欧州震撼「溺死したシリア難民の子ども」の写真から考える日本のメディアの限界、それでも伝えるべきこと
トルコの海岸に、シリア難民のアイラン・クルディくん(享年3歳)の遺体が漂着した一枚の写真が、欧州で難民受け入れをめぐる大きな議論を呼んでいる件、いろいろ考えさせられる。
正直なところ、何故今さら大騒ぎになるのか、という感もある。シリア内戦が近年の紛争の中でも稀にみる悲惨さであることは、言うまでもないことで、その中で、子どもを含むシリアの人々が日々、殺されていることは、報道を見ていれば誰にでもわかることだ。例の写真で欧州の人々がショックを受けた理由には、欧州が難民の受け入れを制限し、アイランくん達シリア難民が密航せざる得なかった、その結果としてアイランくん達は溺れ死んだ、という背景もあるのだろう。ただ、そもそもシリア内戦がここまで酷い状況になったのは、国際社会、とりわけ各大国が己の都合だけで、この内戦に関与しているからだ。米国やサウジなどの湾岸諸国が少なくとも初期段階においてはISIL(いわゆる「イスラム国」)を支援していたことは事実であるし、民間人の上にタル爆弾を落としまくって虐殺しているアサド政権をことあるごとにかばうのは、ロシアと中国、イランだ。こうした大国や周辺国が、本気でシリア停戦のために動いてないからこそ、シリアの子ども達は殺され続けているのである。
写真、ということについても考えさせられる。はっきり言えば、ショッキングさという意味では、アイランくんの遺体の写真は、むしろ生ぬるい方だ(それでも日本のメディアはボカシを入れていたが*)。Googleで”syria victims children”と画像検索してみると、それはもう凄惨な写真が次々と出てくる。だが、おそらくこういう「凄惨すぎる写真」というのは、人々の意識からシャットアウトされてしまうのかもしれない。フェイスブック等のSNSで広がることもあまりないのであろう。
*日本のメディアではボカシが入っているアイランくんの写真は以下リンク先で見ることができる(閲覧注意)。海外メディアでは当然、ボカシなど入れていない。
http://www.todayszaman.com/op-ed_who-killed-aylan-kurdi_398438.html
戦場ジャーナリストである筆者に対しても、日本のメディアは、やれ遺体の写真は使うな、凄惨すぎる写真は難しいだの、戦争をなめているのか?!と憤りたくなるような、馬鹿げたことを言ってくることが少なくない。某民放キー局の番組では空爆現場の血だまりの映像すら使わなかった。そんなメディアばかりだから、一般の人々も凄惨すぎる写真や映像に耐性がないのは、まあ無理はないのかもしれない。だが、日本の人々に知っておいてほしいのは、メディアが報じるよりも、世界で起きていることは、もっと残酷だということだ。
ただ、ジャーナリズムの仕事は人々を怖がらせることではない。戦争の悲惨さを伝え、戦争をなくすために人々が何か行動を起こすきっかけを提供することだ。そういう意味では、いろいろジレンマもあるのだが、Yahoo!の記事で紹介する写真も、日本の人々の許容範囲の写真を選んで使うべきなのかも知れない。昨夏のガザ取材中も、あえてキツすぎる写真は避け、より情緒的な写真を使っていた。今回、アイランくんの写真が大きな反響を得たのも、波打ち際に小さな男の子が横たわっているという、適度に悲惨で情緒的な写真だったから、という面もあるのだろう。
これは余談だが、紛争現場では遺体の写真も撮ることが、当然、多いわけだが、ここ最近は撮り方を筆者なりに気をつけている。ただ損壊した肉体ではなく、その場にいる人々の悲しみ、辛さを撮ろうと心がけている。それは単なる遺体ではなく、命を奪われた人なのだということ、その人が生きてきた証というものを撮るべきなのかな、とも思う。同様に紛争地で負傷した子どもの写真というのも、下世話な言い方をすると、それだけで「使える写真」となるのだが、やはり撮り方はもっと考えるべきなのだろう。
どうしたら、もっと人々に訴えることができるのか、どうしたら戦争をなくすことができるのか、アイランくんをめぐる一連の報道をみながら、筆者もまた、思いを巡らせている。
(了)