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スノーデンが語るプライバシ―自分に関わる権利とは何か―

塚越健司学習院大学、拓殖大学非常勤講師。技術と人間の関係に注目
インターネット中継で日本について語るスノーデン氏(2016年6月4日、筆者撮影)

2016年6月4日、自由人権協会70周年プレシンポジウム「監視の今を考える」が東京大学にて行われた。ニューヨーク市警がムスリムに対する監視を行っていたことを問題にしたこのシンポジウムだが、注目は監視問題に近年大きな影響を与えたエドワード・スノーデン(1983〜)氏への生インタビューであった。

スノーデン氏といえば、NSA(米国家安全保障局)の元職員で、2013年にNSAによる大量監視の実態を暴露したことで話題となった人物。現在ロシアに滞在している彼は、ネット中継などで海外のメディアにも登場することがあるが、日本のイベントに登場することは稀であることから、本シンポジウムも大きく注目された。

なお本稿で述べたスノーデンの発言はその場で筆者が聞き取ったものであり、逐語訳ではないことを予め断っておく。

スノーデン氏の語る日本――秘密保護法、憲法解釈などへの懸念

スノーデン氏へのインタビューは約90分。アメリカをはじめとする世界中の監視の実態に関する話題の他、日本の秘密保護法や憲法解釈の変更などに懸念を表明した。とりわけ秘密保護法は知りたい情報そのものを機密とすることで、我々が知るべき情報にそもそもアクセスできなくなる点が問題であるという。

さらにテレビ朝日やTBS、NHKのニュースキャスター降板問題にも触れるなど、マスメディアの状況にも敏感であることが感じられた。ちなみにスノーデン氏は仕事で2009年から2年間日本に滞在していたこともり、インタビュー冒頭日本語で挨拶する一幕もあった。

こうした情報については日本のマスコミも詳しく報じている。本稿では、スノーデン氏の語ったことの中から特に重要な事柄を筆者が抽出し、それらについて考察したい。

我々は何もせずとも潜在的犯罪予備軍となった

スノーデン氏によれば、NSAの職員にはどこまでの監視行為について正当性があるかといった、自らの行為に対する善悪の線引きがほとんど存在していなかったという。法律も不十分であるばかりか、働く職員にも自らの行為に対する責任感がなく、それ故に行き過ぎた監視行為が蔓延しているというのだ。

そもそも監視には大別して2つの方法がある。ターゲットサーベイランス(特定監視)とマスサーベイランス(大量監視)である。前者は敵国の重要人物に対する盗聴や特定の軍事行動に関する諜報活動などが該当する。後者は大量の個人情報を収集することを目的としたもので、インターネットやSNSなどの近年急速に発達した技術がその背景にある。

筆者が思うに、この問題の本質は、大量監視技術が我々を「潜在的犯罪者予備軍」としたことにある。国家にとって守るべき国民は、一方でいつ国家に反逆するかもしれない監視対象となってしまった。以前であれば、(善悪は別としても)実際に犯罪を犯した人物や、そうした組織と関係した者に監視対象は限定されていた。しかし大量監視技術の発展によって監視が容易になると、監視対象は全国民に拡大される。すると、国民とは守るべき対象であると同時に、いつ国家への反逆者かになるかわからない「潜在的犯罪者予備軍」として扱われることになるのだ。すなわち、大量監視技術が誕生することで、国民は守られる存在から犯罪予備軍として見做されてしまうことになるのだ。

プライバシーは自律のための権利

自分が本当に悪いことをしていないのなら、やましいことがないのであれば、いつ監視されたっていいではないか。もしかしたらそう思う読者もいるかもしれない。スノーデン氏へのインタビューの中で、会場(および生中継をしていたニコニコ生放送のユーザー)からの質問に、上記のような考えを持っている人に対してはどう思うかというものがあった。筆者はこの問いに対するスノーデン氏の回答がこのインタビューの中で一番重要であったように思う。

スノーデン氏はプライバシーという意味が誤解されていると述べた。彼は言う。プライバシーとは隠したいことを隠すことではなく、自己に対する権利であると。そしてまた自分とは何かを知り、自己の権利を守るためにプライバシーは存在するという。どういうことか筆者なりに噛み砕いてみたい。

隠し事がないなら何を監視されてもいいという考えは、逆に言えば政府が国民のすべてを知る権利があるということを意味してしまいかねない。そしてここでは、個人の知られたくない情報は国家にとっての害悪と解釈され、国民もまたその図式に無意識に同意してしまうことになる。すると国家は、国民のすべてを知る権利を有し、同時に国民が何を知るべきかを決定する権利を持つべきだ、といった解釈を行うことになる。

こうした思考は、個人の自律という観点において極めて深刻な問題を引き起こす。プライバシーは見せたくないものを守るということ以上に、より積極的な意味で「自己情報コントロール権」、つまり何を知らせ何を秘匿するかを自分で調整する権利とも捉えられている。何を人に伝え、何を自分の中に秘めておくか。プライバシーとは自らをコントロールすることであり、人が自律するために必要な権利なのである。

自律のための権利をすべて国家によって規定されては、人はいつまでも自律することができない。哲学者のカント(1724〜1804)は『啓蒙とは何か』(1784)において、「知る勇気を持て」という有名な言葉を投げかけた。カントは言う。人は他人の指示がないと歩くことができない未成年状態にあるが、そこから脱しなければならないと(それがカントの定義する啓蒙である)。自律のためには自らをコントロールし、自分で歩く勇気が必要である。自分は何を知り得るか、何を為すべきか、何を望んでよいか、そうしたことを自ら考えるためには、自律を阻むものは断固拒否しなくてはならない。スノーデン氏はプライバシーの概念を、国家への依存を拒否し、自分が自分に関わり、歩みを進むための権利であると捉えているのではないだろうか。

同時に言論の自由もこの範囲で説明ができる。言論の自由もまた自律のための権利である。自己判断において必要である言葉を表明できること。プライバシーや言論の自由がなければ、国家に依存するだけで自律できない人間になってしまうことを、スノーデン氏は懸念しているのである。大げさな物言いのようにも聞こえるかもしれないが、スノーデン氏の切実な言葉から筆者は自律について考えさせられた。

まず自分のことを気にしてください

インタビューの最後に、日本人に向けてスノーデン氏は「まず自分のことを気にしてください。隠すものではなく、保護するものがないかを考えてください」と述べた。そしてまた、様々なリスクがあることを認識しつつ、それに恐れないでください、とも述べていた。世界中に影響を与え、自らもまた生命の危機を感じているだろうスノーデン氏の言葉は、重い。日本に向けた言葉とともに、多くのことを考えさせられたシンポジウムであった。

学習院大学、拓殖大学非常勤講師。技術と人間の関係に注目

1984年生まれ。学習院大学非常勤講師・拓殖大学非常勤講師。専攻は情報社会学、社会哲学。コンピュータと人間の歴史など幅広く探求。得意分野はネット社会の最先端、コンピュータの社会学など。著書に『ニュースで読み解くネット社会の歩き方』(出版芸術社)『ハクティビズムとは何か』(ソフトバンク新書)その他共著など多数。

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