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誰よりも愛したスターバックスを私が辞めた理由(約1万字)前編

大宮冬洋フリーライター

<第1回>

「遅くなりました。申し訳ありません」

倉田信明さん(仮名、51歳)は少し焦った表情を浮かべながら二度も頭を下げてくれた。都内の土佐料理店で食事をしながら話を聞く約束に、倉田さんは30分ほど遅れて到着した。人事部長をしている病院グループの本部からなかなか出られなかったという。

謝り方に人柄が出ると思う。倉田さんと筆者は一回り以上年齢が異なり、しかもこちらは「無償で面白い話を聞かせてもらう」という弱い立場だ。以前にあるプロ野球監督に広告記事のインタビューしたときは、「整体に行って来た」という理由で筆者たち制作スタッフ全員が2時間以上待たされたが、高額のギャラをもらう監督は一言の詫びも口にしなかった。倉田さんの率直な謝り方には若々しい謙虚さがにじんでいる。

倉田さんは、ドミノ・ピザからスターバックスジャパンを経て、有名アパレル企業に入り、独立を経験した後に現在の病院グループに転じている。転職を繰り返す「キャリアドリフターズ」としての登場をお願いすると、「面白いですね。僕は3勝1敗です」と軽い調子で就職先との相性を振り返ってくれた。どの企業での体験が失敗だったのかが特に気になる。じっくり聞いていこう。

ドミノ・ピザとの出会いは、1985年オープンの1号店(東京・恵比寿)だった。アメリカから上陸したばかりの「ピザの宅配」サービスは物珍しく、都内の大学に通っていた倉田さんはデリバリースタッフのアルバイトに応募した。

「制服を着て三輪スクーターで30分以内にお届けする姿をカッコいいなーと単純に思ったんですね。1号店は恵比寿だったので、お客さんは広尾や南麻布にある大使館関係のお宅だったりしました。届けると喜んでくれて記念撮影をせがまれたり。すごく楽しかったなあ」

一方で、店舗運営に関して「もうちょっとこうすればいいのにな。オレならこうする」と感じることも少なくなかった。例えば、サービスエリアを広げるためにチラシを配布したにも関わらず、翌日のスタッフは通常通りの人数だった。今までより遠距離に住む新規顧客からの問い合わせの電話が鳴るたびにてんてこ舞いになり、注文を受けられない事態もあった。

「損をするためにチラシをまいたの?と言いたくなりましたね。(スタッフの)シフトを事前にコントロールするべきなんです」

他にも、新人スタッフの教育法や業務の流れなどで気づくことは多く、社員や店長にも直言をしていた。他のアルバイトスタッフからは「倉田が店長をやればいい」と推されるようになった。

顧客や仕事仲間が喜ぶ顔を見るのが好きなこと、シフトの組み方などで問題点を見つけると改善したくて仕方なくなること。現在も変わらない倉田さんの特徴であり、転職を重ねる原因ともなっている。

今はドミノ・ピザの話に戻ろう。アメリカ本社の直営ではなく、国内の小さな商社がライセンス契約を結んで国内でのチェーン展開を目指していた。倉田さんが就職活動をした86年時点では新卒採用は行っていなかった。

「就職活動も一応はやったんですけれど、(バブル経済初期の)当時に流行り始めていた不動産業などはピンと来ませんでした。で、『ドミノの仕事をやらせてほしい』とその商社にお願いして入社しました」

すぐに店長に昇格して3年後、倉田さんはドミノ・ピザ事業の生え抜き社員として人事の仕組み作りに関わるようになる。新人研修から評価制度まで、コンサルティング会社の力も借りて次々に整えていった。ただし、人事担当に限定されることはなく、求められれば現場に戻った。退職前の役割は東日本全域の営業責任者である。1号店オープンから14年後、店舗数は国内200店舗まで増えていた。

しかし、ピザーラなど競合企業の追い上げもあり、会社は停滞期に入っていた。店長をはじめとする現場スタッフに不安が広がっており、倉田さんは状況を説明して展望を示す必要を感じる。直言が得意な倉田さんは経営層の判断を仰いだ。

