コミックマーケット40周年――電車男から遠くはなれて

2015年夏、コミックマーケット88の様子(写真:Rodrigo Reyes Marin/アフロ)

コミケ40年

『コミックマーケット89カタログ』2015年/表紙:スー(サークル:vgmt)
『コミックマーケット89カタログ』2015年/表紙:スー(サークル:vgmt)

12月29 日から31日までの3日間、東京ビッグサイトで89回目のコミックマーケット(コミケ)が開催されます。今年は、コミケにとって記念すべき年でもあります。と言うのも、第一回のコミケが行われたのは1975年12月21日のこと。今年は記念すべき40年目なのです。

75年の参加者は700人ほどでしたが、ここ最近のコミケは3日間で50万人以上の動員をする大きなイベントとなりました。毎年夏に開催される日本最大の野外音楽イベント・フジロックフェスティバルの動員が、3日間で10万人強であることを踏まえると、その規模がいかに大きいかがわかるでしょう。

そんなコミケと主催者のコミックマーケット準備会の歴史とは、すなわちオタク文化の歴史でもあります。それは、年に2回の祝祭空間として、オタク文化の中心に位置してきました。この“大きな中心”があるからこそ、オタク文化はここまで拡大してきたと言っても過言ではありません。

この40年間のオタク文化とコミケの歴史は、いかなるものだったのでしょうか。それを振り返ってみたいと思います。

宮崎勤事件によるバッシング

若い人にはピンと来ないかもしれませんが、「オタク」という言葉は90年代中期頃までは非常にネガティブなものでした。はっきり言えば、「オタク」は完全にひとを馬鹿にする呼び方――蔑称だったのです。

その命名は、はじめてのコミケから8年後の1983年のこと。マイナーなロリコンマンガ誌『漫画ブリッコ』で、コラムニストの中森明夫がオタクについて言及したのです。このときすでに、その対象はコミケに集まる少年少女たちを筆頭に、アニメ、鉄道、SF、パソコン、アイドル、オーディオなどのマニアを指していました。中森は、互いを「おたくは~」と呼び合う彼らを「世紀末的ウジャウジャネクラマニア少年達」と評したのです(※1)。否定的な評価ではありましたが、この中森明夫のコラムはその後もしばしば言及されるオタクの要素をしっかりと描出してもいました。それが以下の4つです。

  • 〈1〉マニア性:何らかの対象への熱中と偏愛
  • 〈2〉内向性:性的コミュニケーションからの退行
  • 〈3〉共同性志向:内弁慶な仲間意識
  • 〈4〉外見的特徴:ファッション性の低さや身体的特徴

83年とは、オタク文化が黎明期から急速な成長期に入ってきた時期でもあります。それは映画『機動戦士ガンダムIII』の公開翌年であり、テレビ放映が続いていた『うる星やつら』の劇場版第一作が冬に公開された年でもあります。また、その後のゲーム文化の火付け役となった任天堂のファミコンが発売されたのもこの年の夏です。松田聖子や中森明菜、薬師丸ひろ子、原田知世など女性アイドル歌手の全盛期でもありました。

朝日新聞1989年8月11日付朝刊
朝日新聞1989年8月11日付朝刊

しかし、オタクという言葉が人口に膾炙するのは、それから6年後のこと。そのきっかけが、89年に東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の容疑者・宮崎勤の逮捕でした。4人の幼女を殺害した宮崎の自室には、ビデオテープやマンガなどが壁一面に積まれ、床には布団の周りに成年向け雑誌などが散乱していました。テレビや新聞はこの写真と映像を使い、この事件を「オタクの犯行」と報じたのです(※2)。

89年夏のコミケ(第36回)は、8月10日に始まった宮崎勤の報道から3日後の開催でした。後に「宮崎勤事件の余波で、スタッフはマスコミ対応に追われる」と公式に振り返られたように(※3)、それはまさに世の中でオタクに注目が集まっているなかで行われました。

しかし、それははじめて参加者が10万人を到達した記念すべきタイミングでもありました。オタクバッシングと同時に、オタク文化も急拡大していたのです。宮崎勤事件によるオタクバッシングは数ヶ月続きましたが、あまり知られていないのは、90年に入るとオタクを擁護したり称揚したりする報道も多く見られることです。フジテレビの番組『カルトQ』が始まったのもこの年で、宮崎勤とオタクは切り離され、マニア=専門家としてのオタクに注目が集まっていました。

