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月曜ジャズ通信:ジャズが広げた“声のパフォーマンス”の可能性(ヴォーカル総集編vol.6)

富澤えいち音楽ライター/ジャズ評論家

<月曜ジャズ通信>は9月からリニューアル予定。手始めに「今週の気になる1枚」を無料で読めるようにしました。後半の<総集編>は、月曜ジャズ通信で連載した「今週のヴォーカル」の再録です。

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●今週の気になる1枚〜Minako “mooki” Obata『mooki〜The Best and more』

『mooki〜The Best and more』
『mooki〜The Best and more』

シンガー・ソング・ライターとしてキャリアを重ねるMinako “mooki” Obataの新作はちょっとユニークな構成。彼女のデビューした1995年から1997年にかけて発表した4枚のアルバムからのセレクションという“ベスト盤”としての機能に、書き下ろし新作3曲を加え、20年という活動を俯瞰しながら現在進行形の彼女をクローズアップできるという趣向だ。

ジャズやR&B、ゴスペルに強い影響を受けて育ったというMinako “mooki” Obataは大学在学中から地元のジャズクラブで歌うようになり、そのときに作ったデモンストレーション音源が音楽関係者の手元に渡ってアルバム・デビュー、というシンデレラ・ストーリーを体験する。

1990年代前半の日本のポピュラー音楽シーンは、渋谷系の台頭とそこから抜け出したスピッツやMr.Childrenなどに注目が集まる一方、ビーイング系アーティストや小室哲哉プロデュースのプロジェクトが席巻するなど、バブル崩壊後の不況下を反映しながら明らかにそれまでの“アイドル路線”から脱却した指向性を打ち出し、それが支持されるようになっていた。

それまで“マニアック”としてポピュラー音楽シーンでは避けられていた本格派志向のヴォーカリストにもスポットライトが当たるようになり、そうしたなかにMinako “mooki” Obataがいたということだ。

その後彼女はスタジオ・ワーク、すなわちソング・ライターとしての活動に軸を置くようになる。2000年以降はアニメーション映画「メトロポリス」の主題歌、TVアニメ「ブラックラグーン」や「カイバ」、NHKの朝ドラ「つばさ」への楽曲提供などで高い評価を受けている。アニメーション映画 「マイマイ新子と千年の魔法」でのスキャットによるアカペラ多重録音作品は、彼女の技量の高さとインスピレーションのすばらしさを伝える内容として推したい。

ヴォーカリストという枠にとどまらない活動を続けるMinako “mooki” Obataを、1枚のアルバムというパッケージに収めるのはなかなか難しく、彼女自身がアルバムという活動範囲での表現では納得できないものがあったことは容易に想像できるが、本作は時系列のMinako “mooki” Obataを軸としたことで、その片鱗を伝えるに足る企画となった。

♪「マイマイ新子と千年の魔法」 / Minako mooki Obata スペシャルライブ #1

スキャットによるアカペラ多重録音作品で話題になった作品のライヴ・ヴァージョン。これを聴けば、彼女の頭のなかではひとつのメロディだけが鳴っているのではないことがわかるのではないだろうか。

♪『Golden Child / MINAKO OBATA』 アルバム「mooki ~The Best and more~」より

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♪ラインナップ

ボビー・マクファーリン

チェット・ベイカー

フォー・フレッシュメン

ミルス・ブラザーズ

シンガーズ・アンリミテッド

※<月曜ジャズ通信>アップ以降にリンク切れなどで読み込めなくなった動画は差し替えるようにしています。

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●ボビー・マクファーリン

身体のあらゆる機能を駆使しているとしか思えない発声の概念を超えたパフォーマンスを披露する、まさに“声の魔術師”と呼ぶにふさわしいのが、このボビー・マクファーリン。

1950年にニューヨークで生まれた彼は、両親ともクラシックの音楽家という家庭に育ちます。とくに父親のロバート・マクファーリン・シニアは「メトロポリタン歌劇場の舞台に初めて立ったアフリカ系アメリカ人」というエポックをもち、映画「ポーギーとベス」ではシドニー・ポワチエと共演するなど、有名な歌手でした。

