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自民党の結党精神と安倍自民党との遠く離れた関係

田中良紹ジャーナリスト

メディアは「憲法改正」を「自民党の原点」と報道し、自民党が「憲法改正のために作られた」かのような印象を与えてきた。そのためか11月29日の「結党60年記念式典」では安倍総理の「憲法改正」発言に注目していたようだが、言及しなかったためニュースの扱いは小さくなった。

60年前の11月15日、自由党と日本民主党が合同して自民党は誕生したが、「自主憲法制定」と「再軍備」を訴えていたのは民主党で、それは自由党の吉田茂の政治路線である「親米」、「護憲」、「軽武装」、「経済重視」に対抗するためである。従って「憲法改正のために自民党が作られた」と考えるのは誤解だと思う。

結党時の自民党には吉田派、反吉田派、戦前回帰派、官僚派、党人派など様々な派閥があり、思想や政策が一致していたわけではない。「単独講和」か「全面講和」かで分裂していた左右の社会党が55年10月に再統一される事になった危機感から保守は急遽合体した。

従って「保守合同」の仕掛け人三木武吉は「10年も持てば良い」くらいに考えていたと言う。それが60年のうち57年間も政権与党として日本政治の中心に存在している。自民党から権力を奪い取る野党が存在しなかったからだが、それが何故か、そしてどうなるかを考えてみる。

自民党結党に際して発表された「立党宣言」、「綱領」、「党の性格」、「党の使命」、「党の政綱」などを読むと、そこで強調されているのは日本社会党との違いである。社会党が「勤労大衆の党」を標榜し「社会主義経済」を目指しているのに対し、自民党は「国民政党」の看板を掲げ、「福祉国家」の完成を期するとした。

その「立党宣言」、「綱領」、「党の性格」には「憲法改正」のケの字もない。そこに盛り込まれているのは、社会党の階級主義に反対するため、民主主義、議会主義、平和主義、そして個人の自由と人格の尊厳を訴える姿勢である。読んでみて私も驚くほどのリベラルさだ。

「憲法改正」が登場するのは「党の使命」と「党の政綱」に於いてである。ここに冷戦構造の世界情勢に対する認識と米国の占領支配から脱却を目指す考えが盛り込まれている。つまり社会主義勢力との戦いと日本を弱体化させた占領政策批判である。

そして「党の政綱」として6項目を提示する。一、祖国愛を高める教育改革。二、選挙制度と公務員制度の改革。三、年次計画による経済自立の達成。四、医療、年金など社会保障制度による福祉社会建設。五、国連加盟を促進しアジア諸国との善隣友好と賠償問題解決。六、平和主義、民主主義及び基本的人権尊重の原則を堅持して現行憲法の自主的改正。

つまり憲法改正は「党の政綱」の最後に登場し、そこには「世界の平和と国家の独立及び国民の自由を保護するため、集団安全保障体制の下、国力と国情に相応した自衛軍備を整え、駐留外国軍隊の撤退に備える」と記されている。

「集団安全保障体制の下」とは、国連主導下で国力に見合った軍隊を整備し駐留米軍の撤退に備えるというのである。これは第一次大戦後に国際社会が理想とした安全保障の考え方である。当時の国際社会はパリ不戦条約と国際連盟で平和を達成しようとした。

これを読むと立党時の憲法改正の考えはこの夏に安倍政権が法制化した安保法制とはまるで異り、反動的とは思えないが、それが戦後一貫して社会党との激しい対立の基となったのは誠に残念だと思う。

それではなぜ自民党がかくも長く政権を維持できたか。それは社会党が野党である事をやめたからである。55年体制最初の総選挙は58年5月に行われた。この選挙で社会党は議席の過半数を超える候補者を擁立する。つまり政権獲得を目指した。

ところが結果は三分の一をやや上回っただけに終わった。以来、社会党は過半数を超す候補者を立てなくなる。つまり政権獲得を断念し、憲法改正を阻止できる三分の一の議席を取る事を目標にした。