一方で、ネガティブなオタクイメージを世に拡散させたのは、同じく90年に登場し「おたく評論家」を名乗る宅八郎でした。宮崎勤の存在にショックを受けた宅は、ワンレングスの長髪に銀縁メガネ、右手にマジックハンド、左に紙袋といった出で立ちで、フィギュア人形にキスしたりするなど、ネガティブなオタク像を意図的に演出していました。宅はテレビ番組にも多く出演し、そのイメージを一般に浸透させていきます。

90年代前半のこの時期、一般におけるオタク像は、「専門家=マニア」としてのオタクと、「宅八郎=薄気味悪いオタク」に、二分されていました。

ポジティブイメージへの変化

そうした状況に大きな変化が訪れるのは、90年代中期からです。その最大の要因は、やはり1995~98年頃まで続いたアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の大ヒットです。その人気には複数の要因がありますが、ひとつは14歳の主人公・シンジに対して、オタク層のみならず一般層からも強いシンパシーが寄せられたことにあります。戦後50年を迎えたなか、阪神・淡路大震災とオウム真理教事件が相次いで起き、日本社会に不安を抱く多くのひとの心情とシンクロしたところもあったでしょう。

そうしたなか、『エヴァ』を制作したGAINAXの元社長である岡田斗司夫が『オタク学入門』を引っさげて登場します。岡田はオタクを「映像に対する感受性を極端に進化させた『眼』を持つ人間」、「高性能のレファレンス能力を持つ人間」と定義し直し、支持を集めます。

岡田のこの定義が特徴的なのは、中森が描出したオタクの4要素のうち、〈1〉マニア性のみを取り出したところです。そこでは、コミュニケーション能力や外見などを不問にしており、当時としては極めて少数派の定義付けでした。岡田はこの定義を旗印に、その後 “オタキング”という愛称とともに、オタクの啓発活動を続けていきます。

映画『電車男』DVD(2005年)。
映画『電車男』DVD(2005年)。

この90年代中期とは、コミケの参加者が急激に増えた時期とも重なります。現在の会場である東京ビッグサイトに移ったのも、96年夏(第50回)からのこと。はじめて参加者が30万人を超えたのもこのときでした。そして90年代後半には、ほとんどオタクバッシングは見られなくなり、さらに一般化していきます。

2000年代は、そうした状況がさらに進展します。一般に与えるオタクイメージをさらにポジティブに塗り替えたのは、00年代中期の『電車男』の大ヒットです。気弱なオタク青年が可憐な女性と恋に落ちるというこの物語は、04年3月のネットの書き込みに端を発したものです。その後、書籍から映画、ドラマ、マンガとマルチ展開されて大ヒットします。今年は、05年に公開されて大ヒットした映画『電車男』から10年後でもあるのです。コミケの参加者がはじめて50万人を超えるのも、04年の夏(第66回)のことでした。

こうして、夏冬ともにコミケの参加者は50万人台で推移する、日本でもっとも大きなイベントのひとつとなったのです(※4)。

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世界最大の“草の根イベント”

『電車男』以降のこの10年間、オタク文化にはいろいろなことがありました。東方Project 作品や『艦隊これくしょん――艦これ―』の人気、中川翔子や水樹奈々などアニソン系歌手のブレイク、初音ミクやニコニコ動画などネットを介したコンテンツの浸透、池袋ハロウィンのような自治体も参加するオタクイベント、今年であれば『ラブライブ』の大ヒット等々──その勢いはとどまることはありません。一方で、2008年に秋葉原で通り魔事件が起きたり、2012年に脅迫によって『黒子のバスケ』関連のサークルが中止されたり、良いことばかりではありません。ただし、これらの事件でもオタクバッシングがほとんど生じなかったように、コミケやオタクを取り巻く状況は宮崎事件の時代とは大きく変わりました。

こうしてオタク文化の中心に位置してきたコミケには、ひとつの大きな特徴があります。それは、来場するひとを「参加者」と呼び、スタッフのほとんどがボランティアだということです。それはこのイベントが、けっして一般企業がお客さんである受け手のために準備したような空間ではなく、ひとびとの能動的な姿勢によって成立していることを意味します。主催する準備会が掲げる「コミックマーケットの理念」にもこうあります。

コミックマーケットは同人誌を中心としてすべての表現者を許容し継続することを目的とした表現の可能性を広げる為の「場」である。

コミックマーケットは、サークル参加者、一般参加者、スタッフ参加者、企業参加者等全ての参加者の相互協力によって運営される「場」であると自らを規定し、これを遵守する。

