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書評:鳥飼玖美子著『英語教育論争から考える』(みすず書房、2014)

寺沢拓敬言語社会学者

昨年夏に、鳥飼玖美子著『英語教育論争から考える』がみすず書房から出版された。

私は同書の書評を『新英語教育』2015年2月号(三友社出版)に寄稿させていただいた。

書評の依頼を受けたとき「1000字以内」と伝えられていたのだが、そのことをすっかり忘れたまま執筆にとりかかってしまったため、結果的に2000字以上も書いてしまった。一応、編集担当の方にお伺いをたてみたが、そのまま掲載することはできず、泣く泣く千数百字削らなければならなかった。もったいないので、こちらには削る前の原稿を転載したいと思う。

鳥飼玖美子『英語教育論争から考える』(みすず書房、2014)

本書は、英語教育論争および英語教育政策の歴史を跡付けながら現代の英語教育のあり方を問うた本である。章立てを以下に記す。

第1章 「英語教育大論争」

第2章 「平泉試案」を現状に照らしてみる

第3章 「コミュニケーションに使える英語」、そして「グローバル人材育成」への道程

第4章 「文法を教えるな」というタブー

第5章 これからの英語教育へ向けて

終章  グローバル人材は育つか

論争史の出発点は1975年のいわゆる「平泉渡部論争」である ――そもそも本書の執筆のきっかけが鳥飼玖美子氏と平泉渉氏の出会いだったそうである。第1章で同論争の概略が紹介されたあと、第2章で「平泉試案」と現在の状況が対比され、平泉試案の提言の多くが現代でも問題なく通用することが確認される。

第3章では平泉渡部論争以後の英語教育政策の動向が俎上に載せられる。平泉試案のコアでもあった「使える英語力の育成」という目標が、現代の英語教育政策にまで脈々と受け継がれていることを多数の資料を用いて明らかにしている。

第4章では「英文法有害論」に焦点があてられる。鳥飼氏も指摘するとおり、「平泉試案」は文法を決して軽視していなかったが、平泉試案に期待を寄せた一般の人々が「使える英語の教育」を会話中心で文法不要の英語教育だと理解した面があったのは事実だろう。その点で、英文法有害論は平泉渡部論争の延長線上にあるとする鳥飼氏の指摘は妥当であると思われる。

第5章では、現代の英語教育をめぐる様々な論争がとりあげられる。たとえば、「文法は必要か不要か」「意味か形式か」「英語の授業は英語で行うべきか否か」「英語教育の目的は何か」といった論争に関して、的確な「交通整理」とともに鳥飼氏の評価が示されている。

終章において、英語教育論争から私たちはいかなる示唆を得るべきかが論じられる。とくに、近年の教育政策のキーワードになりつつある「グローバル人材育成」と絡めながら、これからの英語教育のあり方が論じられる。

以上からもわかるとおり、英語教育関係者による「英語教育本」としてはなかなか異色である。英語教育本と言えば「どう教えたらよいか」を主題としたハウツーものが中心だが、本書における鳥飼氏の関心はそこにはなく、「何のために教えるべきか」という目的論を中心に据える。もちろん目的論は「高尚」でハウツーはそうではないと言うつもりは毛頭ないが、現代の英語教育論には目的に関する議論が欠けていると感じることも事実である。しかしながら、そもそも何らかの目的に依拠して初めてハウツーは語れるものなので、あらゆるハウツーは実は特定の目的に(たとえ意識していないとしても)基づいているのである。したがって、ハウツーの基礎づけを行ううえでも目的論をしっかりと踏まえておくことは重要であり、その点が本書の意義の一つである。

ハウツー英語教育論の基礎になると述べたが、本書の提起する問題は英語教育関係者だけに関わるものではない。本書の主題が英語教育政策である以上、そして政策は「市民」の合意の上に成り立つ(建前の)ものである以上、本書が想定する読者は一般市民全体に及ぶはずである。その意味できわめて多様な読み方ができる書籍であるが、評者は戦後英語教育史を専門にする者として、以下、英語教育論争史の観点から論点を提示してみたい。

平泉渡部論争そのものに対する批判的評価をどう考えるか

本書は平泉渡部論争をどちらかといえば肯定的にとりあげているが、同論争そのものに対しては否定的評価も少なくない(たとえば、渡辺武達『ジャパリッシュのすすめ ――日本人の国際英語』)。その理由の一つは、論争がお世辞にも噛み合っていたとは言えなかった点だろう。

評者にとってそれ以上に重要な問題だと思われるのが、平泉渡部論争では特定の英語教育目的がほぼ無視されていた点である。評者も近著で指摘したとおり(『「なんで英語やるの?」の戦後史』、2.3節)、平泉氏も渡部氏も学校英語教育の公共的機能にはほとんど関心を示していなかった(この原因は、いずれの論者もどちらかといえば保守的な教育思想の持ち主だったことにあると思われる)。ふたりとも学校英語が教育の機会均等に果たす役割について何ら論じていない。同様に、外国語科の公共性創出という機能もまったく論点にあがっていない。たとえば外国語教育を通じて異文化理解を促し、寛容な社会を創出すべきだとする目的論について、「使える英語」を支持した平泉氏はもちろんのこと、「教養としての英語学習」を支持したとされる渡部氏ですら言及していないのである(なお、しばしば誤解される点だが、渡部氏は「教養」を重視していたというよりは「知的訓練」としての意義だけを支持していたとするのが正確である)。

たとえ「公共的機能」という用語が使われていないとしても、機会均等や異文化理解を重視した議論は、現代の英語教育目的論の重要な構成要素である(そして、この目的論を重視する代表的媒体が『新英語教育』誌だろう)。もちろん鳥飼氏自身がそのような目的を無視しているわけではない。むしろ終章では、単に「英語が使える日本人」の育成にとどまらない、より包括的な英語教育論が展開されている。したがって、終章が平泉渡部論争の「欠陥」を補う部分と評者は理解した次第である。財界や政府が ――そして場合によっては世論が―― 学校教育に要求してくる「グローバル『人材』の育成」という目的論を、「グローバルな『市民』の育成」に効果的に読み替えるうえでも、公共性の創出と「使える英語の教育」がどのようにつながるのか(あるいはつながらないのか)を理論化しておくことは重要な意義を持つだろう。

言語社会学者

関西学院大学社会学部准教授。博士(学術)。言語(とくに英語)に関する人々の行動・態度や教育制度について、統計や史料を駆使して研究している。著書に、『小学校英語のジレンマ』(岩波新書、2020年)、『「日本人」と英語の社会学』(研究社、2015年)、『「なんで英語やるの?」の戦後史』(研究社、2014年)などがある。

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