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「やさしさ」が導く“一発レッド社会”――ベッキー、宮崎議員、ショーンK、“謝罪”の背景にある日本社会

松谷創一郎ジャーナリスト
筆者作成。

パターン化する謝罪術

 今年に入って目立つのは、ズバリ“謝罪”です。ベッキーさん、宮崎謙介議員、そしてショーンKさん等々――毎月数人の謝罪が報道されている印象があります。このとき毎度気になるのは、いったい誰に対して何を謝っているのだろうか、ということです。彼らに本気で怒っているひとよりも、ゴシップを楽しんでいるひとが大多数なのでなおさらそう思います。

 それでも、この3者のなかでももっとも謝罪に成功したのは、やはりショーンKさんでしょう。ラジオでの涙声の謝罪は、多くのひとの同情を誘いました。もちろんショーンさんの場合は、そもそも視聴者の被害者意識が強くなかったことも関係しているのでしょうが。

 対して大失敗だったのは、ベッキーさんです。謝罪後に、会見前日のLINEやりとりが流出してしまい反感を買ってしまいました。不倫相手のLINEが不正にアクセスされたことのほうがずっと問題であるにもかかわらず、そのことは吹っ飛んでしまいました。

 それにしても、年を追うごとに謝罪の度合いが増しているように感じます。謝罪する側は弁解や自己正当化をせず、ひたすら平身低頭に謝罪し、事態が拡大しないように努めます。謝罪後に身を隠し、ほとぼりを冷めるのを待つこともパターン化しています。

 つい最近は、謝罪に先んじた対応も見られました。女子中学生誘拐監禁事件の容疑者が通っていた千葉大学がそうです。容疑者の学位授与を取り消し、卒業を留保する判断を下したのです。法学部の教員からは、違法性の高さを指摘されていたにもかかわらずです。事件の異常性が極めて高かったこともあり、その飛び火を防止するつもりなのでしょう。

 千葉大がそこまでビクつくのは、日本が“炎上”だらけの怖い社会になってしまったからです。なにかしくじったら、深々と謝罪をし、長期の低迷を余儀なくされます。しかしそれ以上に怖ろしいのは、謝罪しないことで炎上がネットで際限なく拡大し、再起不能の大ダメージ――一発レッドカードを喰らうことです。謝罪とは、その判定をイエローカードに留めるためのものなのです。

 いまや日本は、完全に“一発レッド社会”の恐怖に包まれています――。

謝罪とはなにか

 謝罪が目立つ背景には、日本社会の複数の特徴が見え隠れします。“炎上”がネットで頻繁に見られることはもちろんのこと、企業などではコンプライアンスの浸透もあるでしょう。さらに、土下座や切腹、はたまたヤクザの指詰めなど、謝罪における過度に自罰的な文化もあります。

 それにしても、こうした謝罪とはいったい何なのでしょうか?

大渕憲一『謝罪の研究――釈明の心理とはたらき』(2010年/東北大学出版会)
大渕憲一『謝罪の研究――釈明の心理とはたらき』(2010年/東北大学出版会)

 社会心理学者の大渕憲一さんによる『謝罪の研究』(2010年)は、その書名どおり謝罪を考えるうえで参考となる一冊です。そこでは、さまざまな実験結果をもとに、謝罪の中核的な要素がふたつあると論じられています。

 ひとつが「私が悪かったです」といった「責任受容」、もうひとつが「申し訳なく思っています」といった「改悛表明」です。これらに加えて、被害者へのいたわりや赦しを請うことなどの要素を盛り込めば、さらに謝罪は効果的になると述べられています。

 ただ、当人が実はそれほど悪くない場合もあります。たとえば偶発的な事象に巻き込まれた場合や、誤解が生じてしまった場合がそうです。そこでの謝罪は、弁解・正当化・否認などともに4タイプの「釈明」のひとつに分類されます。

