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環境問題は“行列への割り込み”と一緒

田中淳夫森林ジャーナリスト
電車に乗り込む行列に割り込むと誰が困るのか(写真:アフロ)

小池百合子都知事が「満員電車ゼロ」を公約にしたことが話題になっている。たしかに電車に乗り込むための行列は今も絶えることがない。

そんな話から連想したのが、次の命題。

特急列車の自由席に乗り込むために、ホームに長い行列ができていた。そこに遅れてやってきた3人の女性が先頭付近で待っていた友人と合流、割り込んだ。もともと4人で旅に出る予定で、4人まとまった席が取りたかったので一人が早くから並んでいたのである。

さて、この行為は許されるのか。

なんだか日常的に目にする光景である。そこで思わず考えてみた。

割り込まれたすぐ後ろの人はどんな反応をするだろうか。ムッとするかもしれない。しかし、声を挙げて抗議するケースは少ないだろう。なぜなら、3人が割り込んだぐらいで自由席はなくならない。多分、自分も座れるからである。

当然、彼女らの前の人々も座れるからまず文句を言わない。自分の後ろの列で起きたことに気にも止めない。

ただ列がどれだけ延びているかが問題である。並ぶ人々全員が最終的に座れるのなら、目くじら立てるほどのことではない。しかし、最後列の人たちの中に座れないケースが出た場合は……。

彼らが座れないだけでなく、乗り込めないほど混んでいるケースだって想定できる。ラッシュアワーの満員電車のように。

やはり割り込んだ彼女らは、迷惑をかけているのだ。

しかし、悲しいかな最後列の人は先頭に文句をいう余裕はないだろう。列が長く延びていたら前の様子が見えないし、文句を付けるために今の位置を離れるのも難しい。

ここでマナーとか倫理、ましてや法律を語りたいのではない。この構図が環境問題とよく似ていることに気づいたのである。

今は自然の資源がたっぷりあったら、どんどん使ってもすぐに枯渇しない。また廃棄物も、山奥の辺鄙なところに埋めてしまえば、現代の人々の生活に影響は出ないだろう。資源の収得方法(もしくは廃棄方法)によっては今の自分たちに害が出るかもしれないが、とりあえず自分たちに不都合はなく、恩恵に預かれると思えば、あまり目くじら立てない。

しかし、列の遠くの後ろ……時代を経た後世の人々にとっては、自分たちの先祖が好き放題に資源を浪費したおかげで苦労する可能性が高い。しかも時間を遡って先祖に「浪費するな」「捨てるな」と文句を言えないのである。

現在、林野庁が音頭を取って木づかい運動が進められている。木をもっと使おうという趣旨だ。(この場合の木材とは国産材を意味するのだが、自由貿易の立場から大きな声では言えないらしい。)

たしかに日本の人工林資源は、有史以来最大と言われるほど膨らみ、育った木を使わないと林業が停滞し、ひいては山村経済が回らない。密生した人工林は、生物多様性の観点からもよろしくない。

そこで使い捨てに近い合板の製造が増やされ、木を燃料にして燃やすバイオマス発電が推進されている。今資源がたっぷりあるから使ってしまおうというわけだ。おかげで、当面、林業関係者の仕事は増えるし発電で儲ける会社も出る。地域経済も活性化するかもしれない。

だが気づくと、大面積のはげ山が各地に広がっている。伐採跡地への植林は進まない。それどころか木づかいの勢いを受けて、海外の天然林からも大径木材を伐りだし寺社仏閣や天守閣再建に使おうとしている。

これって、列の最後列に眼を向けてないということだ。満員電車に自分が乗ることだけを考えて割り込みに突進している状況……かもしれない。

森林資源だけではない。二酸化炭素とか石油とか放射能物質のゴミも同様だろう。列の後ろを見ることは、未来の世代の地球に目を配ることだ。残念ながら、未来への影響に眼を向ける人は少ない……とまあ、満員電車の行列から地球環境問題に思いを馳せてしまったのでした。

森林ジャーナリスト

日本唯一にして日本一の森林ジャーナリスト。自然の象徴の「森林」から人間社会を眺めたら新たな視点を得られるのではないか、という思いで活動中。森林、林業、そして山村をメインフィールドにしつつ、農業・水産業など一次産業、自然科学(主に生物系)研究の現場を扱う。自然と人間の交わるところに真の社会が見えてくる。著書に『鹿と日本人 野生との共生1000年の知恵』(築地書館)『絶望の林業』『虚構の森』(新泉社)『獣害列島』(イースト新書)など。Yahoo!ブックストアに『ゴルフ場に自然はあるか? つくられた「里山」の真実』。最新刊は明治の社会を揺り動かした林業界の巨人土倉庄三郎を描いた『山林王』(新泉社)。

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