政権交代を狙わない野党は野党ではない。しかし社会党は「護憲」の目標に甘んじて政権構想を持たず、「何でも反対」の政党になった。当初の「社会主義経済」の目標も「ヨーロッパ型福祉国家」に変わり、自民党と変わらなくなる。つまり自民党も社会党も福祉国家という「大きな政府」を目指す事で政策の差がなくなった。

一方、自民党は米国の再軍備要求をかわして経済に力を入れるのに、社会党の「護憲」は好都合であった。社会党に必ず三分の一の議席を与えるという暗黙の了解が自民党にはあった。

しかしそれでは政権交代のない政治体制が永遠に続く事になる。そこで自民党内に「大きな政府」の対抗軸として「小さな政府」の政策を取り入れる動きが出てきた。その最初となったのが小沢一郎氏の著書「日本改造計画」である。

何でも国に面倒を見てもらおうとする国民に「自己責任」の考えを説得したのは日本ではこの本が最初であった。これで「大きな政府」と「小さな政府」の対抗軸が作られ、選挙制度も小選挙区制に変わった事で日本にも政権交代可能な政治体制が実現した。

冷戦終了後、細川政権の誕生で自民党は結党以来初めて下野した。すると自民党は社会党の党首を総理に担ぐことで政権に復帰する。これに自民党右派が反発した。党を割る事はしないが右寄りの勉強会を活発化させ、そこに参加したのが当選したばかりの安倍晋三氏である。

一方で「小さな政府」を実現したのは小泉純一郎氏であった。彼は小選挙区制に反対していたが「郵政選挙」では小選挙区制の特徴を生かして落ち目の自民党を大勝させ、その力で自民党の「綱領」を変更する。こうして「自民党をぶっ壊す」と叫んだ総理の手によって立党時の「綱領」とは真逆の「新綱領」が2005年に出来た。

最初に「憲法改正」が謳われ、次いで「福祉国家」を否定し「小さな政府」を目指す事が目標とされた。しかしこの「新綱領」には小泉氏らしくイデオロギー色はない。それが民主党政権の誕生で自民党が再び野党に転落すると、民主党に対抗する必要に迫られた自民党はさらに右のイデオロギーにシフトする。

谷垣総裁の下で「2010年綱領」が作られた。民主党の政策を社会主義的、その政治を国家社会主義的統治と批判し、また日米安保条約を基本に「一国平和主義」を排し、日本らしい日本の姿を示して国際社会に貢献するという新憲法の制定を宣言した。立党精神にある国連主導の集団安全保障ではなく、米国に追随する集団的自衛権が視野に入ってくる。そして小泉元総理の「小さな政府」は消え、市場原理主義も否定された。

この延長上に安倍自民党は政権に返り咲いたのである。従って立党の精神は2005年に真逆の方を向き、それがまた2010年の野党時代に反民主党のイデオロギーをまとい、それが安倍総理の強権的な政治につながるのである。

自民党の立党精神とは随分と遠く離れた政治になってしまったものである。しかし自民党が60年近くも与党を続けられた秘密は立党精神にあったのではないかと私は思う。アベノミクスの失敗に国民が気付く時、求められるのは60年前の自民党ではないか。野党はそのことを腹の中に入れておいた方が良い。

ジャーナリスト

1969年TBS入社。ドキュメンタリー・ディレクターや放送記者としてロッキード事件、田中角栄、日米摩擦などを取材。90年 米国の政治専門テレビC-SPANの配給権を取得。日本に米議会情報を紹介しながら国会の映像公開を提案。98年CS放送で「国会TV」を開局。07年退職し現在はブログ執筆と政治塾を主宰■オンライン「田中塾」の次回日時:3月31日(日)午後3時から4時半まで。パソコンかスマホでご覧いただけます。世界と日本の政治の動きを講義し、皆様からの質問を受け付けます。参加ご希望の方は https://bit.ly/2WUhRgg までお申し込みください。

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