 この本でとくに興味深い点は、この「釈明」における日本とアメリカとの比較です。ここでは、被害者側の反応に明確な文化的差異が見られました。日本では、謝罪が正当化の2.5倍ほど支持される傾向にありますが、アメリカでは正当化のほうが謝罪の1.3倍ほど評価されます。もちろんこれらの反応はケースにもよりますが、大渕さんはこの背景に自己主張を肯定的に捉えるアメリカと、そうではない日本との違いを読み取ります。

 なるほどそれは納得できます。大して悪くもないのに(あるいは誤解であるにもかかわらず)ひたすら謝罪する日本人を見ると、アメリカ人にはその場をただやり過ごそうとするポリシーのない人物だと見なされるのかもしれません。

思考停止を招く「やさしさ」

 『謝罪の研究』は、謝罪をめぐる心理的メカニズムを知るにはとても良いテキストです。ただ、そこで考えてしまうのは、やはり謝罪があふれる日本社会の様相です。アメリカとは異なり、さほど悪くなくても誰もが深々と頭を下げてばかりです。そのことによって、問題の究明から離れてしまうことにも繋がることもあります。

 ショーンKさんの謝罪は、まさにその典型でしょう。涙ながらの謝罪とそれにともなう全番組からの自主的な降板は、テレビ朝日やフジテレビの報道の責任を回避させました。ショーンさんに同情的な世論も、もはやそれを追求する向きにありません。そこでは世論と呼ばれる感情的な「やさしさ」が優先され、理性的な判断はなされていません。

 これこそが、 “一発レッド社会”の最大の特徴です。そこでは、感情や情緒ばかりが優先されます。とくに目立つのは、被害者への「やさしさ」です。それは、重大事件に対する反応で必ず見受けられます。加害者の人権を少しでも考えようとすると、必ず飛んでくる紋切り型の言葉があります。

「自分の子どもが殺されても、そんなことが言えるのか!」

 私もこの言葉を投げかけられたことが幾度かありますが、その発言者の多くは普通のひとびとです。成人を迎えたばかりの若者、子を持つ親、孫のいるお年寄り等々、どこにでもいる善良そうな方々です。そのひとたちが、被害者側に同情しながら感情をむき出しにしてそう言ってくるのです。

 しかし、この言葉にはふたつの問題が隠されています。

森達也『「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と叫ぶ人に訊きたい』
森達也『「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と叫ぶ人に訊きたい』

 ひとつは、映画監督の森達也さんが著書『「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と叫ぶ人に訊きたい』(2013年/ダイヤモンド社)でも指摘したように、「加害者の人権」と「被害者の人権」が対立する概念だと捉えられていることです。同じ人間である以上、加害者も被害者も同じ人権であることは当然です。

 もうひとつは、自分の子どもが加害者になることの想像力が完全に欠落していることです。彼らの想像力は極めて限定的で、エスパーかのごとく被害者の気持ちだけを代弁します。子どもを持つ以上、自分の子どもが加害者になる可能性もゼロでないにもかかわらず。

 しかし、そうした場面では被害者を思いやる「やさしさ」だけが優先されて、それ以外の思考を停止してしまうのです。それは、「やさしさ」という感情に高い価値があると信じているからでもあるでしょう。

「ほんとはこわい『やさしさ社会』」

 「やさしさ」は、日本社会において暴力的な言動を正当化する大義にもなります。ネットで起きる炎上事件も、その根底には渦巻くのが「やさしさ」であるケースは珍しくありません。

 たとえばこうしたケースがありました。

 瑕疵のある言動をしたAさんに対し、激怒したBさんが本人に直接強い批判を投げつけました。その対立は、Bさんと仲の良いCさんの参戦によって炎が大きくなり、さらにAさんをかねてから敵視する多くの第三者によって炎上状態に突入しました。

 その結果、AさんはBさんに対して「死んでお詫びしたい」と述べるほどの謝罪をします。これを聞いて、BさんやCさんはもとより大勢のひとびとはさらに激怒し、吊し上げの度合いも進みました。なかには、Aさんを「命を人質にして脅迫するな!」と断じたひとまでいます。これは、Bさんに対する思いやりの裏返しです。被害者への「やさしさ」が、加害者への無制限の糾弾を正当化しているのです。

