〈災害時窃盗罪〉の新設は必要なのか
■はじめに
東北地方を襲った大震災の際に、人びとが冷静に行動し、商店やスーパーの略奪、窃盗、強盗などの犯罪が少なかったことを外国のメディアは驚きの目をもって報道しました。熊本大震災でも、あれだけの被害の中で、人びとは冷静に行動し、助け合い、秩序が保たれています。しかし、被災に乗じた恥ずべき犯罪行為も残念ながら起こっています。
無防備の被災者を狙ったこのような卑劣な窃盗行為は、一般の窃盗よりもはるかに悪質で、犯罪性も高く、より強い非難にあたいする行為だといえます。そこで、このような行為を一般の窃盗行為に比べて〈災害時窃盗罪〉として類型化し、厳罰に処すべきであるという案が政府で検討されています。その発想じたいについては分からなくもないですが、はたしてそのような処罰規定を新たに設ける必要性はあるのでしょうか。
■窃盗罪の実際の量刑と悪質な行為の加重規定
窃盗罪は、刑法235条で次のように規定されています。
(窃盗)
第235条 他人の財物を窃取した者は、窃盗の罪とし、10年以下の懲役又は50万円以下の罰金に処する。
懲役刑の下限は「1月」ですから、懲役刑が選択された場合は、「1月~10年」の間で刑期が選択されます(罰金刑の場合は、1万円~50万円)。
では、実際に窃盗罪の量刑は具体的にどの程度なのでしょうか。
平成26年版の「犯罪白書」を見ますと、地方裁判所および簡易裁判所において行われる通常の公判手続において懲役刑が選択された場合の刑期別構成比では、総数16,228人のほとんどには5年までの懲役刑が選択され、その半数以上に執行猶予が付されています。もちろん、悪質な場合はこれらよりも重い量刑になります。地方裁判所における科刑状況を見ますと、総数10,641人のうち、〈7年を超えて10年以下〉が5名、〈5年を超えて7年以下〉が45名いることが分かります(同「白書」)。災害時の窃盗行為に対しても、おそらく一般の窃盗よりも重い量刑判断がなされるだろうと思われます。
そして、さらに悪質な窃盗の場合には、さまざまな加重規定もあります。
まず、刑法第56条には〈再犯〉の規定があり、「懲役に処せられた者がその執行を終わった日又はその執行の免除を得た日から5年以内に更に罪を犯した場合」には、窃盗罪に規定されている「10年以下の懲役」が「20年以下の懲役」にまで伸びることになります(刑法57条)(3犯以上の場合も同じ)。
そしてさらに、凶器を携行したり、複数人での窃盗や住居等へ侵入しての犯行といった、悪質な窃盗(および強盗)を常習として行った場合、また10年以内に窃盗罪・同未遂罪・強盗罪・同未遂罪等の罪で3回以上6月以上の刑の執行を受けた者が、窃盗を行った場合(常習累犯窃盗)は、3年以上20年以下の懲役に処せられます(盗犯等ノ防止及処分ニ関スル法律第2条、3条)。
政府で検討中の〈災害時窃盗罪〉の法定刑が具体的にどれくらいのものかは分かりませんが、現行法でも悪質なケースについてはかなり重く処罰することは可能となっています。
■〈災害時窃盗罪〉を新設することについての立法事実は?
単なる思いつき、世論に対する無条件反射、感情などではなく、正当な事実的根拠に基づいた立法であることが立法の「質」を高めることにつながります。この点を軽視すると、国民の遵法(じゅんぽう)精神の低下にもつながります。これが、いわゆる〈立法事実の問題〉といわれる論点です。立法事実は、なぜ今そのような立法が必要となるのかという疑問に答えるものであり、立法という作業を正当化する基礎となります。
一般の窃盗罪の加重類型としての〈災害時窃盗罪〉を新設する事実的な必要性が、はたしてあるのでしょうか?
熊本県内の刑法犯の認知件数を見てみましょう。熊本県警の発表(平成28年4月)によれば、平成28年1月から4月までの熊本県下における刑法犯認知件数は、平成27年の同時期に比べて総数で293件の減少となっています。震災の被害がとくに激しかった益城町は6件の減、熊本市全域は254件の減少となっています。もちろん、この統計は1月から4月までの統計の数字ですから、震災と犯罪の関係について直接述べているものではありません。しかし、地震が起こった4月14日以降、もしも震災の混乱に乗じた犯罪が増加し、治安の悪化が憂慮すべき状態であるならば、震災によって警察機能が低下していることがあったとしても、この時期の認知件数はもっと増加していてもよいのではないかと思われます。したがって、犯罪統計から判断するに、窃盗を含めて、それほどの犯罪的な治安の悪化は生じてはいないのではないかと思われます。
■まとめ
地震の発生以降、ネット上では「強姦事件が多発している」などのデマや根拠のない不確かな情報が流布されています(熊本県警)。地震による不安に、このようなデマによる社会不安が重なり、人びとの体感治安の悪化は増幅されていきます。〈災害時窃盗罪〉の新設は、このような県民の不安に応えようとするものだと思いますが、上で見たように、被災地における窃盗行為は数としては少なく、また悪質な窃盗行為に対しては現行法で十分に重く処罰することは可能なのです。
また、〈災害時窃盗罪〉については、その地理的な適用範囲も問題になります。災害救助法が適用されている地域とする案や、避難指示や避難勧告が出されていることを基準にする案などが議論されているようですが、その場合、隣りの〈非災害地〉で行われた窃盗行為には一般の窃盗罪が適用されるわけですが、加重された〈災害時窃盗罪〉の法定刑に影響されて、非災害地の一般の窃盗罪の量刑も重い方向へ引きずられていくことは確実でしょう。
東北の大震災発生後は確かに一時的に侵入窃盗が増加するなどの状況は見られましたが、時間の経過とともにおおむね落ち着き、その後、刑法犯認知件数はむしろ減少しています(警察庁「平成23年の犯罪情勢」)。しかし、震災の募金活動に名を借りた〈募金詐欺〉や、震災復興支援制度の悪用、震災に関係した振り込め詐欺など、震災便乗犯罪は全国的規模で広がり、卑劣さから言えば災害時窃盗と変わりはありません。
以上のような点から考えると、とくに災害時窃盗を厳罰に処するという立法は、災害時における窃盗行為の悪質さを確認し、宣言するだけのいわば〈象徴立法〉になるおそれがあるのではないでしょうか。刑罰という、社会秩序を維持するためのもっとも峻厳な手段を、このような形で用いることは好ましいことではありません。〈災害時窃盗罪〉を新設する必要はないと思います。(了)