彼女をかばう発言をしていた友人も、バッシングが吹き荒れるなかで沈黙を強いられ、いまやベッキーは全く孤立してしまった。

彼女自身が今後、この逆境をどう乗り越えるかは本人個人の問題だが、1カ月に及ぶ一連の報道を見ていて、いささか疑問を感じざるをえないので、それについて書いてみたい。

まず今回のベッキー騒動とは何だったのか、ということだが、一言で言えば復讐劇だろう。このスキャンダルが圧倒的インパクトを持って広がったのは何といっても、彼女が「ゲスの極み乙女。」のボーカル・川谷絵音と交わしたLINEのやりとりが丸ごと公表されたためだ。

LINEの中身が流出した経緯についてはあれこれ議論がなされたが、常識で考えて、川谷の関係者が関与したとしか考えられない。『週刊文春』1月14日号のスキャンダル第一弾では、LINEのやりとりは「川谷の将来を憂うある音楽関係者から」入手したと書かれていた。なかなか意味深な表現だが、多くの人はそれを川谷の妻と考えている。編集部に最初に連絡した時にはもうひとり誰かが介在したかもしれないが、第2弾でその妻本人も登場するし、情報源は妻と考えるのが妥当だろう。

一連の報道でわかったのは、川谷は昨年10月21日にベッキーがイベントに訪れて交際を始め、11月21日には妻に離婚を切り出している。その間、ふたりが食事などをしていることを妻も知っていて、離婚を切り出された時に「ピンときた」と第2弾の記事で答えている。そしてクリスマスを機にベッキーと川谷の関係は急進展し、12月25日に川谷は再び妻に「大事な人がいる」と離婚を迫った。妻はその時のことをこう話している。

「彼女の名前は最後まで明かしませんでしたが、私にはベッキーさんとしか思えませんでした」

入籍して1年でこの仕打ちにあっては、妻がプライドを傷つけられ、怒るのは当然だろう。そして、精神的においつめられ、夫と新しい女性との関係について探ろうとするのも自然だろう。そして夫のLINEでのやりとりを見て、許せないと考え、復讐を考えたとしても不思議ではない。確証があるわけではないが、多くの人がそういう推測をしていると思う。そう推測したうえで、その妻に同情し、川谷とベッキーがマスコミ報道で追い詰められていくのを容認しているというのがこの間の経緯だろう。

妻が夫やその愛人に復讐すること自体は理解できないことはない。しかし、ひとつ疑問に思うのは、LINEのやりとりというプライベートなものを今回のように報道機関が公開することの是非だ。うわーすごい、ここまで公開されてるよ、と面白がって眺めていてよいのだろうか。 

ベッキーが追い詰められていく過程で致命的だったのは、6日の釈明会見であくまでも友達ですと発言しながら、その直前にLINEで川谷に「友達で押し通す予定!笑」と伝えていたことが暴露されたことだ。この「笑」はたぶん、追い詰められている過程で自分と川谷を鼓舞するためになされた作り笑いだろう。ところがそれが『週刊文春』で報じられると、会見で嘘をついたとんでもない女という印象で流布される。

我々はプライベートな場面では、それがそのまま公開されたらとんでもないことになりかねない発言をしているものだが、これまではそれが公のメディアに載るという場合には、記者や編集者によるある種の判断のふるいにかけられた。今回の『週刊文春』も、LINE上のやりとりを誌面にどの範囲でどう出すか、検討はしたに違いない。そして、今回の場合はプライバシーが流出したからといってベッキーや川谷が法的手段に訴えるといった状況になる可能性はほとんどないと判断したのだろう。

ここで思い出されるのは、1980年代半ばに写真週刊誌が大ブームになって、毎週のようにタレントのプライバシーがさらされていた時代、読者はそれを眺めて拍手を送っていたのだが、時代を経て次第にそのことに眉をひそめるようになっていったという歴史的経緯だ。30年前は読者が他人事として面白がって見ていたものが、そのうちにこんなふうにプライバシーが侵害されるのを許しているとそれがいつか自分の身にもふりかかりはしないかと、もう一方の側にも身を置いて考えるようになった。30年の歴史を経たその経過を私はある種の市民社会の成熟だと捉えているのだが、それにならって言うと、今回のLINE流出を市民が面白がって眺めていてよいのかと思わざるをえないのだ。

たぶん今回は、ひどい目にあった妻に同情するという市民感情が加わったために、そこまでやって復讐するのかという疑問が薄められてしまったのだろう。でも、よく考えてみれば、携帯でやりとりした私的会話がそのままこんなふうに公開されるということ自体、慄然とする事柄ではないだろうか。

ではそういう方法はどういう状況なら許され、どういう場合は許されないかというと、ジャーナリズムの世界では、その目的が権力者の不正を暴くといったものならOK、そうでない場合はまずい、という線引きがなされている。その意味では、『週刊文春』が最近放った甘利大臣スキャンダルの場合は、昨年10月から尾行や盗撮といった方法で取材を行っていたけれど、それは巨悪を暴くためとして当然容認される。しかし、ベッキースキャンダルの場合は、少し違う。何をやっても報道目的を考えれば容認されるというケースではないわけだ。

だからこのベッキースキャンダルにおけるLINE暴露については、もう少し異論が出され、議論が行われてしかるべきだと思う。なぜそれが見逃されてしまうかというと、ネット社会が拡大する過程で、プライベートと公の区別が曖昧になりつつあるからだろう。

本当はこのベッキースキャンダル報道をめぐっては、考えてみなければいけないいろいろな問題が提起されているように思える。現実には、なかなかそういう議論がなされないのが残念だ。

それからもうひとつ、芸能人のスキャンダルを報じるにあたって、週刊誌やワイドショーが、不倫問題となると、異様にいきりたち、正義や倫理を振りかざしてこれでよいのかという論調を張るのも、どうにも違和感を感じる。プライバシーに踏み込む危ない報道をする場合にも、「不倫はいけない」と声高に非難する「茶の間の倫理」がふりかざされることで全て正当化されような雰囲気になってしまう。ワイドショーは主な視聴者層が主婦だから、最後は「茶の間の倫理」を落としどころにしないといけないというのは業界でよく言われることだが、今回のスキャンダル報道にもそういう匂いを感じざるをえない。

月刊『創』編集長

月刊『創』編集長・篠田博之1951年茨城県生まれ。一橋大卒。1981年より月刊『創』(つくる)編集長。82年に創出版を設立、現在、代表も兼務。東京新聞にコラム「週刊誌を読む」を十数年にわたり連載。北海道新聞、中国新聞などにも転載されている。日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長。東京経済大学大学院講師。著書は『増補版 ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)、『生涯編集者』(創出版)他共著多数。専門はメディア批評だが、宮崎勤死刑囚(既に執行)と12年間関わり、和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚とも10年以上にわたり接触。その他、元オウム麻原教祖の三女など、多くの事件当事者の手記を『創』に掲載してきた。

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