 あるいは、こうしたケースにおいてBさんを支持しないひとに対し、「怒り悲しんでいるひとの気持ちを考えられないとは、なにごとだ!」と述べるひとも見かけます。これは、先に挙げた「自分の子どもが殺されても、そんなことが言えるのか!」と似た論法です。「やさしさ」が冷静な判断力を失わせ、想像力を限定しています。糾弾され続けているAさんのことや、自らがAさんの立場に置かれてしまうこと、さらにはそうした状況を招いてしまう社会について、まったく顧みられていないからです。

森真一『ほんとはこわい「やさしさ社会」』(2008年/ちくまプリマー新書)
森真一『ほんとはこわい「やさしさ社会」』(2008年/ちくまプリマー新書)

 社会学者の森真一さんによる『ほんとはこわい「やさしさ社会」』(2008年)は、タイトル通りまさにこうした日本社会を分析した一冊でした。たとえば上のケースにおいて、Bさんへの「やさしさ」は、Aさんを批判(攻撃)することによってより正当化されます。

 森さんが説明するように、これは社会学では典型的な内集団(仲間/B・Cさんなど)と外集団(仲間以外/Aさん)との関係です(※1)。

 内集団には優しいのに、外集団には冷たいことは、日本社会の特徴としてむかしから指摘されてきたことでした。社会学者・宮台真司さんの「仲間以外はみな風景」とは、この状況を一言で表した言葉です。森真一さんはこの内集団と外集団の格差――「思いやりの落差」が、「やさしさルール」の厳格化により年々拡大しているのではないか、と論じます。

 たとえば、先進国のほとんどで廃止されつつある死刑制度が、日本では存置されているだけでなく80%を超える高い支持をされるのも、「やさしさ」と無関係ではないのでしょう。被害者への「やさしさ」が、加害者に対する死刑(合法的殺人)を正当化しているのです。

 チャールズ・チャップリンは、連続殺人犯を描いた1947年の映画『殺人狂時代』の最後で、自身が演ずる主人公にこう言わせて死刑台に向かいました。

「ひとり殺せば悪党で、100万人だと英雄です。数が殺人を神聖にする」

 殺人、戦争による大量殺戮、死刑――この3つの「殺人」を相対化したのが、『殺人狂時代』でした。この映画から70年近くが経過しましたが、日本ではこのメッセージがいまだにちゃんと伝わっていないようです。

「やさしさ」を大義とした暴力

 “一発レッド社会”も、まさにこの「やさしさルール」によって構築されたものです。個々人の感情が理性よりも優先される社会では、誰かの気持ちを傷つければ、それは強い糾弾対象となります。一回のケアレスミスが、命取りになるのです。原発管理なみの自己コントロールの檻に誰もが囚われている社会です。

 先の例において、Aさんの「死んでお詫びしたい」という謝罪は、(自覚的かどうかはさておき)「やさしさルール」が支配する“一発レッド社会”のネタばらしでもありました。B・Cさん、及びそれに追従して糾弾するひとたちがそれによってさらに激怒したのは、“炎上”行為に加担していることを第三者にわかりやすく開陳させられたからです。

 そしてこの衝突は、幸せになった当事者がだれひとりとしていない結果に落ち着きました。Aさんが大きなダメージを喰らったのはもちろんですが、苛烈な糾弾を繰り広げたB・Cさんとその追従者も、それを見ているサイレントマジョリティからは「面倒くさい集団」として認識されました。これは野球で言うところの完全な“バカゲーム”となったのです(※2)。

 この一件が、生産的な議論として機能することは簡単でした。B・Cさんが冷静な態度でAさんの瑕疵を指摘すれば良かっただけです。さらに感情だけで猛進してくる追従者をたしなめることや、あるいは追従者を生まないように公然の場でやらないという選択もあったでしょう。

 Aさんの不用意な言動がすべての発端ではありますが、だからと言って吊るしあげていいわけでもありません。「やさしさ」は、暴力を正当化することはできないのです。

減点法社会に積まれた死屍累々

 “一発レッド社会”の真の恐怖は、こうしたネット社会を介した“炎上”の積み重ねによって成立しています。そこでは、ちょっとしたミスが命取りになります。ミスによって生じた小さな傷口を、集団が思いっきり開いて再起不能にするのが“一発レッド社会”です。なかには、意図的にミスを見つけて炎上させる存在もいるでしょう。

