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小学校英語とエビデンス

寺沢拓敬言語社会学者

『総合教育技術』6月号に、私のインタビュー記事が掲載されました。

タイトルは「社会の実態を正確に把握しエビデンスに基づいた教育を」です。B5版で見開き、計4ページ。思いのほか、たっぷり論ずることができました。

小見出しは以下のとおり。

  • 現実と乖離してしまった英語と日本人に関わる言説
  • 「日本の英語教師はだめ」言説は本当に根拠があるのか
  • 英語教育に対する立場の違いはどのようにして生まれるのか
  • 早期英語教育によって英語力は向上するのか

同誌の「政府・教委・管理職寄り」という方向性にもかかわらず、私のような「反政府」的な論者の文章を載せた編集部の方はなかなかの勇気のある判断だったろうと想像します(ナイスフォロー!)。以下、インタビューでは喋ったけれど誌面には載らなかった内容を思い出しながら書いてみます。

必修化・教科化に関するはエビデンスは「まだ」ない

2000年代後半に小学校英語「必修化」が決まりましたが、実はたいしたエビデンスがなく判断が下されました。最近、「教科化」が進められていますが、この議論もやはりエビデンスを欠いています。

一口にエビデンスと言っても実は様々です。「授業参観してみたら子どもたちが活き活きしていた!」というきわめて粗雑なエビデンスから、「調査協力者を無作為抽出で選び出し、きちんと英語学力を測定し、さらに種々の擬似相関を統計的に排除した末に得られた小学校英語の因果的効果」という妥当性がきわめて高いエビデンスまで幅があります。現在の小学校英語推進で利用されているエビデンスはほぼすべてが「前者のタイプ」に属するものと言っていいでしょう。

欧米の「エビデンスに基づいた教育政策」(Evidence-based Education Policy)において、前者のような個別的・エピソード的な事例はほとんど価値を置かれません。(参考:国立教育政策研究所編 『教育研究とエビデンス −国際的動向と日本の現状と課題』D. Bridges, P. Smeyers, & R. Smith (Eds.) Evidence-Based Education Policy: What Evidence? What Basis? Whose Policy?)。

なお、誤解を避けるために言っておくと、特定の教室で子どもたちが活き活きしたり、目が輝いたことが「無価値な事例」と言っているわけではありません。もちろん個々の事例として見ればこれらはかけがえのない「貴重な事例」です。しかし、そうした「かけがえのない個々の事例」を、まったく関係のない子どもたちにまで自動的に適用していいわけではないこともまた事実です。

政策はそもそも、個々の子どもや教室・学校の違いを平均的にならしたうえで、特定の標準的な枠組みを一律に適用する点で、ある面ではきわめて「暴力的」な営みです。したがって、いくら「かけがえのない貴重な実践」であっても、ヨソの教室に適用した瞬間に「貴重な実践」にならなくなることは普通にあります。「毒にも薬にもならない」だけならまだマシです、場合によっては大きな副作用を起こす恐れすらあります。そうした副作用を慎重に排除するために、妥当性の高いエビデンスを求める姿勢が重要になります。妥当性の高いエビデンスとは、無作為抽出や統計的統制などによって種々のバイアスが除去されたデータです。

エビデンスはとれるのか?

「では、小学校英語の効果に関しても良質なエビデンスはとれるますか?」とも聞かれました。結論から言えば、はい、問題なくとれます。

拙著13章「早期英語学習の効果」の最後の節で詳細に議論していますが、たしかに多大なコストはかかりますが不可能なことではまったくありません。現に、欧米(とくに米国)では、特定の教育プログラム・指導法の効果が体系的に調査・研究され、「教育エビデンス」として蓄積されています。また、日本でも主に教育学・教育社会学・教育経済学の分野でこれに類する調査は行われています(例少人数学級政策の教育効果の不都合な真実 / 赤林英夫 / 教育の経済学 | SYNODOS -シノドス-))。また、そもそも日本の教育学にも、欧米のエビデンスベーストとは少々文脈は異なりますが、「特定のプログラムの効果を実証的に研究する」という風土はあります。

たしかに英語教育研究ではこうした社会統計的調査は行われてきませんでした。ただし、拙著でも論じたことですが、これは「英語教育ではできない」のではなく「英語教育研究者がしてこなかった」だけだと思います。

