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【ジャズ後】アコースティックなウェザーができそうでできなかった理由をクリヤ・マコトが教えてくれた

富澤えいち音楽ライター/ジャズ評論家

自宅に帰って湯船につかりながらノホホンと感想を書きとめようかな、という感じのヌル〜いライヴ・レポート。今回は、クリヤ・マコト・トリオがアコースティックなのにウェザー・リポートへ挑戦したステージ。

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アコースティックを標榜していたにもかかわらず、なんという音数の多さだったのだろうか。

それは、ウェザー・リポートという希代のコンテンポラリー・ミュージックを素材に因数分解を試みたら、恐ろしいほどの数式と記号を羅列しなければ解へと到達し得ないと例えれば、近いかもしれないと感じられるだろうか。

そしてもうひとつ、銀座の中央通りを駅に向かって歩いているときにフッとボクの頭のなかに浮かんだのは、ウェザー・リポートの首謀者であるジョー・ザヴィヌルとクリヤ・マコトって、なんか似てるんじゃないか、ということ。

もちろんそれはサウンドとかジャズへの取り組みといった入り組んだ話じゃなくて、祖国を後にしてアメリカに渡り、ジャズという文化の真っ只中で自分の表現にこだわり、“ロイクーよりロイクー”と言われるほどの存在感を発揮するまでになったことなどなど…。

クリヤ・マコトがウェザー・リポートに親近感を抱いたことがこのプロジェクトのきっかけであることを考えると、それはある意味、出逢うべくして出逢った結果だったと言えるかもしれない。

この“必然”があるからこそ、このアコースティック・ウェザー・リポート・トリオに異様なほどの“圧倒的な存在感”が生じているに違いないのだ。

“ジャズの醍醐味”と言われているライヴの“予習”をやっちゃおうというヴァーチャルな企画“出掛ける前からジャズ気分”。今回は、クリヤ・マコト、納浩一、則竹裕之の3人によるWR再現ライヴ。

出典:【ジャズ前】クリヤ・マコト Acoustic Weather Report@ヤマハ銀座スタジオ

※ジョー・ザヴィヌルについては、2012年に発表した原稿が見つかったので、参考にしていただければと思う。

ジャズに“静寂な感じ”を持ち込んだ男の矜持

――「イン・ア・サイレント・ウェイ」を巡るエピソード

富澤えいち

憧れのマイルスをめざしてアメリカへ

ジョー・ザヴィヌルに会えたら、「もしマイルス・デイヴィスとあなたが出会っていなければ、あなたの功績は半減し、ウェザー・リポートも誕生していなかったのでは?」と質問してみよう。おそらく、その質問を言い終えないうちに、ザヴィヌルが繰り出した左フックを食らってノックアウトされていることだろう。

実際にザヴィヌルは、ウェザー・リポートの結成後にたびたび同様の質問を受け、閉口した彼(やメンバーたち)は即座に会見を中止する対抗策を取るようになった。だいぶ後になって彼は、「私がマイルスにもらったものは、その何年も前に彼が私から奪っていったものだ」と語り、冒頭の質問に対する答えとした。

だからといって、ザヴィヌルがマイルスとの邂逅を不運であったとし、彼を憎んでいたと考えるのは早計だ。

1932年にオーストリアのウィーンで生まれたザヴィヌルは、音楽への興味が高まるにつれて、遠く大西洋を隔てた先にあるアメリカの、6歳年長であるマイルスに対して、畏敬の念を募らせていった。

1958年の暮れ、すでにウィーンの音楽シーンで頭角を現していた彼は、そこでの活動に物足りなさを感じて、アメリカ行きを決意。1959年の年明け早々には、彼はニューヨークの土を踏んでいた。その到着の夜、ライヴハウス“バードランド”に出向くと、そこにはマイルスがいた。はるか遠いオーストリアから、最先端の刺激的な音楽を生み出すアーティストとして憧れていた人物との運命的な遭遇。それは、誰一人頼るアテのなかったアメリカで、ザヴィヌルがめざすべき目標がなにかを神が示そうとしたことだったのかもしれない。

しかし、すぐにザヴィヌルとマイルスが音楽的な活動を共にするわけではなかった。ニューヨークでの活動をサイドマンとしてスタートさせたザヴィヌルは、ここでも独特のセンスを発揮してすぐに頭角を現したにもかかわらず――。

ダイナ・ワシントンのバンドに参加したばかりの1959年末ごろにはすでにニューヨークでも評判のピアニストとなっていて、『カインド・オブ・ブルー』をリリースしたばかりのマイルスからバンドへの誘いを受ける。ところがザヴィヌルは、これを「時期尚早」と断る。ちなみに、ダイナ・ワシントンのもとに19カ月ほどいたザヴィヌルは、ここで彼女の最大のヒット曲となる「ホワット・ア・ディファレンス・ア・デイ・メイクス」のレコーディングに参加している。

