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6月8日、池田小事件15年のこの日に、無差別殺傷事件について考える

篠田博之月刊『創』編集長
映画「葛城事件」の落書きされた家

6月8日、宅間守死刑囚(既に執行)が大阪教育大附属池田小学校に押し入り、児童らを無差別に殺傷した事件から15年を迎えた。6日付の東京新聞を始め、新聞はこの間、遺族の15年間を振り返る特集を掲載している。理不尽な形で家族を失った者にとっては、心の整理は何年たってもつかないものだろう。殺害された8人の児童の冥福を祈りたい。そして同時に、社会への怨み(ルサンチマン)を背景にした無差別殺傷事件について改めてここで考えてみたいと思う。

そんな気になったひとつの理由は、6月18日から公開される映画「葛城事件」の関係者から資料などを送られたからだ。

この映画は、池田小事件をモチーフにしたものだが、実際にあった幾つかの事件が参考にされている。パンフレットには『黒子のバスケ』脅迫犯の意見陳述も参考にしたと書かれている。どうやら私が5月3日付でこのヤフーニュース個人のブログに書いた『黒子のバスケ』脅迫事件の渡邊受刑者に面会した話を、映画関係者が目にしたらしい。

http://bylines.news.yahoo.co.jp/shinodahiroyuki/20160503-00057344

この映画についてはその前から試写の案内をもらっていたのだが、忙しくて行けないでいた。でも届いた資料を見て、「え、そうなのか」と思った。さっそく渡邊受刑者には「君の事件を参考にした映画が公開されるらしい」と手紙を書いた。確かに無差別殺傷事件で死刑判決を受けた青年が面会室で語るセリフには、渡邊受刑者が語った内容が反映されていた。

ただこの映画に出てくる実話の反映はそれだけではない。例えば映画の冒頭に出て来るシーンは、和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚の実話にそっくりだ。死刑囚の家だというので心無い人たちが「人殺し」「死ね」などと壁いっぱいに落書きしたのを、三浦友和さん扮する父親が消すシーンから映画は始まる。

ちょっと驚いたのは、その映画に出て来る落書きされた家の壁が、私が実際に見た林さんの自宅にあまりにも似ていることだ。このブログの冒頭に掲げたのはその映画に出て来る家を映した映画のパンフレットだが、私が撮影した林家の落書きもアップしておこう。映画の方は赤堀雅秋監督の想像力の産物なのだろうが、2階建てであることも含めて本当にそっくりだ。

林眞須美さん宅一面に書かれた落書き
林眞須美さん宅一面に書かれた落書き

林眞須美さんの自宅に、私は事件のあった1998年に何回か行っている。玄関を入るとすぐのところに大きな水槽が置かれ、南米産の巨大熱帯業が泳いでいた。初めて林家を訪れる人はたぶんそれを見て皆びっくりしたと思う。その玄関は「豪邸」と言われた林家を象徴するものだが、事件の後、両親が逮捕され、子どもたちが児童施設に送られて無人となったその家の壁には、「死ね」といった落書きが2階の壁までびっしりと書かれ、最後は放火されて全壊する。

私が訪れたのは1999年5月、和歌山地裁で第1回公判が開かれた日だが、その落書きのすさまじさは、集団リンチという印象に近いものだった。「無罪推定」どころか裁判の始まる前に、林家は呪われた家族として制裁を受けていた。その荒涼とした光景に、私は戦慄を覚えたものだ。その「荒涼」「荒廃」は、平成になって目につく無差別殺傷事件の持つ印象と地続きであるように見えた。

映画「葛城事件」は監督自身が語っているように、幾つかの事件を参考にして作られている。ベースになっているのは前述したように池田小事件だ。無差別殺傷事件を起こす男性の兄は自殺し、父親は権威主義的。死刑囚となった彼に、死刑反対を唱える女性が現れ、獄中結婚するというシチュエーションも実際の宅間死刑囚と同じだ。その女性に向かって死刑囚が語る象徴的なセリフも宅間死刑囚と同じだし、処刑の朝に拘置所から訪れた係官に女性が「今朝、きれいに逝きましたよ」と告げられるシーンも実話そのままだ。