家族はボビーが8歳のときにハリウッドへ引っ越しましたが、そのころからすでに彼の生活は音楽漬けで、クラリネットやピアノを遊び道具にする幼少期を過ごしました。

父親がカウント・ベイシーやジョー・ウィリアムス、ダイナ・ワシントンといったジャズ・ミュージシャンも好んで聴いていたことから、彼の言葉によれば「ジュゼッペ・ヴェルディもデューク・エリントンもジョージ・ガーシュウィンも同じように耳にして育ち、ラジオからはジェームズ・ブラウンやカーペンターズ、マーヴィン・ゲイ、レッド・ツェッペリンが流れているのを聴いて、セルジオ・メンデスとブラジル’66のサウンドにビックリし」ていたそうです。

父親のオペラを観に行ったかと思えば、エレクトリック・マイルスの激しいサウンドやビートルズのエスニックな指向性に興味をもちながら少年期を過ごし、ハイスクールではジャズ・バンドを結成、大学へ進学してもピアノを弾きつづけました。

卒業後も売れないバンドマン生活を続けていたボビー・マクファーリンに転機が訪れたのは、27歳のとき。突如、「僕は歌手になるんだ!」というひらめきを得た彼は、オーディションを受けに出掛け、ヒルトン・ホテルのラウンジの専属歌手としての契約をゲットします。

以後はジャズ・シンガーとして多くのビッグ・ネームとも共演、著名なジャズ・フェスティバルにも出演して、リーダー・アルバムをリリースするようになります。しかし、活動が軌道に乗るに従って、自分が既成のヴォーカリストの枠のなかでしか表現できていないことに不満を抱き、「キース・ジャレットがソロ・ピアノでインプロヴィゼーションをやるように歌いたい!」と思うようになったそうです。

そんな彼が1988年にリリースしたシングル「ドント・ウォーリー、ビー・ハッピー」はビルボード誌のチャートで2週連続1位を獲得し、アカペラ曲唯一の快挙として語り継がれるようになりました。

現在では、小澤征爾直伝という指揮をサンフランシスコ交響楽団をはじめとした名だたる名オーケストラとの共演で披露するなど、その活動はさらにボーダレス化しています。

♪Bobby McFerrin- Don't Worry Be Happy

ボビー・マクファーリンの名をジャズという狭いジャンルから無制限の空間へと引き上げるきっかけになった大ヒット曲です。彼の声だけを多重録音で構成しています。

プロモーション・ヴィデオまで作ったのは、おそらくトム・クルーズ主演の映画「カクテル」(米公開1988年、日本公開1989年)の挿入曲に使われたためでしょう。ロビン・ウィリアムスが出演してますね。

“Don't Worry Be Happy”というフレーズは、インドの霊的指導者であるメヘル・バーバーの教えからボビー・マクファーリンが引用したとのこと。

♪Bobby McFerrin Sings "My Favorite Things" for Berklee Students

バークリー音楽大学を訪れたときに、学生のリクエストに応えて「マイ・フェイヴァリット・シングス」を披露したときのもようのようです。マイク1本で即座にこのパフォーマンスができてしまうなんて、スゴすぎますよね……。

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●チェット・ベイカー

チェット・ベイカー(1929〜1988)をトップ・ヴォーカリストに列席させるには異論もあります。なぜならば、彼はトランペットを本業とし、その腕前こそがジャズを代表するものであるとされるからです。

しかし、そのはかなげな歌声はそれまでのジャズ・ヴォーカルのイメージを一新し、多様化していくことになる1960年代以降のヴォーカル・スタイルの新たな起点となりました。

チェット・ベイカーは米オクラホマ州イェールで生まれるとすぐにオクラホマシティへ移り、少年期はカリフォルニア州グレンデールで育ちました。グレンデールはロサンゼルスから15kmほど離れた都市です。