キャノンボール・アダレイ・クインテットのメンバーだった1966年には「マーシー・マーシー・マーシー」を作曲し、これが大ヒットとなって彼の名前を一躍有名にした。

女性ヴォーカリストのヒット曲に貢献できるセンスのあるピアノの腕をもち、「ビルボード」誌のポップス・チャート上位にランクインするヒット曲を書ける作曲家となったザヴィヌルなら、すぐにでもマイルスとコラボレーションできるのではないかと考えてしまうのだが、彼はそうしなかった。ザヴィヌルはマイルスの家をよく訪れ、ボクシングに興じたり、音楽について話し合える“親友”とも言えそうな交友関係を築いていたにもかかわらず、である。

「私はマイルスにだって屈服しなかった。若かった(からチャンスはほしかった)けど、私はヨーロッパ人だ。アメリカ人とは少し違うさ」というザヴィヌルの言葉は、憧れの大スターとの親交を深められた嬉しさの裏返しであり、出世街道の到達点といっても過言ではないマイルス・バンドへの参加に揺れていた心を抑えようという自制心の発露であり、これから先の“自分の音楽”を見極めるために必要だったアイデンティティを具体的に言及したものだったのではないかと受け取ることができて、とても興味深い。

大ヒット曲の陰で誕生した“自分の音楽”

ジャズ・シーンが大きく変貌しようとしていた1960年代後半、ザヴィヌルはマイルスと一定の距離を置きながら、“自分の音楽”を絞り込むための活動に手を付ける。この時期の彼のチャレンジを記録したものが、『サード・ストリームの興亡』(1968年)だ。

サード・ストリームというのは、1950年代にアメリカ人の近現代音楽の作曲家でジャズ・ミュージシャンだったガンサー・シュラーが提唱した「アメリカのジャズとヨーロッパのクラシックを融合させた音楽」を意味する言葉。おそらくザヴィヌルはヨーロッパ出身でアメリカに渡った自分の経歴をこの言葉に重ねようとしただけなのだろう。だから、ガンサー・シュラーに共鳴したジョン・ルイスによるモダン・ジャズ・クァルテットの音楽性を継承しようという意図はない。

アルバムの編成は、サックス、トランペット、ヴィオラ(3本)、チェロ、ベース、ドラム(2台)、パーカッションで、平均5分とどの曲も短い。当時のジャズはアドリブ主体で長くなる傾向があったため、あえてそれに反した曲の構成を意識していることが、このことからも見えてくる。

このように、ヨーロッパ出身であることを意識した、アンチ・アフリカン・アメリカンなジャズをザヴィヌルが意識するようになったのは、皮肉にもアフリカン・アメリカンよりもアフリカン・アメリカンらしいと評判になった大ヒット曲「マーシー・マーシー・マーシー」を作曲した1966年ごろだったようだ。

彼は1966年のクリスマス休暇を家族とともに過ごすために、オーストリアをめざした。実に7年ぶり、米国に渡ってから初めての“里帰り”だった。「マーシー・マーシー・マーシー」を認められたことによって、彼は作曲によって“自分の音楽”を表現する意志を強くしていたに違いない。

懐かしい故郷の空気に囲まれて、彼の創作意欲は刺激された。「10曲くらい書いたかな」と言うなかに、「イン・ア・サイレント・ウェイ」「ファラオズ・ダンス」「ダブル・イメージ」などが含まれていた。ザヴィヌルとマイルスを決定的に結びつけることになるいくつもの曲が、1967年の年明け早々に、オーストリアでまとめて書かれていたことは、オーストリアで憧れていたマイルスにニューヨーク到着早々に出会ったこととまるで逆のベクトルを示すエピソードと言えるのではないだろうか。こうしたマイルスとは逆の音楽的なベクトルを見つけることによって、マイルスに呑み込まれずに共同作業をすることができる自信をもったからこそ、ザヴィヌルは次のマイルスの誘いを断らなかったのだろう。

1969年2月、ザヴィヌルはマイルスに呼ばれてスタジオに入った。こうして誕生したのが、『イン・ア・サイレント・ウェイ』というアルバムだった。アルバムのタイトル曲をザヴィヌルのものにしたことからは、マイルスが自分とは違うベクトルをもっている音楽に興味を示し、彼なりの最大限の敬意を払っていることが伺える。

この後、ザヴィヌルは1969年8月から70年2月までに行なわれたマイルスのほとんどのセッションに参加している。そして、ジャズの流れを変えたと言われる衝撃作『ビッチェズ・ブリュー』が1970年4月にリリースされた。

結果を見るかぎり、『ビッチェズ・ブリュー』という2枚組のレコード(発売当時)に収録された曲でザヴィヌルの名前がクレジットされたのは「ファラオズ・ダンス」だけだったが、彼が参加しているほとんどの曲でベース・ラインに彼のメロディが用いられるなど、多大な貢献を果たしていることがわかっている。それは、ザヴィヌルが「マイルス学校の生徒」などでは決してなかったことを示す証拠であり、逆にザヴィヌルこそがエレクトリック・マイルスへと転換するために欠かせないキーパーソンだったことを物語っている。