出典:「コミケットマニュアル」(2013年/PDF)

このように、あくまでもコミケは、ファン同士の繋がりを目的に誕生して拡大していった、ボトムアップ型のイベントです。つまり50万人以上の、世界最大の“草の根イベント”なのです。

それは、世界的にも見てもきわめて珍しい現象です。たとえばワールドカップサッカーなどで広場のパブリックビューイングに多くのひとが集まる現象は、他国でも見られます。あるいは、今年日本でも国会前で見られたような大規模な政治デモとも異なります。ここまでの規模のイベントが、草の根的繋がりによって定期的に継続している事態は、他には類を見ません。

オタクの社会運動

コミケがスタートした70年代、オタク命名がなされた80年代、宮崎勤事件と宅八郎によるネガティブイメージが浸透した80年代後半から90年代前半、『エヴァ』によってポジティブイメージが拡大した90年代中期以降、そして『電車男』によって一般にも広く認知された00年代中期以降――こうした歴史を経たオタク文化は、現在かなり成熟したものになっています。その変遷を人間に模してざっくり分ければ、以下のようになるでしょうか。

  • 1975~84年:幼少期
  • 1985~94年:思春期
  • 1995~04年:青年期
  • 2005~15年:成熟期

80年代中期のオタク命名、90年代中期の『エヴァ』、00年代中期の『電車男』と、オタクやコミケには約10年毎にメルクマールとなる事象が生じてきました。2015年の今年は、過去のそれらと比して目立つトピックはなかった印象がありますが、ひとつ大きく注目すべきはコミケやオタクが政治にも関与した事実でしょう。具体的には、TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)で合意された著作権の非親告罪化において、コミックマーケット準備会が文科相の諮問機関に意見書を提出し、結果、二次創作を非親告罪の対象外とする方向で話が進んでいます。つまり、国際的な協定や政策に強い影響力を持ったのです。

それはコミケやオタク文化の成熟の証左でもあり、同時にスタートからの理念がいまだに生きていることも意味します。コミックマーケットを始めたマンガ批評サークル・迷宮による75年の所信表明「マニア運動体論 序説」(※5)には、当時急速に下火になりつつあった学生運動の影響が色濃く見て取れます。「ファンダムの方向性を探る段階では、カウンターカルチャーの形成こそが急務なのである」とあるように、それはオタクの社会運動でした。来場者や出店者すべてを「参加者」と呼ぶのは、こうした当初の理念が(そのままではないにしろ)現在も続いていることを意味します。

規模が大きくなったコミケには、今後もさまざまな難題が生じるでしょう。おそらく、いちばんの問題は会場のキャパシティと警備でしょう。これ以上の参加者を受け止める会場を準備するのは難しく、2020年の東京オリンピックによって会場の東京ビッグサイトが使えなくなるのではないか、という懸念も広がっています。また、世界で見られるようにテロのリスクも常につきまとっており、今回は警察の要請を受けて手荷物検査を実施するほど警備が厳重になっています。そしてもちろんTPPでもさらなる活動が期待されます。

成熟した草の根の市民運動であるコミケとオタクが、これからさまざまな難題をいかに克服していくか、今後も注目していきたいと思います。

※1……中森明夫「『おたく』の研究(2)――『おたく』も人並みに恋をする?」『漫画ブリッコ』1983年7月号(セルフ出版)所収。

※2……なお、このときテレビで繰り返し流されたのは、床に積まれていた『若奥様の生下着』という成年向けマンガ雑誌でした。当時、読売新聞の社会部記者であった木村透は、「ある民放のカメラクルーがそれを抜き取って、一番上に重ねて撮影したのです。それで、あの雑誌の山が全部、さらにビデオもほとんどがそういう類のものだという、誤ったイメージが流れてしまった」と証言しました(木村透「いったいどうなっておるのか」『格闘する読売ウィークリー編集部』2005年)。

※3……コミックマーケット準備会編『コミックマーケット30’sファイル――1975-2005』(2005年/青林工藝舎/=PDF)。

※4……これらの歴史におけるオタクイメージの変遷については、拙文「〈オタク問題〉の四半世紀――〈オタク〉はどのように〈問題視〉されてきたのか」(羽渕一代編『どこか〈問題化〉される若者たち』2008年・恒星社厚生閣・所収)を参照のこと。

※5……霜月たかなか『コミックマーケット創世記』(2008年/朝日新書)所収。

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