答えは、「現場には何も言う必要はないし、言うな」だった。ドミノ・ピザ以外の事業も手がけている商社だったので他の課題との兼ね合いがあったのかもしれない。当時35歳の倉田さんにはそこまで考えることはできなかった。そして、モヤモヤし始める。

「ほとんど何もないところから200店舗になるまで作り上げてきたので、急に行き詰まり感を覚えました。思っていることが形にならず、空回りしているようで、会社の躍動感も自分の成長感も得られない。本当にモヤモヤしていたなあ」

そんな状況が続いていたときに、会社宛に電話がかかってきた。どうやらヘッドハンターらしい。「ドミノに強い愛着があって転職などはまったく考えたことがなかった」という倉田さんに、聞いたことのある会社名が提示される。スターバックス。95年に日本に上陸し、2000年当時は100店舗を超えるところまで急成長していた。「あなたの力が必要だ」とはっきり言われ、倉田さんの気持ちは動き始める。

「それでも転職までには半年かかりました。今まで一緒にやってきてくれたメンバーを残して出るのはしのびなかったし、年齢や家族のことも考えました」

24歳で結婚した倉田さんには専業主婦の妻との間に3人の子どもがいる。軽々しい判断はできないが、だからといってモヤモヤした気分を打開する道はドミノ・ピザの中では見つからない。半年間、ラブコールを送り続けてくれたスターバックスに気持ちが傾きつつある。最後に行き着いた答えは、「ドミノで自分がやれることはやり切った。次のチャレンジをしてみよう」だった。

尊敬する上司にも相談した。「スタバならばお前は成長できると思う。ただし、一晩だけ考えろ」との答え。倉田さんの心はすでに決まっていたが、上司の顔を立てて翌日にもう一度面会を頼んで伝えた。「チャレンジをさせてください」。倉田さんのスタバへの転職が決まった瞬間だった。(第1話「ドミノ・ピザ編」終わり。来週はスタバ編です。全4話)

<第2回>

就職先企業との相性は「3勝1敗」だと振り返るキャリアドリフターズ、倉田信明さん(仮名、51歳)の話を都内の土佐料理店で聞いている。14年間勤めたドミノ・ピザを辞め、ヘッドハンティングに応じて移った先はスターバックスコーヒージャパン(以下スタバ)。数店舗を統括する地区責任者候補として入社したが、「まずは現場を知ってください」と一店員からスタートした。もしかして「1敗」はスタバを指すのだろうか。

「いえ、僕は今でもスタバが好きです。その気持ちは誰にも負けないと思っています。店舗業務は嫌ではありませんでした。久しぶりの立ち仕事なので体はきつかったですけれど……。将来的には人事の仕事もやりたいと思っていましたが、過信はありませんよ」

倉田さんがショックを受けたのは、むしろスタバの自由すぎる企業風土だった。チェーン展開をしているにも関わらず、サービスマニュアルが存在しないのだ。例えば、来店した客に対しては「いらっしゃいませ」でも「こんにちは」でも構わない。接客話法は定められていない。

「ドミノ・ピザに比べると『道幅が広い、というか道がない』という印象を受けました。ミッションという名の太いロープを離さない限りは大丈夫。遊びの部分が多いんですね。ドミノとは考え方がまったく違います。語弊があるかも知れませんが、ドミノは狭い道の両側にマニュアルという壁があり、ゴールに向けて真っ直ぐに歩いていくイメージです。電話が鳴ったら2コール以内にとる、といった細かいルールが決まっています。僕もルールを作ってきた側なんですけどね」

良く言えば伸び伸びと、悪く言えば好き放題に働いているスタバの同僚たちを目の当たりにして、倉田さんは「これで店が回るのか。大丈夫なのか?」と不安になった。しかし、同僚たちは楽しそうに働き続け、離職率は低く、顧客の満足度も高い。十二分に「回っている」のだ。

