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「あさが来た」の陰にいた知られざる山林王

田中淳夫森林ジャーナリスト
現在の日本女子大学。その開校を支えたのは広岡浅子だけではない。(写真:アフロ)

NHKの朝ドラ「あさが来た」が始まった。

このドラマは、明治・大正時代の大阪の実業家・広岡浅子がモデルであることはすでに知られているだろう。そして日本女子大学の創立に関わったことが、彼女の人生の大きなドラマだ。

ところで日本女子大学(当初は日本女子大学校)の創設者は、成瀬仁蔵である。浅子ではない。ドラマの冒頭、浅子が新入生に挨拶するシーンがあったが、これでは誤解を招く(笑)。

浅子が開校を強力に支援したことは間違いないが、あくまで成瀬の支援者であった。そこで、浅子と成瀬の間を取り持つとともに、浅子と二人三脚で女子大創設を後押しした人物がいることに触れたい。

それは奈良・吉野の山林王・土倉庄三郎である。

明治期、土倉家は吉野に9000ヘクタールの山林を所有し、三井家に匹敵する財力を蓄えていたとされる。その当主たる庄三郎は、近代国家が作られていく中でさまざまに関与した。自由民権運動を財政的に支えたと言われ、立憲政党新聞(現在の毎日新聞の源流)の創刊を支えたほか、板垣退助の洋行費を負担した。さらに大隈重信、山県有朋、後藤象二郎など明治の元勲と言われる人々とも親しく、アポイントなしで大隈首相を訪ねたら、大隈は直立不動で庄三郎を迎えた逸話も残る。

そして教育も熱心だった。地元の村に私塾を開くほか、同志社大学の設立をめざす新島襄の後ろ楯になり、5000円を寄付している。そして息子たちを同志社に学ばせた。

土倉庄三郎
土倉庄三郎

庄三郎は、女子教育にも熱心で、娘たちを最初は大阪の梅花女学校に入学させ、その後同志社へ転学させている。また次女をアメリカに留学させた。梅花女学校の教師だった成瀬仁蔵とは、この時代に知り合ったのである。

成瀬仁蔵が女子大学の創設を目指して庄三郎に相談した際、「広岡浅子を訪ねなさい」と勧めている。これが成瀬と浅子の出会いだ。

浅子は、成瀬の熱意に感動して、女子大学の設立のために協力を惜しまなかった。

浅子と庄三郎は、ともに5000円の出資を約束する。さらに大阪や東京の政財界人に声をかけてまわった。おかげで多くの政治家や華族、そして財界人などを巻き込むことができたのである。

女子大学創設に賛同する人は多かったが、単なる掛け声だけでなく、本当に資金の提供と足を動かして尽力したのは浅子と庄三郎の二人である。

浅子と庄三郎の関係を示す傍証として、『日本女子大学校 創立事務所日誌』の明治29年8月11日の項目に「広岡夫人女子大学用にて大和大瀧村土倉庄三郎君へ往、新田同伴」という記述がある。浅子は、わざわざ山深い吉野の土倉家を訪ねた(土倉邸に一泊した模様)のである。大学設立のために重要な打ち合わせを行ったようだ。

日本女子大学創立事務所日誌
日本女子大学創立事務所日誌

そして浅子と庄三郎は、寄付金の返済保証という大きな決断をする。

女子大の設立資金として各界に寄付を集める際、ネックとなったのは「設立できなかった場合、寄付した金は返済されるのか」という出資者の心配であった。そこで、もしそんな事態になったら、土倉家と広岡家が責任を持って出資者に返済すると確約したのである。

この保証が寄付金集めの起爆剤となった。

その後大学の設立場所を大阪から東京に移すなど、さまざまな経緯があったが、艱難を越えて1901年に日本女子大学校は開校された。

その陰には、広岡浅子だけでなく山林王・土倉庄三郎の尽力があったことを記憶に留めてほしい。

森林ジャーナリスト

日本唯一にして日本一の森林ジャーナリスト。自然の象徴の「森林」から人間社会を眺めたら新たな視点を得られるのではないか、という思いで活動中。森林、林業、そして山村をメインフィールドにしつつ、農業・水産業など一次産業、自然科学(主に生物系)研究の現場を扱う。自然と人間の交わるところに真の社会が見えてくる。著書に『鹿と日本人 野生との共生1000年の知恵』(築地書館)『絶望の林業』『虚構の森』(新泉社)『獣害列島』(イースト新書)など。Yahoo!ブックストアに『ゴルフ場に自然はあるか? つくられた「里山」の真実』。最新刊は明治の社会を揺り動かした林業界の巨人土倉庄三郎を描いた『山林王』(新泉社)。

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