人生の節目を飾ったメモリアルな曲

ところで、マイルスにザヴィヌルの真価を認めさせ、ザヴィヌル自身も“自分の音楽”に目覚めた象徴的な曲「イン・ア・サイレント・ウェイ」について、もう少し追ってみよう。

この曲は先述したように、1967年年初のオーストリアで書かれた。ザヴィヌルは家族とともに、キャノンボール・アダレイ・クインテットでの成功という“錦”を掲げて故郷に凱旋できたことを喜び、興奮していた。そして、窓の外の雪景色を見ながら思いついたことを「1分で書き上げた」という。

アメリカに持ち帰ったこの曲を、まず、その当時のボスだったキャノンボール・アダレイに弾いてみせた。キャノンボールはこの曲を気に入って、自分のアルバムに収録しようと提案したそうだ。しかしザヴィヌルは、「この曲はマイルスがやるべき曲だ」と言って、ボスの提案を拒絶した。キャノンボール・アダレイ・クインテットでのテイクが実現しなかったのは残念だが、ザヴィヌルがマイルスの対立軸として自分の音楽を完成させたことへの自信が現れたエピソードと言えるのではないだろうか。

マイルスのもとでアルバムに収録された「イン・ア・サイレント・ウェイ」は、しかしザヴィヌルの構想を完全に具現化するものではなかったようだ。クレジットの件からもわかるように、マイルスは参加するミュージシャンのアイデアをそのまま再現することはしない。コラージュのピースのようにアイデアは断片化され、再構築されてから“マイルス・デイヴィスのアルバム”として一体化する。

ザヴィヌルは、自分の「イン・ア・サイレント・ウェイ」を、1971年にリリースされた『ザヴィヌル』に収録する。これが初めてのフル・ヴァージョンになる。

余談だが、この『ザヴィヌル』というリーダー・アルバムは、ウェザー・リポートのデビュー直前にスタジオで収録されていることから、ウェザー・リポートのプロトタイプだと考えることもできる。彼がこのデモンストレーション録音をCBSコロンビアに持ち込んでウェザー・リポートのデビュー契約にこぎつけたことは十分にありえるし、逆にそれができたほどの完成度の高さだったということでもある。実際に、収録曲の「ドクター・オノリス・コーサ」は初期ウェザー・リポートのコンサートの“目玉”だったし、「イン・ア・サイレント・ウェイ」も1979年初頭のワールド・ツアーのステージで演奏されたヴァージョンが『8:30』に収録されているなど、このアルバムとウェザー・リポートとの関係は並列ではなく重複している。

そして、「イン・ア・サイレント・ウェイ」は、彼の人生にまで深く重複していた。そのことを示すエピソードを2つ紹介して、この原稿を締めくくることにしよう。

1つが1991年にパリで行なわれたイヴェントで、そこにはマイルス・デイヴィスと彼の音楽に関係したミュージシャンが集っていた。マイルスがあの世に召される直前のことだ。このステージでマイルスは、ザヴィヌルの演奏に触発されたかのように元気な姿を見せたという。このときザヴィヌルがウェイン・ショーターとともに演奏したのが「イン・ア・サイレント・ウェイ」だった。天国へ旅立つマイルスへの“別れの曲”としてザヴィヌルが選ぶのであればこの曲しかないという選択だったと、誰もが認めるだろう。

もう1つは2007年。スイスのフェスティヴァルに出演したザヴィヌルは、自身の75歳の誕生日をそこで祝ってもらった後、ゲストのショーターを迎えて、「イン・ア・サイレント・ウェイ」を演奏した。この感動的なステージのようすは、幸いにして『75〜ラスト・バースディ・ライヴ!』で聴くことができる(DVD版には未収録)。

この2ヶ月後、彼もまた天に召された。自らが奏でた「イン・ア・サイレント・ウェイ」に送られるようにして――。

引用図書:『ザヴィヌル ウェザー・リポートを創った男』ブライアン・グラサー著 小野木博子訳 音楽之友社2003年刊

原文初出:「jazzLife」2012年10月号

音楽ライター/ジャズ評論家

東京生まれ。学生時代に専門誌「ジャズライフ」などでライター活動を開始、ミュージシャンのインタビューやライヴ取材に明け暮れる。専門誌以外にもファッション誌や一般情報誌のジャズ企画で構成や執筆を担当するなど、トレンドとしてのジャズの紹介や分析にも数多く関わる。2004年『ジャズを読む事典』(NHK出版生活人新書)、2012年『頑張らないジャズの聴き方』(ヤマハミュージックメディア)、を上梓。2012年からYahoo!ニュース個人のオーサーとして記事を提供中。2022年文庫版『ジャズの聴き方を見つける本』(ヤマハミュージックHD)。

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