父親がラジオの音楽番組などを担当する仕事をしていたことから音楽が身近にある環境で育った彼が、楽器を手にしたのは13歳のとき。父親はトロンボーンを買ってきたのですが、子どもには大きすぎてうまく扱えなかったため、トランペットに替えることにしたのだとか。

チェット・ベイカーがジャズと出逢ったのは1946年に徴兵で入隊したとき。第二次世界大戦中にも従軍したジャズ・ミュージシャンは多かったのですが、終戦後もそれは続いていたと考えられます。当時はスウィング・ジャズが一般的ではあるものの、腕の立つミュージシャンのあいだでは競うようにビバップを演奏していたと思われるので、チェット・ベイカーもたちまち魅了されたに違いありません。

除隊すると、ロサンゼルスに創設されたばかりのエル・カミーノ・カレッジで音楽理論を学び、演奏のみならず譜面にも強いミュージシャンとして活動の場を広げていきます。

1950年代初頭にはチャーリー・パーカーの西海岸ツアーのためのメンバー・オーディションに参加し、その座をゲット。正式にチャーリー・パーカー・バンドのメンバーにも抜擢され、レコーディングにも参加しています。

注目を浴びるようになったチェット・ベイカーのルックスのよさに目をつけたレコード会社は、彼に歌を歌わせることを提案。これにチェットも同調します。彼にはフランク・シナトラやナット・キング・コールのような太く張りのある声は出せなかったようですが、それを逆に武器にしようとしたのです。お手本にしたのはクール・ジャズを生み出したジェリー・マリガンのサウンド。ジェリー・マリガンはマイルス・デイヴィスの“クールの誕生”セッションにアレンジャー&バリトン・サックス・プレイヤーとして参加していた、クール・ジャズのオリジネーターのひとりです。チェット・ベイカーは1950年代初頭にジェリー・マリガンと出逢い、意気投合して彼とピアノレスのバンドを結成しています。ところが1953年に麻薬禍でマリガンが逮捕され、バンドも解散。シンガーとしてのオファーがあったのはちょうどこのタイミングでした。チェットは「クール・ジャズのスタイルなら自分の声の個性が活かせる」と思ったようです。

こうして生まれた『チェット・ベイカー・シングス』(1954年)は目論見どおりの大ヒットとなり、彼をアイドルの地位へと押し上げることになりました。

ところが、人気が上がるにつれて、彼の素行にも問題が増えていきます。具体的にはドラッグの深みにずるずるとハマってしまったこと。療養所にも入所しますが手を切ることができず、逮捕と出所を繰り返すようになってしまうのです。

1970年代初頭にはドラッグのトラブルが原因で前歯を折られる怪我を負い、しばらくステージに立てない生活を余儀なくされるという時期もありました。

ようやく1973年にディジー・ガレスピーの尽力でアメリカのクラブへの“出禁”も解かれ、1975年にはヨーロッパに拠点を移して活動を続けました。

このような波瀾万丈の半生に興味をもった著名なファッション写真家のブルース・ウェーバーが、彼をモデルに自伝的ドキュメンタリー映画「レッツ・ゲット・ロスト」を撮り始めましたが、映画完成直後、チェット・ベイカーはオランダのアムステルダムで投宿していたホテルの窓から転落、天に召されてしまいました。

♪Chet Baker / My Ideal

『チェット・ベイカー・シングス』収録の「マイ・アイディアル」です。

彼が先鞭をつけたクールでささやくような歌い方は、ブラジルに渡ってボサノヴァの歌い方に影響を与えたと言われています。

♪CHET BAKER- You'd Be So Nice To Come Home To

死の前年、来日公演のステージです。

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●フォー・フレッシュメン

和声、すなわち和音のつながりによって音楽を作るハーモニーという概念は、ルネサンス期(14〜16世紀)に成立したと言われています。現時点で認識されているほとんどの西洋音楽はこれ以降の和声に基づいて構成されており、ジャズも例外ではありません。

