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日銀の「約束」はどうなった?

橘玲作家

「コミットメント」は、経済学(ゲーム理論)では「確実な約束」をいいます。よく知られているのが孫子の兵法の「背水の陣」で、川を背にすることで自ら退却を不可能にして、敵方に対して「最後の一兵まで戦いつづける」とコミットメントする戦略です。溺れ死ぬより戦った方が生き残る可能性が高ければ、どれほど劣勢になっても撤退しませんから、たとえ勝ったとしても犠牲は膨らみます。これによって相手の戦意を喪失させて、心理的に優位に立とうとするのです。

日銀が2013年4月に行なった「量的・質的金融緩和」は、市場や国民に対し、2年間という期限を切ったうえで2%のインフレ目標を達成するというコミットメントです。

近年のマクロ経済学では、インフレ率はひとびとの予想(期待)によって決まると考えます。将来、確実に物価が上昇すると思えば、消費者はいまのうちに高額商品を買っておこうとし、経営者は設備投資を前倒しして、その結果、ほんとうにインフレになるというのです。

インフレターゲット政策の旗振り役をした経済学者たち(リフレ派)は、こうした理屈で「日銀がインフレ目標をコミットメントすれば日本はデフレから脱却する」と主張しました。ところがいつまでたっても物価は上昇せず、説明に窮した黒田日銀総裁は今年4月に「2年というのは15年度を中心とする期間」と先延ばしし、10月には「2016年後半頃」とさらに延期してしまいます。当初の「2年」というコミットメントは、実質4年になってしまったのです。

黒田総裁はコミットメント(すなわち、「どんなことをしてでも達成すると誓った約束」のことです)が守れなかったのは「原油価格の下落」のためだといいますが、これも不思議な話です。なぜならリフレ派の経済学者たちが大好きなマネタリズムでは、インフレは貨幣的な現象で、金融市場に流通するマネーの総量で決まり、個々の商品の価格は無関係だからです。

デフレの要因を技術革新によるコンピュータなど電化製品の大幅な価格の下落で説明した経済学者は、「経済学の初歩すらわかっていない」と罵倒されました。「標準的な経済学」によれば、安いパソコンを買った消費者は浮いたお金でほかの商品やサービスを消費するはずですから、「中国からの輸入で物価が下がった」という説明はデタラメなのです。

ところで、これがもし正しいとすれば、「原油価格の下落で物価が上がらない」という説明もデタラメです。ガソリン代が安くなれば、余ったお金をほかのところで使うのですから、インフレ率にはなんの影響を与えないはずだからです。しかしなぜか、「パソコン説」を嘲笑したひとたちは日銀総裁の“ブードゥー経済学”には沈黙しています。

「2年後に借金を返す」と約束したのに、「やっぱりムリだったから4年にしてくれ」というひとを「合理的な国民」は信用しません。4年の約束は6年になり、8年になって、そのうち責任者はみんないなくなってしまうに決まっているからです。これでは市場の「期待」を操作して「インフレ予想」を醸成することなど、とうてい不可能です。

コミットメントがたんなる口約束だとバレてしまえば、日銀の信用は失墜します。このあとは、見苦しい言い訳と責任の押しつけ合いが始まることになるでしょう。

『週刊プレイボーイ』2015年11月24日発売号

禁・無断転載

作家

作家。1959年生まれ。2002年、国際金融小説『マネーロンダリング』でデビュー。最新刊は『言ってはいけない』。

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