犯行現場が土浦無差別殺傷事件の金川真大死刑囚(既に執行)のケースに置き換えられているのは、小学校に押し入って子どもたちを無差別に殺戮するという宅間死刑囚の犯行があまりに残虐すぎて観客が正視できないからではないかと思う。

そのほかにもこの映画には、実話があちこちに挟まれている。例えば死刑囚と面会した女性との間に交わされる、ワッフルを差し入れたという話は、私が連続幼女殺害事件の宮崎勤死刑囚(既に執行)と交わしたもので、たぶん拙著『ドキュメント死刑囚』を読んでくれているのだと思う。

ネットでもこの映画について、池田小事件を基にしているらしいといった書き込みがなされているが、でも映画はあくまでもフィクションとして描かれているものだから、どのシーンがどの事件をもとにしているといった話は、本来ならあまり大きな意味はないと言える。むしろ、あくまでもフィクションであるにもかかわらず、赤堀監督が実際の事件を随所に描きこむというこだわりを示しているのは何故なのかということの方が重要かもしれない。

監督自身が「こういった現実がわれわれの地続きにある」という想像力を喚起したい、と語っているが、映画に現実の事件を盛り込み、リアリティにこだわったのはそのためではないかと思う。

池田小事件については前掲の拙著でも書いたが、実際に宅間死刑囚と獄中結婚した女性のほかに実はもうひとり、結婚を望んだ女性がいた。彼女と一緒に新幹線に乗って宅間死刑囚の弁護人を訪ねるところから、拙著『ドキュメント死刑囚』の池田小事件の記述は始まる。結局、彼女は宅間死刑囚と結婚せず、もうひとりアムネスティの活動に関わっていた女性が結婚したのだが、私と知り合いだった女性は、小さい頃からいじめにあうなどしてきたこともあって、社会を憎悪して凶行に走った宅間死刑囚を理解できるというのだった。

無差別殺傷事件のニュースに接した時、ほとんどの人は、たまたま自分も居合わせたら巻き込まれていたかもしれないと恐怖を感じる。池田小事件の凄惨なニュースに接した人のほとんどが、もし自分の子どもが同じ目にあっていたらと考えて衝撃を受けたと思う。ほとんどの人が、被害者側に自分を投影し、罪もなく殺された被害者や遺族に思いを馳せて涙を流すはずだ。

しかし、私がその宅間死刑囚との結婚を望んだ女性に話を聞いて驚いたのは、この社会には凄惨な事件の加害者の側に自分を重ねあわせる人もいるのだということだった。そして宅間死刑囚の弁護人から聞いて強く印象に残ったのは、宅間死刑囚に届く手紙の大半は彼を指弾するものだったが、なかにはそうでない人も3割くらいいた、という話だった。「一歩間違えると自分も被害者やその遺族になっていたかもしれない」というのが無差別殺傷事件に対しての大半の感想なのだが、なかには「一歩間違えたら自分も宅間守になっていたかもしれない」という人もいるというのだ。

3割といっても宅間死刑囚のもとへ届いた手紙の3割ということで、社会全体として見れば比率はもっと低いだろう。ただ、そんなふうに「一歩間違えれば私も」と加害者の側に自分を投影する人がいるという現実に想像力を働かさない限り、そうした犯罪は予防できないのではないかという気がする。ジャーナリストとしてそういう想像力を欠いていたことを、私は、宅間死刑囚と結婚を望んだ女性に気づかされたのだった。

加藤死刑囚の秋葉原事件も、金川死刑囚の土浦事件も、宅間死刑囚の池田小事件も、事件の経緯や背景はそれぞれ異なるのだが、何か通底するものがあると思えてならない。そしてそれは死者を出すような残虐な事件にはならなかったのだが、「黒子のバスケ」脅迫事件にも影を落としているように思える。

