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日清食品CM中止騒動が投げかけた問題とは何なのか

篠田博之月刊『創』編集長

3月30日からオンエアされた日清食品「カップヌードルリッチ」のCMがわずか1週間で打ち切りになった事件は、ネットを中心に大きな話題になった。CM中止がこんなふうに話題になったのは久々だ。CM中止自体は珍しくないのだが、通常は中止しても視聴者にはなかなかわからない。今回は日清食品がホームページで正式にCM中止とお詫びを公表したため、一般紙も含めて新聞などが報じるところとなったわけだ。

http://mainichi.jp/articles/20160409/k00/00m/040/022000c

http://www.asahi.com/articles/ASJ4844W5J48UCVL007.html

CM放送直後から予想以上の抗議があったことが中止の理由とされているが、それに対して過剰反応だという批判も起きて、中止事件そのものが論議の的となった。比較的わかりやすく論点をまとめたのは東京新聞の4月12日付特報面の記事「『過剰な正義』日清CM中止」だ。茂木健一郎さんの「この程度のCMで中止とは、今の世の中の不寛容の程度が計測できて興味深い」というブログのコメントなどが紹介されている。

CM業界で話題になっているのは、もともとあのCMは敢えて反発を呼び起こすことを狙ったものだったのに、1週間で中止というのはおかしいのではないかということだったようだ。矢口真里さんに「二兎を追うものは一兎を得ず」と言わせ、新垣隆さん二人羽織をさせ、世間の良識に敢えて異を唱え、最後にビートたけしさんが「お利口さんじゃ時代なんか変えられねえよ。いまだ、バカヤロー!」と言う。どう考えても、議論を巻き起こして話題づくりをすることを狙っていたのは明らかだ。プランナーのその意図をスポンサーも了解してオンエアしたはずだったのも明白だ。反発の声が起こることを想定したCMだったのだ。

それがなぜすぐに中止し、わざわざ謝罪まで公表することになったのか。業界関係者の間で言われているのは、社長までは了解していたそのプランに、会長が反発したらしいということのようだ。日清食品は昨年、それまでの社長の息子が37歳の若さで新たな社長に就任。その父親が今回の騒動に怒って、若社長が抗しきれずに謝罪文まで公表することになった、というのだ。ウラのとれている話ではないが、わかりやすい見方だ。

CM中止自体は珍しくないと先に書いたが、これはCMという表現に由来するものだ。もともと商品を売ることや企業のイメージや認知度を高めるためにスポンサーがお金を出して制作する表現だから、それが意に反した受け止められ方をしたとか、抗議を受けたとなると逆にイメージダウンになる。別にスポンサーは表現の自由のために行動するわけではなく、企業としてマイナスだと判断したら中止したり、CMをさしかえる。それを決めるのはスポンサーの「天の声」なのだ。だから、たとえそれが視聴者の誤解に基づく抗議だったとしても、制作者が表に出てきてそれに応えて制作意図を説明するということにはならない。

また視聴者からすれば、映画や出版などと違って、CM表現というのは、いわばテレビを見ていて否応なく目に飛びこんでくる表現であり、その表現が不快だと思う人にとっては我慢できない存在となる。人気CMのランキングが毎年発表されるが、あれは視聴者の好感度調査をもとにしたもので、CMの評価は「快」か「不快」かで判断される。他の表現形態とそこが違う。1980年代から90年代にかけて、女性差別とか黒人差別という抗議によって、CMが次々と中止になった時期に、それはどう考えても過剰自粛ではないかと言われたことがあったが(例えばカルピスのマークまでも黒人差別との批判を怖れて消えていったりした)、CMの制作者が登場して表現をめぐって議論することはありえなかった。本当は今回も、あのCMを制作した人が登場して、意図を説明したりすればもう少し議論ができた気がするのだが、広告の世界で、それは通常ありえないのだ。

ただクリエイターの世界では、あのCMについての意見はあれこれ出ているようで、中止になったという意味で結果的に失敗だったのはどこに問題があったのかという指摘はなされているようだ。世間の良識を逆手にとって疑問を投げかけるという意図はよいとしても、あんなふうに「上から目線」で言われたのでは、CMを見た人が不快に思うだけではなかったのか、矢口真里さんや新垣隆さんが教授として見解を述べるだけでなく、それを最後でひっくり返すような相対化の仕掛けがあれば見ている側も感情的な反発を増幅させることはなかったのではないか、そのへんの作り方がいまいち甘かったのではないかとも言われているようだ。

本当はそういう議論をきちんと行う場があるとよいのだけれど、広告の世界では残念ながらなかなかそういうものができない。それを提唱し、広告にも批評が成り立つはずだと主張していたのが雑誌『広告批評』だったのだが、同誌が休刊し、天野祐吉さん亡きあと、そういう場もなくなってしまった。その意味では、昨年のエンブレム騒動も、本当はプロのクリエイターたちの間できちんと議論すべきだったのだ。単なるパクリと、他の作品にインスパイアされるということの違いといった、広告制作の世界においては大事なテーマを含んでいたのに、まっとうな議論は全くなされなかった。

ただ、今回の騒動で、唯一感心したのは、中止になって封殺された日清食品のCMが、その後もユーチューブで簡単に見ることができたことだ。著作権の観点からいえば問題はあるだろうが、これまで抗議を受けてCMが中止になった時に、議論をしようとしてもその表現を見ることができないというのが一般的だった。差別表現と指摘されて消えていった表現など、それが本当に差別表現なのか、あるいは過剰な自粛によるものなのか、そういう議論も行われなかった。議論しようにも、騒動になった時点ではその表現を見ることもできなくなってしまうのが通常だった。

今回は、少なくとも多くの人が中止されたCMを見ることができたわけで、それゆえに議論も起きたのだと思う。日清食品のCMのシリーズ自体はまだ続くようだから、そのクリエイターの意図を含めて、表現をめぐる議論がもっと深まっていってほしいと思う。

月刊『創』編集長

月刊『創』編集長・篠田博之1951年茨城県生まれ。一橋大卒。1981年より月刊『創』(つくる)編集長。82年に創出版を設立、現在、代表も兼務。東京新聞にコラム「週刊誌を読む」を十数年にわたり連載。北海道新聞、中国新聞などにも転載されている。日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長。東京経済大学大学院講師。著書は『増補版 ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)、『生涯編集者』(創出版)他共著多数。専門はメディア批評だが、宮崎勤死刑囚(既に執行)と12年間関わり、和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚とも10年以上にわたり接触。その他、元オウム麻原教祖の三女など、多くの事件当事者の手記を『創』に掲載してきた。

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