「スタバのアルバイトの時給はとりわけ高いわけではありません。当時は、『時給なんてどうでもいいから、カウンターの向こう側にいるカッコいい人たちの一員になりたい』という若い人たちが多かったと思います。全国にスタバが浸透して特別感がなくなった今では、(いい人材の採用は)難しくなっていますね。今の子たちはたくさん覚えることを嫌がるので、(コーヒーなどの知識と技術を問われる)スタバは敬遠されやすいのかもしれません。私も2人の娘が学生時代に『スタバはいいぞ。一緒に働こうよ』とアルバイトを勧めたのですが、『ピッとレジをするだけで済むのでコンビニでバイトする』と言われてしまいました」

倉田さん自身は店長職も含めて7ヵ月間を店舗で過ごし、予定通り地区責任者に昇格した。そこでアルバイトや正社員の採用に仕方に「段取りの悪さ」を覚えるようになる。人事に関する改善点に目が行きやすい傾向は、学生時代のドミノ・ピザでのアルバイト以来変わっていない。

「人事のメンバーはやる気がありました。でも、現場が期待する動きができていなかったのです。『こうすればいいのなー』と言っていたら、人事の責任者から『助けてくれないか』と声がかかりました。『そう来ましたか』と思いましたね」

倉田さんは営業現場を離れ、給与計算のシステムから人材育成までスタバの人事に関するあらゆる仕組みと体制づくりに中心的な役割を果たす。自由と自律を愛するスタバの企業文化にもすっかり馴染み、夢中になって働いているうちに歳月が流れていった。

「人はどんどん成長していくんですね。かつて苦労して教えたスタッフが、新人を教える側に回っているのを見たりすると、がんばってきてよかったなと充実感があります。人事の領域も一通りの経験をして、それなりにやり切った感がありました」

やり切った、という感想はかつてドミノ・ピザを辞めたときにも抱いていた。倉田さんは「成長している会社で自分もやるべきことが無数にある」という環境でしか手ごたえを感じられない性分なのだろう。

2009年に「事件」が起きる。業績の伸びが鈍化していたアメリカ本社が突如、「ミッションを変える」と発表したのだ。前述の通り、スタバにおけるミッションはすべてのスタッフに唯一共通する行動原則である。自主性を重んじない他企業が掲げている有名無実の「使命」などとは重要度が異なる。人事の立場からのその存在意義を強く感じていた倉田さんは疑問を覚えた。

結局はミッションは変えずに残されたが、売り上げを維持するために管理体制を強化する流れは止まらなかった。

「会社を築き上げていく時代から、保守・管理をする時代に移行したのでしょう。でも、トップの言ったことを確実にやれ、という風潮はスタバらしくない。これは違うぞ、残念だ、とハッキリ思ったのを今でも覚えています」

一方で、スタバの社名は知らない人のいないほど有名になり、このままでは「会社の看板にぶら下がってしまう」とも感じていた。12年間勤めて、愛着を深めていたスタバから去るときが来たのだ。

「キャリアをホップ、ステップ、ジャンプだと考えるならば、ジャンプができる最後の転職先を探そうと思いました。自分の強みが活かせる人事領域の仕事が前提です」

ここでジャンプに成功していたら、倉田さんはキャリアドリフターズではなくキャリアビルダーズとでもいうべきマッチョな存在になっていただろう。しかし、そうはいかなかった。(第2話「スターバックス編」終わり。来週は有名アパレル企業編です。全4話)<後編にすぐ続く>

追記:冒頭に不適切な表現があったため、削除し修正をしました。2015年6月20日 大宮冬洋

フリーライター

僕は1976年生まれ。40代です。燦然と輝く「中年の星」にはなれなくても、年齢を重ねてずる賢くなっただけの「中年の屑」と化すことは避けたいな。自分も周囲も一緒にキラリと光り、人に喜んでもらえる生き方を模索するべきですよね。世間という広大な夜空を彩る「中年の星屑たち」になるためのニュースコラムを発信します。著書は『人は死ぬまで結婚できる』(講談社+α新書)など。連載「晩婚さんいらっしゃい!」により東洋経済オンラインアワード2019「ロングランヒット賞」を受賞。コラムやイベント情報が読める無料メルマガ配信ご希望の方は僕のホームページをご覧ください。(「ポスト中年の主張」から2017年3月に改題)

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