 こうしたとき炎上に加担するほとんどのひとは、自分たちが被害者になることを想定していません。彼らは、決して自分がミスをしない自信があるわけでもありません。そもそもミスをしない人間はこの世にいないからです。多くのひとは「やさしさ」を大義に、あるいは鬱憤晴らしとして炎上に加担します。日々どこかのだれかに向かって、ひとびとはブーメランを投げ放っています。

 結果、いま日本の空には、多くのブーメランが飛び交っています。誰が投げたともわからないブーメランが後頭部に突き刺さることは、誰にとっても起こりうるのです。そこでできることは、とにかくブーメランにぶつからないように匍匐前進すること以外にありません。加点はできず、減点を回避することこそが最重要課題になっています。

 つまり“一発レッド社会”とは、誰かが幸せになれる社会ではありません。誰もが不幸にならないように神経質になっている社会です。プラスになることは難しく、誰もがマイナスを回避することで精一杯です。そこには、すでに引きずり下ろされたひとびとの死屍累々が折り重なっています。

 そんな“一発レッド社会”でギスギスしているひとたちに対し、「もっとやさしくしよう」と言っても空振りに終わります。なぜなら、ここまで見てきたように、「やさしさ」こそがこの絶望的な社会を作ってきたからです。多くのひとは、自分自身の「やさしさ」に過大な自信を持っています。その「やさしさ」が怖ろしいまでの集団暴力に変転し、自分に突きつけられる可能性があることも知らずに。

 誰にとっても危険なこうした社会をどうやって改善すべきか――それは本当に難題です。どんな言葉を投げかけても空振りしますし、逆にその言葉を投げかけたひとが今度は攻撃対象になる可能性もあります。

 ただこの記事のような分析こそが、ソリューションの道を拓くのではないかと私は考えています。なぜならここまで書いてきたことは、“一発レッド社会”のネタばらしだからです。もしかしたらそれは、遠く離れた場所から冷静に状況を分析した態度として忌み嫌われるかもしれません。炎上が蔓延る社会の澱んだ空気をいっさい読んでいないからです。

 しかし、「やさしさ」を大義に無自覚なまま“一発レッド社会”を推進させることには、やはり参与できません。それは先の例のAさんだけでなく、BさんとCさん、さらにはそれに追従した多くの人々、さらには圧倒的なボリュームのサイレントマジョリティのためにも。

 誰もが幸せになれる社会は、実現することはできないでしょう。しかし、誰もが不幸になることを怯える社会からは、そろそろ違う方向に舵を切ることはできるはずです。個々人が「やさしさ」を濫用さえしなければ――。

※1……「やさしさ」については、これまでさまざまな見地から考えられてきた概念でした。たとえば、栗原彬の『やさしさのゆくえ――現代青年論』(1981年)や『やさしさの存在証明――若者と制度のインターフェイス』(1989年)、精神科医・大平健の『やさしさの精神病理』(1995年)などがあります。

※2……野球における“バカゲーム”とは、投手陣の乱調やエラーの多発によって両チームが大量の得点と失点をする締まりのない試合のことを指します。

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ジャーナリスト

まつたにそういちろう/1974年生まれ、広島市出身。専門は文化社会学、社会情報学。映画、音楽、テレビ、ファッション、スポーツ、社会現象、ネットなど、文化やメディアについて執筆。著書に『ギャルと不思議ちゃん論:女の子たちの三十年戦争』(2012年)、『SMAPはなぜ解散したのか』(2017年)、共著に『ポスト〈カワイイ〉の文化社会学』(2017年)、『文化社会学の視座』(2008年)、『どこか〈問題化〉される若者たち』(2008年)など。現在、NHKラジオ第1『Nらじ』にレギュラー出演中。中央大学大学院文学研究科社会情報学専攻博士後期課程単位取得退学。 trickflesh@gmail.com

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