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次回のWBCや東京五輪を見据え、侍ジャパンは外国人監督を採用してはどうか?

豊浦彰太郎Baseball Writer
「二番には犠打の上手い小兵」は古い考えだ(写真:田村翔/アフロスポーツ)

こちらロサンゼルスでは、侍ジャパンの敗戦から一夜明けたところだ。ぼくが泊まっているチャイナタウンの安ホテルにも、日本からのファンが結構滞在していたようで、狭いコンチネルブレックファストのコーナーのあちこちから、「いやあ昨日は残念でしたね」という挨拶が交わされている。

WBCはまだ終わっていない。今から10時間後には、決勝戦がある。しかし、ここで気持ちを切り替えるためにも、侍ジャパンに最後にひとつ提言をしておきたい。

それは、「次回のWBC(五輪も含めても良い)には外国人監督で臨んではどうか」ということだ。

「冗談じゃない。日本は世界に冠たる野球大国だ。そんな途上国みたいなことができるか」という声が聞こえてきそうだ。しかし、ここで主張したいのは日本野球が強いかどうかではなく、異なった考え方や世界の最先端の理論を吸収しておくことは大切だ、ということなのだ。いわば、サッカー日本代表と同じ発想である。同一野球文化圏だけで固まっていたのでは、どうしても現状や慣習を是としてしまう風潮に陥るものだ。

もちろん、監督の国籍にこだわっている訳ではない。アメリカ人でもドミニカンでも良い。いや、日本人でも日本球界とは異なる発想の持ち主なら大いに結構だ。

一例を挙げよう。

準決勝の米国戦もそうだったが、初回、先頭の山田が出塁すると二番菊池に小久保監督は予想通り送りバントを命じた。この試合は1点を争う投手戦となったが、それはあくまで結果だ。野球は9回終了時点での得点を競う競技だ。送りバントは「点が入る」可能性を高めるが、(0点で終わるケースも含めての)得点期待値は下げてしまう。1点を勝ちこせば良い終盤ではないのだ。野球の攻撃で大事なのは、アウトにならないことと長打を飛ばすことだ。序盤から犠打を命じ、それを受け入れる発想からそろそろ転換すべきだと思う。

パラダイムの転換が必要なのは現場だけではない。決勝ラウンドを前に、「青木宣親が放った1本の「セカンドゴロ」にWBC制覇の可能性を見た」というスポーツ誌の記事をネットで見つけた。

しかし、ぼくには抵抗があった。日本が決勝ラウンドに勝ち進んだのは筒香や中田、山田のパワーヒッティングのおかげだったと思う。青木の進塁打も渋かったが、あくまで攻撃の「主」はヒッティングであり、それを補佐する「従」の意味で犠打や進塁打などのスモールボールは意義深いのだと思う。「スモールボールにこそ野球の神髄がある」かのようなこの記事はぼくにはやや主客転倒に思えたが、これがファンを含めた球界の現状だ。

勝負は時の運だ。犠打偏重だったからアメリカに負けたわけではない。しかし、日本野球が大きく脱皮するには、ファンダメンタルがしっかりできているという利点は忘れずに、最新の理論や世界の趨勢を取り込むことだと思う。

多くのファンや関係者は「日本野球は緻密、メジャーは大雑把」と思っていると思うが、それは正反対だ。統計データがしっかり蓄積されそれを活かそうとしているアメリカのほうが、遥かに精緻な野球をやっている。「二番打者は送りバント」という40-50年前の「広商野球」に一向に疑問を持たない日本野球の方がよっぽどラフだ。

そのことを気付かせてくれるためにも、現代の日本球界とは異なった思想を持つ指導者を(となると恐らく外国から)迎え入れた方が良い。

Baseball Writer

福岡県出身で、少年時代は太平洋クラブ~クラウンライターのファン。1971年のオリオールズ来日以来のMLBマニアで、本業の合間を縫って北米48球場を訪れた。北京、台北、台中、シドニーでもメジャーを観戦。近年は渡米時に球場跡地や野球博物館巡りにも精を出す。『SLUGGER』『J SPORTS』『まぐまぐ』のポータルサイト『mine』でも執筆中で、03-08年はスカパー!で、16年からはDAZNでMLB中継の解説を担当。著書に『ビジネスマンの視点で見たMLBとNPB』(彩流社)

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