“歌”においては、ハーモニーの一部を構成するメロディのみを担当する独唱のイメージが強いかもしれませんが、合唱のように“歌”でハーモニーを表現する方法も古くから行なわれていたことが知られています。

ジャズのハーモニー理論は独特かつ複雑なので、それを“歌”で表現するには難易度が高いようです。だからこそ、それを達成したシンガーたちは大きな称賛を受け、ジャズを発展させる原動力になったと評価されることになりました。

そんなジャズ・コーラスのシーンで、まず名前を挙げなければならないのがフォー・フレッシュメン。ホワイト・アメリカンのコーラス・ユニットでは最高峰と言われ続け、メンバーを替えながらいまも現役で活動しています。

1948年にインディアナポリスにあるバトラー大学併設の音楽学校で4人の学生が結成したコーラス・ユニットが、そもそものオリジナル。兄弟と従兄弟に友人という構成の彼らは、19世紀後半にすでにアメリカで確立していた“バーバーショップ・スタイル”と呼ばれる男声合唱を踏襲しながら、当時の最先端流行音楽であったジャズの要素を取り入れて、自分たちのスタイルを築いていきます。

この4人組はすぐに人気が出て、全米ツアーのスケジュールが埋まる売れっ子になっていたようです。フレッシュメン=新入生だった彼らは進級することなく、プロに転身。1950年のある日、著名なジャズ楽団リーダーのスタン・ケントンがオハイオ州のデントンという街を仕事で訪れたときに、「ケントン楽団のような最先端のジャズ・サウンドをコーラスでやっているグループがある」という評判を聞きつけて観に行くとビックリ。すぐにレコード会社に連絡をとり、彼らのレコード・デビューをお膳立てします。

以降、フォー・フレッシュメンはポピュラー・コーラス界のトップに君臨し続けます。コーラス・ユニットでダウンビート誌のチャート1位を獲得したり、ミリオン・セラーを連発したりという異例の業績を残したことも、彼らの偉大さの一端にすぎません。

♪Four Freshmen in Japan 1964 Part 1- Day By Day

フォー・フレッシュメンの1964年の初来日時の映像です。これが放映されると、複雑なコーラスだったために理解できる人が少なく、テレビ局には「彼らはヘタクソなんじゃないのか?」という苦情が寄せられたというエピソードが残っています。

♪The Four Freshmen--Little Girl Blue

2010年のフォー・フレッシュメン。いちばん高い声がメロディを担当するオープン・ハーモニーと、4人それぞれが楽器も演奏するというスタイルは、初代から連綿と受け継がれています。

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●ミルス・ブラザーズ

男性ジャズ・コーラス・グループの“草分け”と言われているのが、ミルス・ブラザーズです。

このグループのルーツは、バーバーショップ(≒理髪店)の主人だったジョン・ミルス・シニア。彼は“フォー・キングス・ハーモニー”というコーラス・グループで歌手としても活動していました。

「バーバーショップの主人がコーラス・グループ?」といぶかる人が日本では多いかもしれませんが、アメリカでは社交場のひとつとして認知されていた場所で、テレビもラジオもなかった19世紀後半には仕事を終えた労働者たちが集まって音楽を楽しんでいました。こうした習慣が“バーバーショップ・コーラス”というスタイルを生み出し、4人編成のグループが定着。ジョン・ミルス・シニアの活動も、こうした流れに乗ったものです。

彼の息子たちも父親のように歌手をめざし、4男のドナルドが7歳になって兄たちと歌うようになった1920年代半ばに、4人兄弟によるコーラス・グループ“ミルス・ブラザーズ”が誕生しました。

1930年には故郷オハイオ州からニューヨークへ進出。1931年にレコード・デビューすると、「タイガー・ラグ」や「ダイナ」といった大ヒット曲を送り出して、一大センセーションを巻き起こします。