現在では研究校での先行的な小学校英語がスタートして20年以上たっています。そもそも2000年代半ばの必修化論議のときですら既に10年以上経っていました。したがって、小学校英語を経験した子どもは既に多数存在しています。こうした人々の追跡調査をして、その英語力や学習歴を詳細に調査し、統計手法の力を借りて擬似相関の恐れのある要因を除去した因果的な効果を推定することは不可能なことではありません。

脱線しますが、上記のような手法は「後ろ向き調査」と呼ばれる手法で、英語教育学ではあまり使われないかもしれませんが、疫学や政策科学の分野ではとてもメジャーな手法です。どうも、英語教育学では、「前向き」型の思考枠組みが強いせいか、ランダムに実験群と統制群をわけた実験をエビデンスとしてイメージしている人が多いようです。たしかに、教育という人を扱う分野で実験などそう簡単にできませんが、政策科学の分野では実験以外の手法を用いてエビデンスを集める方法が多数検討されていますから、頭ごなしに「できない」と決めつけないほうがいいと思います。

小学校英語教育の研究者の学問的背景

現在の英語教育研究者の多くは、言語学や心理学をバックグラウンドに持つ人たちで、その分野で博士号をとっている人がほとんどです(まあ、博士号を持っていない人も多いですし、修士号を持っていない人もたまにいます)。小学校英語政策を論じている人のほとんどが政策研究の分野で学位や査読付き論文を持っていません――私の専門は「英語教育学」学であり、きちんと調べていますからこの点は責任をもって断言します。言ってみれば、知識のレベル点では現場の先生とたいして変わりありません。ですから、現場の先生も、もし理不尽と思える政策を押し付けられたのなら、本当にそれはエビデンスがあるのかを問うてもよいと思います。

政策科学としてのトレーニングを欠いているにもかかわらず、政策論議の舞台に担ぎ上げられているわけですから、それはそれで大変な「大人の事情」もあるんでしょう。しかし、現場の教員や子どもたちにしてみたらそんな事情は知ったこっちゃありませんし、政策研究者から見てもそんなことは免罪符にはなりません。

小学校英語に賛成かどうか

また、「寺沢さんは結局のところ、小学校英語に賛成ですか?反対ですか?」とも聞かれました。この点についても次のようにお答えしました。

まず第一に、今現在行われている小学校英語実践(個別具体的な営み)に賛成とか反対とかそういうことを無責任に言う気はまったくありません。個々の実践の成否は、実践者――その多くは小学校の現場の先生になると思います――が目的・目標と児童や自身の状況を勘案しながら、個別的に判断すべき性格のものです。特定の現場を共有していない人間が、「語感がだめになる」とか「日本語が身につかない」とか、「いいや、語感は良くなる」とか「いいや、日本語も伸びるよ」とか価値判断をするのは現場に対しあまりに非礼ですし、そればかりか政策判断的にも危険なことだと思います。

しかし、断固として反対すべきなのが「必修化・教科化」の成立手続きです。

教育基本法「改正」にせよ、教員免許更新制にせよ、議論がきちんとつくされぬまま、いい加減な根拠をもとに決定されてしまいましたが、公立小学校の外国語活動必修化も同様です。

国民に説明責任を果たしていない、関係者の意見を集約していない、という点で不公正です。このような「不公正な手続き」で教育政策が決まる土壌を放置しておくべきではありません。

一部の小学校英語推進派は、自分たちに都合がよい政策だからといってエビデンス不足や議論不足を見て見ぬふりしているのが現状だと思います。しかし、このような空気を放置していたら、将来仮に排外主義的な極右政権が誕生して「英語教育縮小!」などと言い出したときはどうするのでしょうか。その時も、やはり黙って従うのでしょうか。

言語社会学者

関西学院大学社会学部准教授。博士(学術)。言語(とくに英語)に関する人々の行動・態度や教育制度について、統計や史料を駆使して研究している。著書に、『小学校英語のジレンマ』(岩波新書、2020年)、『「日本人」と英語の社会学』(研究社、2015年)、『「なんで英語やるの?」の戦後史』(研究社、2014年)などがある。

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