Yahoo!ニュース

合掌 チャンピオンたちが愛した人

林壮一ノンフィクションライター
チャンピオンたちが愛して止まなかった方が永眠した。この店の御主人だった

「哀しい…。死の直前まで、包丁を握っていたんだな。おじさんこそ、真のファイターだった」

全日本選手権に8連覇し、ロス五輪に出場したボクサー、荻原千春はそう言って唇を噛んだ。

「心が温まる最高の店だった。料理も本当に美味かった。おじさんと会うのが楽しみだったのに……」

WBA世界ジュニアウエルター級1位の指名挑戦者として、”怪物”アーロン・プライアーに挑んだ亀田昭雄も淋しそうに呟いた。

彼らは、2010年11月に私が上梓したボクシングノンフィクション『神様のリング』(講談社)の登場人物である。出版以来、年に何度かボクシング好きが集い、食事会を催して来た。

渡辺二郎の世界タイトルに挑んだ勝間和雄、第25代日本ライトフライ級王者の本田秀伸、世界にその名を轟かせる名トレーナー、田中繊大なども参加した。

毎回会場は同じ店だった。北浦和の「佐武」。

その店の御主人が先日、永眠した。享年77。

この数年の間に、喉頭癌、舌癌、大腸癌を患い、何度も入退院を繰り返した。もちろん、その間、店は休業となった。それでも我々は、おじさんが笑顔で復帰することを信じ、また店が開く日を待った。休店期間が終わる度に、舌鼓を打ち、酒を飲み、楽しい時間を過ごした。

私も含めて、元ボクサーは不器用なタイプが多い。日々の暮らしで萎れた身体と頭をリフレッシュした。

が、今回<復活の日>はやって来なかった。

「生あるものは必ず通る道だけれど、もう、あの料理が食べられないのかと思うと哀しい。本当に素晴らしい人だったね」(亀田)

「おそらく死期を悟っていたのだろう。最後の瞬間まで店を守り、闘い抜いた。生き方を学ばせてもらったよ。おじさんに出会えて、本当に良かった」(荻原)

ボクシングのチャンピオンたちだけでなく、浦和レッズのファンにも愛された。Redsのホームゲームの日は、赤いユニフォームを着た客で溢れた。また、大宮アルディージャの現役選手や元中央大学サッカー部監督、BリーグのGM、ヤクルトスワローズの方とも、この店で食事をした。小さな居酒屋だったが、御主人がかつて定食屋を営んでいたこともあり、いつも腹いっぱい食べることができた。

因みに私の担当編集者は、ほぼ全員が訪れている。皆が、ファンになった。

本当に料理が旨かったし、おじさんの人柄に惹かれた。

今年はボクシング界からは、モハメド・アリ、アーロン・プライアーが鬼籍に入った。サッカー界ではヨハン・クライフが天に召された。そして…おじさん。

また一人、自分にとってかけがえのない人が、消えてしまった。

合掌

ノンフィクションライター

1969年生まれ。ジュニアライト級でボクシングのプロテストに合格するも、左肘のケガで挫折。週刊誌記者を経て、ノンフィクションライターに。1996年に渡米し、アメリカの公立高校で教壇に立つなど教育者としても活動。2014年、東京大学大学院情報学環教育部修了。著書に『マイノリティーの拳』『アメリカ下層教育現場』『アメリカ問題児再生教室』(全て光文社電子書籍)『神様のリング』『世の中への扉 進め! サムライブルー』、『ほめて伸ばすコーチング』(全て講談社)などがある。

林壮一の最近の記事