1936年には長男ジョン・ジュニアの死というアクシデントに見舞われますが、父ジョン・シニアが参加してミルス・ブラザーズのその後22年を支えます。1958年以降は兄弟3人で活動を続け、最後は4男ドナルドが息子ジョン・ミルス2世とツアーを回っていましたが、1999年のドナルドの引退をもってオリジナル・メンバーはいなくなってしまいました。現在はジョン・ミルス2世がその名を受け継いで活動を続けています。

♪Mills Brothers- Swing It, Sister

ミルス・ブラザーズの魅力は、ジャズならではのテンション・ハーモニーを用いながらも、難解さを感じさせないバランス感覚にあるのではないでしょうか。

♪Mills Brothers- Caravan

全編楽器を真似たスキャットで構成される、彼らの代表的なパフォーマンスです。

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●シンガーズ・アンリミテッド

“無制限”という意味深な名前のついたコーラス・グループ。

その名のとおり、それまでのコーラス界の常識を覆す画期的な内容を打ち出して、ジャズ史に名を残すことになりました。

発端は1967年。1950年代に人気を博した男声四重唱グループ“ハイ・ローズ”のリーダーだったジーン・ピュアリングは、ドン・シェルトン、レン・ドレスラー、ボニー・ハーマンというメンバーで新たなコーラス・グループを結成しました。

ところがこの新たなコーラス・グループの存在が表面化するまでには、4年ほどかかることになります。いえ、売れなかったというわけではありません。彼らはとても多忙なスケジュールをこなしていたようです。しかし、大部分のリスナーには、それが彼らだということがわからなかったのだと思います。

なぜなら、彼らはアルバムを出したりツアーに出たり、TVショーで歌ったりという活動をしないグループだったからです。

いわゆる“スタジオ・ミュージシャン”という位置づけですね。

しかし、彼らのデモ・テープを耳にしたオスカー・ピーターソンがドイツのレーベルとの契約を勧め、共演というかたちでシンガーズ・アンリミテッドのデビューをお膳立てすることになりました。

すると彼らは、そのデビュー作『イン・チューン』(1971年)と同じ年に発表した『ア・カペラ』で、コーラス界のみならずジャズ界でも“禁じ手”と考えられていた多重録音を用いて、声によるハーモニーの可能性を一気に広げる作品を完成させました。

それを可能にしたのも、彼らがスタジオ・ワークに長けていて、ライヴという表現アプローチを切り捨ててまでコーラスにこだわったから。

厳密にはグループではなく、プロジェクトと言ったほうがいいのかもしれませんが、彼ら抜きに1970年代以降のコーラスを語ることができなくなっている以上、とても“グループとしての実態はなかった”とは言えません。そんなミステリアスなところもまた、彼らの魅力になっているようです。

♪" FOOL ON THE HILL " SINGERS UNLIMITED

オスカー・ピーターソンの心を動かしたシンガーズ・アンリミテッドのデモ・テープに収められていたのが、ザ・ビートルズの「フール・オン・ザ・ヒル」だったそうです。こちらの完成形でもその衝撃は十分味わうことができるでしょう。

♪The Singers Unlimited with the Oscar Peterson Trio- The Shadow of Your Smile

デビュー作でのオスカー・ピーターソンとの共演。

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<総集編>は、スタンダード編もヴォーカル編もしばらく休載します。

音楽ライター/ジャズ評論家

東京生まれ。学生時代に専門誌「ジャズライフ」などでライター活動を開始、ミュージシャンのインタビューやライヴ取材に明け暮れる。専門誌以外にもファッション誌や一般情報誌のジャズ企画で構成や執筆を担当するなど、トレンドとしてのジャズの紹介や分析にも数多く関わる。2004年『ジャズを読む事典』(NHK出版生活人新書)、2012年『頑張らないジャズの聴き方』(ヤマハミュージックメディア)、を上梓。2012年からYahoo!ニュース個人のオーサーとして記事を提供中。2022年文庫版『ジャズの聴き方を見つける本』(ヤマハミュージックHD)。

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