ムーミンはポリティカル・コレクトネスの見本

■ムーミン

最近僕はあまりテレビを見なくなったのでよくわからないが、「ムーミン」の再放送ってやってるのだろうか。

というのも、ネットのこの記事を読んで(同性婚を隠さなかったムーミン作者)ずいぶん感動してしまったからだ。

ムーミンの作者は同性愛者であり、現代風に言うとマイノリティだった。

だからこそ、あのミーがいて、スナフキンがいて、ニョロニョロが存在した。いわば「マイノリティ」当事者であったヨハンソンは、そうした実体験も含めてあのムーミン谷を創造した。

僕はこれと絡めて「ポリティカル・コレクトネス」と結びつける。

リベラル的な政治的正当性が行き過ぎたため、アメリカではトランプ政権が生まれたが、理想主義者(リベラルと同義)が何割かを占める日本では、このトランプ誕生の意味があまり理解されていないと思う。

トランプへの選択は、何もアメリカが超保守になったというわけではなく、ヒラリー的要素(主としてフェミニズム)に対するカウンターだと僕は思う。

ヒラリー的要素は「ポリティカル・コレクトネス」として表現される。一般的にポリコレは差別言葉の言い換えと理解されているが、もっと広義においては、差別語の撤廃と言い換えともにある微妙な要素の捨て去りとも解釈できる。

ヒラリーにおいては、フェミニズムを中心としたマイノリティ擁護を中心と据えるあまり、そこに付随する微妙な問題を捨て去る問題だ。

だからこそ、ヒラリーは落ちた。

■ヒラリーが捨てた問題

ヒラリーが捨てた問題とは、女性マイノリティに光を当てると、それまでマジョリティだった人々(主として白人男性)はどういう扱いになるか、が含まれる。

そこに付随する微妙な問題(マジョリティから落ちる人々の悔しさ、ルサンチマン等)をどう扱うか、また女性以外のマイノリティの存在の立場等、単純なフェミニズム的イデオロギーを超えた、複雑なマイノリティ内の思いがある。

そこを、単なる言葉の言い換えであるポリティカル・コレクトネスはフォローできない。マイノリティ優位はマイノリティ優位であって、追いやられつつあるマジョリティの微妙な心理をフォローできない弱さが、ポリティカル・コレクトネスにはある。

これは、政治的紋切り的文言ではなかなかカバーできない。

それをカバーするとしたら、おそらく「文学」だと思う。それも小説的散文ではなく、詩や童話が有効だ。それら詩や童話がもつメタファーが、我々の階層化社会の殺伐さを間接的に撃つ。

■ムーミン谷とリベラル

スナフキンはカッコいい。ミーはわがまますぎる。ニョロニョロは集団で自由だ。

また、スノークも勝手だしムーミンパパもママもあまりに人間的過ぎる。ムーミン谷の人々は、あまりに人間的すぎ、だからこそ魅力に溢れている。

文学的メッセージとして、ここには「リベラル」がある。

たぶん、ヒラリーがとるべきだった戦術は、単純なマイノリティ擁護ではなく、ムーミン谷の人々を引用してムーミン谷の人々とともに生きていくことを宣言する戦術だったのだ。

ポリティカル・コレクトネスの有効な実践がここにある。★