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「英語ができてもグローバル人材とは呼べない」

寺沢拓敬言語社会学者

「英語ができてもグローバル人材とは呼べない」という主張をよく聞く。

もちろんそれはその通りなのだが、実は「グローバル人材=英語がよくできる人」と考えている人はほとんどいない。

周りを見回してみても本気でそう考えている人に会ったことがない。

その意味で、ワラ人形を作って殴っているようなものなので、何らかの聞く価値がある主張かと言えば、残念ながらまあないだろう(ただし、ワラ人形を殴って「溜飲を下げる」という面では役立つが)。

主張自体に意味はないことは大前提として、ではなぜこのような言説がそれなりに流通するのか、その背景を分析してみたい。

グローバル人材育成論の「英語教育」推し

もちろんグローバル人材育成をうたう英語教育プログラムというのは数多くあるし、グローバル人材を育てようという大学にはほぼ必ず「高度の英語力育成」という目標が掲げられている。

たとえば、「グローバル人材育成教育学会」というものがあってその第3回全国大会のプログラムを見ると、見事に「英語教育祭り」である。

基調講演

「日本・アジアにおけるグローバル人材育成のための英語教育:現在と未来」

シンポジウム

「グローバル人材のための英語教育の多様性と更なる可能性」

出典:http://www.j-agce.org/?page_id=2493

だからと言って、「グローバル人材育成=英語教育」という等式が関係者の中にあると考えるのは単純化のし過ぎだろう。

「我こそはグローバル人材だ」と思っている人が、上のような「英語教育祭り」を目の当たりにしてどう思うだろうか。内心忸怩たる思いであろうことは想像に難くない。「英語だけできたって意味がない」と。

自他共にグローバル人材と認める人はふつう、タフネスとかリーダーシップとか異文化に対する柔軟性とか幅広い教養とかそういった能力・資質の重要性を強調する。もちろんこうした人達の多くが英語はバリバリできるが、「英語力なんてものはオマケに過ぎない」と思っている人が大半ではないだろうか。

教育プログラムを具体化しようとするとどうしても語学中心に・・・

それにもかかわらず、なぜグローバル人材育成プログラムが「英語教育祭り」になるか?答えは簡単で、「グローバル人材」(などと称されるもの)の構成要素のうち、語学力が一番客観的で、教育上の操作可能性が高いから、である。。

「リーダーシップ」とか「異文化コミュニケーション能力」とか、そういうものは育成しようと思ってもどうやればいいかわからない。下手をすると、自己啓発セミナーみたいなものになってしまう――まあ、我がセミナーの手法を使えばグローバル人材は育成できると本気で思ってるセミナー屋も存在するだろうけれど(笑)

そういう意味で、教育に携わる人間は、「抽象的に語り、具体的に動く」(Think globally, act locally と似ているが、当然ながら意味は違う)にならざるを得ないということなのかもしれない。夢は大きく、やることはコツコツと。

逆に言うと、教育に携わる人間の多くは、コツコツだけでは満足できないという面もある。大きな見取り図がないまま、日々、具体的な教育行為を繰り返しているだけでは、空虚感に襲われてしまうだろう。たとえば「英語力育成のためだけの英語教育」などというトートロジー的な(しかしとても具体的な)教育行為に邁進できるほど、多くの教師のハートは強くないだろう。

抽象的な目的というのは英語教育の宿命である。戦後の学校英語教育では「英語学習を通した教養育成」が究極的な目標とされた。現代のグローバル人材育成論もこの相似形に思える。つまり、「英語学習を通したグローバル人材育成」という話である。「教養育成」が「グローバル人材育成」に変わっただけ。

言語社会学者

関西学院大学社会学部准教授。博士(学術)。言語(とくに英語)に関する人々の行動・態度や教育制度について、統計や史料を駆使して研究している。著書に、『小学校英語のジレンマ』(岩波新書、2020年)、『「日本人」と英語の社会学』(研究社、2015年)、『「なんで英語やるの?」の戦後史』(研究社、2014年)などがある。

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