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<偲ぶ>ガンバ大阪元代表取締役社長、佐野泉氏、永眠。

高村美砂フリーランス・スポーツライター

2002年6月から08年4月までガンバ大阪の代表取締役社長を務められた佐野泉氏が7月10日、永眠された。今でこそ常勝クラブとして知られるようになったガンバだが、当時はまだ『タイトル』を1つも手にしていなかった時代。その『タイトル』獲得を最大の使命として就任された佐野氏の責任は大きく、その手腕に期待されたが初タイトルにたどり着くには約3年もの月日を要した。いや、佐野氏だからこそ、3年で『タイトル』にたどり着けたのだと思う。

その手腕に最初に目を惹いたのは、03年のシーズン終了後だ。佐野氏よりやや早く、02年1月に西野朗氏(日本サッカー協会技術委員長)が新監督に就任し、クラブ史上最高位となる年間3位でシーズンを終えたガンバだったが、翌年は勝ちあぐねて年間10位、クラブとしても4年ぶりの負け越しでシーズンを終える。近年少しずつではあるが右肩上がりの成長を遂げ、かつ前年度は飛躍的な変化が感じられたからこそ、周囲からはすぐさま解任の声も挙がったが、佐野氏はいち早く西野監督続投の意を固めた。

「強いチームを作るには、ときに我慢も必要だ。コロコロと指揮官が代わっては、選手だって戸惑うだけだろう。僕は、西野監督の手腕を信頼している。彼にガンバを託そうと思う(佐野氏)」

翌年の04年。再び勢いを取り戻したガンバは、『タイトル』にこそ届かなかったものの1st、2ndステージともに優勝争いに加わり、再び年間3位の成績をおさめる。そして05年。西野体制4年目を迎え、チーム、選手の成熟とともに確かに常勝クラブとしての歩みを進めると最終節、川崎フロンターレ戦に勝利し、初タイトルをつかみ取る。ガンバの監督として10年間、指揮をとった西野氏がクラブ社長とグラウンドで熱い包容を交わす姿を見たのは、そのときを含めて3度だけだ。05年のJ1リーグ初制覇と、07年のゼロックススーパーカップ、ナビスコカップでの初優勝。佐野氏が退任される08年4月までの間、タイトルを手にする度に繰り返し見られた光景だった。

その西野氏続投のエピソードにも代表されるように、ともに仕事をする人間を「信用し、託せる」ことができる人だった。前所属の松下電器蚕産業株式会社時代にも人事や営業職で手腕を発揮され、経営者としての力量を買われてのガンバ大阪の代表取締役社長就任だったが、それまではサッカーとは無縁の生活を送ってきたからだろう。監督以下、各ポジションに配置されたスペシャリストの言葉に熱心に耳を傾けることを忘れず、かつ「自分よりも彼らの方がサッカーを知っているから」と信用し、仕事を託した。そして「何かあったら自分が責任をとる」と背中を押した。社長の任を退かれたあと、しばらく経って03年の監督続投話を振り返り「あの時は、親会社にも西野でダメだったら自分が責任を取ると言って納得してもらった」と豪快に笑ったものだ。

もちろん、甘い顔を見せていたばかりではない。ガンバがクラブ史上最高額を注ぎ込んで大型補強に踏み切った06年のシーズン前には、加地亮(ファジアーノ岡山)や明神智和(名古屋グランパス)、播戸竜二(大宮アルディージャ)、マグノアウベスらを社長室に呼び寄せ、ニコリともせず告げたという。

「今季は強化費に、8億をかけた。君たちに、頑張ってもらわなければ困る」

のちにその当時を振り返り、「それだけのお金をかけてもらったことに応える活躍を示さなければいけないし、その金額以上の利益をガンバにもたらさなければいけないと思った」と話したのは明神智和(名古屋グランパス)だが、そうして厳しさと優しさを使い分けながら、だが、最終的には選手を「信用し、託し」、温かく、厳しく、その背中を押し続けた。もちろん、その裏では、経営者として真のプロサッカークラブの在り方と成長を常に自身に問いかけながら、寮や食事環境の改善など環境整備にも熱を注いだ。

