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なぜ、森好きはスピリチュアルにはまるのか

田中淳夫森林ジャーナリスト
日比谷公園の首かけイチョウはパワースポットとして人気。集まった人は手かざしを行う

沖縄の辺地の小さな集落を訪れたときのことだ。裏山の森に分け入ると、アカギの巨木があった。根回り5メートルは超す木は、周辺にゴツゴツした枝を広げ威圧している。その木を中心とした森は、何か違う空気が漂っている。ピリピリと感じるのだ。ここは聖域だ、と誰の説明を受けるまでもなくわかった。事実、その森は地元で神宿る森として守られていることを後で聞く。

巨木の前に立つと、不思議な感覚に襲われることがある。手いっぱいに広げても届かないような幹。天空を覆う樹冠。苔むした樹肌を目にするだけでも心揺さぶられる。脳内に覚醒するような興奮が湧き起こる。涙が浮かぶこともある。

同じような感覚は、巨岩に出会った時にも包まれる。水辺にたたずんで感じることもあるし、小さな茂みの一角で襲われることもある。自然が人の心に何らかの刺激を与えてくれる場というのは存在するものだ。

最近は、こうした場所を「パワースポット」と呼ぶのだそうだ。土地が不思議なパワーを放射していると見立てるのだろう。科学的でない妙な言葉だが、私は、そうした表現をすることをとくに否定しない。大自然を前に感じる感動を説明するには便利かもしれない。

おそらく森林散策など自然の触れ合う行為の楽しさには、こんな感覚に出会うことも含まれている。それが人を元気にしてくれる面もあるだろう。

だが、ちょっと困った事態も起きている。そんな森の体験をスピリチュアル(霊的)な世界につなげる人がいるのだ。さらに「森の不思議なパワー」を売り物にしたビジネスを始める輩も出てきた。

わざわざ「この森は、ほかとは違う」と説明するためにパワースポットという言葉を多用したり、その森の水や何らかの物を「パワー」を含んでいる?と称して他人に勧める人もいる。

森林療法を紹介する本や記事を執筆したせいか、私のところに、たまに妙な声が届く。森林のパワーを取り込むにはどうしたらいいかとか、どこそこの森はいかに霊的な力が満ちあふれているか証明したいと相談を持ちかけられる。花の“波動”を人体に取り込むセラピーを広めているので、そこに森林の波動も含めたいとか、トホホな申し出を受けたこともある。

仰天したのは、全国に開設されている森林セラピー基地で開かれた某セミナーの報告内容を見せてもらった時だ。

参加者の感想文なのだが、森林セラピーを施された(単に森の中を歩いただけである)ら、仕事やプライベートな生活に運が向いてきた! と力説する体験談が登場されている。さらに店の売り上げが伸びたとか、人間関係がよくなったとか……。ほとんど自己啓発セミナーか、宗教的なイニシエーション(儀式)のような捉え方なのである。

森林療法、あるいは森林セラピーとは、森の中を歩いたり過ごすことで心身のバランスを取り戻し、体調を改善することを目指している。その効果があることは、私も信じる。森を歩いてリラックスすれば、心新たに仕事に取り組めるかもしれないし、ストレスが軽減されたら細胞の働きが活性化して免疫力が高まることもあるだろう。もちろん運動効果も見込める。

しかし、森歩きが店の販売力を活性化させたり、人格を改造することはあり得ない。運勢を変える力があるとも思わない。だが自然界に人知を超えた霊的な力があると信じたい人は少なくなく、それを取り込むと自らの人生を左右できると期待を膨らませるケースが結構あるようなのだ。

また森林セラピーの効果を説明する文言の中に、マイナスイオンという言葉も登場している。マイナスイオンとは電子を帯電した原子もしくは分子とされているが、和製英語であり、陰イオンとは違って科学界では使われていない。それが人体に及ぼす影響の研究は、戦前から行われていたというが、目立った効能は確認されていない。

ところが家電メーカーが一時期、この言葉を広告で使って、商品を売り出したことで広がったいわば科学を装ったマーケティング用語だった。だが、今では景品表示法や薬事法の規制、さらには公正取引委員会の排除命令などで消えてしまった。

ところが、森林セラピー業界では、いまだに森の偉大さを訴えるのに堂々と使われているのだ。

新月伐採(主に月齢が新月期に当たる期間に伐採した木)が喧伝されたこともある。新月伐採した木材は、「割れない、反らない、カビない、腐らない、燃えない」というのだ。なかには1000年使えるとか、室内の空気を浄化するなど宣伝されたこともあった。月のパワー(重力?)が、木質に影響を与えるという。そして希少な木材だとして売り出されている。

しかし、実験の結果、ほとんどほかの時期に伐採された木と差異はなかった。むしろ伐採後の乾燥させ方が材質に影響を与えている。

それでも、一部の人には、月齢という言葉が神秘さを増幅して、何か木にパワーを授けているように感じるのだろう。

なぜ自然が好き森が好きな人の中に、オカルティックな世界に惹かれる人が多いのだろうか。単にロマンティックに惹かれるだけならよいが、明らかに似非科学にはまり込み、正常な判断を失うケースも少なくない。それにつけ込むようなビジネスにつなげて、人々の心の隙間に入り込もうとするのは、単純な犯罪行為という以上に卑しさを感じる。

冒頭に触れたように、私も巨木や巨石を前にして、あるいは神聖な場所に立つと何かを“感じる”ことはある。だが、それをスピリチュアルなパワーのおかげとは思わない。心理学でも十分説明のつくものである。

なぜ、それで納得しないのだろうか。よりスピリチュアルな力を信じたがるのか。それは危険な兆候である。

ちょっとした不思議な感覚を経験したり、森の効能を信じることで森に関心を強め、ひいては自然の大切さを理解してもらえるなら、あえて否定しなくてもいいかもしれない。しかし、森の素晴らしさを語るのに似非科学を持ち出すのは、自然に対して、むしろ失礼に当たるだろう。

あるがままの森を楽しもう。さもないと、効果が出なかったと、森を恨むことにもなりかねない。

森林ジャーナリスト

日本唯一にして日本一の森林ジャーナリスト。自然の象徴の「森林」から人間社会を眺めたら新たな視点を得られるのではないか、という思いで活動中。森林、林業、そして山村をメインフィールドにしつつ、農業・水産業など一次産業、自然科学(主に生物系)研究の現場を扱う。自然と人間の交わるところに真の社会が見えてくる。著書に『鹿と日本人 野生との共生1000年の知恵』(築地書館)『絶望の林業』『虚構の森』(新泉社)『獣害列島』(イースト新書)など。Yahoo!ブックストアに『ゴルフ場に自然はあるか? つくられた「里山」の真実』。最新刊は明治の社会を揺り動かした林業界の巨人土倉庄三郎を描いた『山林王』(新泉社)。

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