映画「葛城事件」では主役の三浦友和さんが鬼気迫る演技を見せているのだが、自分でりっぱな家を建てて、それを誇り、子どもに向かって「お前も男なら一軒の家を建てるくらいのことしろ」と説教する。その家族関係と「家」というのは象徴的だ。そんなふうにりっぱな家を建てて、その価値観を子どもたちに強要する父親は、社会的規範の象徴で、それが自分に迫ってくることに対して子どもが反発する。家族内のその葛藤は、やがて凶悪事件に走る男性と社会との関係の縮図でもある。無差別殺傷事件に透けて見える「荒廃」は、犯人の家族関係の「荒廃」であると同時に、私には平成時代の社会の風景であるように思えてならない。

それを感じたのは、私が12年間接した宮崎勤死刑囚(既に執行)の連続幼女殺害事件がちょうど昭和から平成に替わるその変わり目に起きた事件だったからでもある。ちょうどこの間、映画「64-ロクヨン-」が大ヒットしているが、「昭和64年に起きた幼女誘拐事件」というキャッチフレーズを最初に聞いた時、私はそれが宮崎事件のことかと誤解した。そのくらい宮崎事件は、時代の変わり目に起きた事件であることを反映していた。

事件を苦にして投身自殺した父親は、息子にとっては社会的規範の象徴で、親が自殺したと面会室で弁護人に告げられた時に、宮崎死刑囚は「胸がスーッとした」と語る。この「父親への憎悪」という感情は、宅間死刑囚にも共通していた。

宅間死刑囚は、最期まで社会を憎悪し、親を憎悪して死んでいった。秋葉原事件の加藤死刑囚は、裁判においては遺族のいる特別傍聴席に頭を下げ、自分の犯した凶行を謝罪していたが、宅間死刑囚は最期まで謝罪もせず社会を憎悪し続けた。獄中で弁護人に書いた手紙の中で、ガソリンを使えばもっと子どもたちを殺せたのに、とまで書き綴っていた。

そのあまりにも非情で残虐な姿には戦慄を覚えざるを得ない。人間はどうしたらここまで非情になれるのだろうか。それを知りたくて私は、宅間死刑囚の精神鑑定を行った医師にも話を聞きに行った(インタビューは拙著に収録)。

池田小学校できょう6月8日、追悼式が行われたことがニュースで報じられている。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160608-00000006-kantelev-l27

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160608-00000044-asahi-soci

遺族の言葉に改めて胸が痛む。そして、私たちはこうした不幸な事件から何を教訓にしていくべきなのか、と思う。「事件を風化させてはいけない」と語った遺族もいた。無差別殺傷事件を風化させず、そこから我々の社会が何を学び取るべきかという問いはなかなか重たく、難しい。映画「葛城事件」を観たこと、そして6月8日という日を迎えたことで、いろいろなことを考えさせられた。映画「葛城事件」の公式ホームページも紹介しておこう。

http://katsuragi-jiken.com/

と、ここまで書き終えてわかったが、きょう6月8日は2008年に秋葉原事件の起きた日でもあるのだ。これって偶然なのか、すごい日だね。

最後に、ついでに紹介したいが、昨日6月7日に発売された私の編集する月刊『創』7月号は、ちょうど映画の特集だ。「葛城事件」についてはそれに載せるのが間に合わなかったが、社会の実相を切り取る映画をめぐって森達也さんや是枝裕和さん、園子温さんら、いろいろな人が登場し、語っている。ぜひそれも読んでほしいと思う。

画像

http://www.tsukuru.co.jp

月刊『創』編集長

月刊『創』編集長・篠田博之1951年茨城県生まれ。一橋大卒。1981年より月刊『創』(つくる)編集長。82年に創出版を設立、現在、代表も兼務。東京新聞にコラム「週刊誌を読む」を十数年にわたり連載。北海道新聞、中国新聞などにも転載されている。日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長。東京経済大学大学院講師。著書は『増補版 ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)、『生涯編集者』(創出版)他共著多数。専門はメディア批評だが、宮崎勤死刑囚(既に執行)と12年間関わり、和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚とも10年以上にわたり接触。その他、元オウム麻原教祖の三女など、多くの事件当事者の手記を『創』に掲載してきた。

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