それはマスコミやサポーターに対しても同じだった。どれだけ駆け出しの記者でも、ベテランの記者でも、常に相手をリスペクトすることを忘れず、相手の立場、気持ちを慮った。ときに敗戦に悔しさをぶちまけるサポーターに「お前らの気持ちはよく分かる。俺だって悔しい」と声を掛けたことも。佐野氏の存在感は瞬く間にサポーターの知るところとなり、練習場やスタジアムで声を掛けられることも増えたが、その度に、やや強面の顔をクシャと崩して、笑顔で言葉を交わす姿を見掛けたものだ。互いの立場に関係なく、ガンバに関わる全ての人を、ガンバを愛する全ての人を『ファミリー』として接する佐野氏のことがサポーターもまた、大好きだった。

それを証拠にクラブ史上初めて、07年のファン感謝デーにあわせてTシャツや携帯ストラップなどの『社長グッズ』を売り出した時も、ものの数分で売り切れたという伝説もある。また、そのファン感謝デーでは選手に混じり、背中に「泉」と書かれたユニフォームを着て紅白戦を戦ったことも。のちに聞いた話では「当時、社長室から選手が練習する姿をみながら、イメージトレーニングをしていた(笑)」らしく、そのおかげで華麗なボールさばき…は見られなかったものの、重そうな身体を揺らして走る佐野氏にボールが渡るたびにスタンドからは歓声が上がり、安田理大(名古屋グランパス)に削られて大げさに倒れる姿に、選手たちは手を叩いて喜んだ。そこには確かに、クラブ社長と所属選手という立場を越えた深い絆、信頼関係があった。

08年4月にガンバの代表取締役社長を退任されたあと、しばらくは非常勤でクラブハウスに顔を出すこともあったが、基本的にはきっぱりとサッカー界から姿を消した。その年、ガンバは悲願のAFCチャンピオンリーグを初制覇を成し遂げ、大きな喜びに包まれたが、佐野氏はといえば、チーム内での祝勝会にこそ出席したものの、決して表に立つわけでもなく、片隅で『息子たち』の偉業を静かに喜んでいたと聞く。もっとも、そんな佐野氏を選手たちが放っておくはずはなく、会の冒頭で『乾杯』を済ませたあとは一目散に佐野氏のもとに歩み寄って、喜びを分かち合った。そして西野氏は後日、佐野氏を誘い出し、祝盃をあげたという。

その後も、周囲からは何度かサッカー界への待望論が持ち上がったものの「自分の役目は終わった」と全ての話を断り、大好きなゴルフやお酒を楽しむ傍ら、1ファンとしてガンバの年間パスを購入。ホームゲームの度にスタジアムに足を運び、試合前にこそ遠藤保仁ら、選手たちのもとを訪れて激励したが、それが終わるとスタンドにあがり、『1ガンバファン』として声援を贈った。

最後の観戦になったのは、今年の6月25日に行われたJ1リーグ1stステージ最終節の名古屋グランパス戦だ。既に体調を崩されており、車いすでの観戦だったが、宇佐美貴史(アウクスブルグ)の移籍セレモニーもしっかり見届けたあと、スタジアムを後にした。その数日後、一気に体調が悪化し、7月10日に帰らぬ人にーー。

前日のJ1リーグ2ndステージ2節のベガルタ仙台戦で、ガンバが勝利した翌日。息を引き取った時間は奇しくも、ガンバ大阪U-23が、セレッソ大阪U-23との『大阪ダービー』を逆転勝ちで征した直後だった。

ガンバ大阪の発展に尽力された佐野泉氏の功績と、たくさんの感謝の気持ちを込めて。心よりご冥福をお祈りいたします。

フリーランス・スポーツライター

雑誌社勤務を経て、98年よりフリーライターに。現在は、関西サッカー界を中心に活動する。ガンバ大阪やヴィッセル神戸の取材がメイン。著書『ガンバ大阪30年のものがたり』。

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