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渡辺淳一は、最後にどんな俗欲、情愛を描いたのか?LINEを使った不倫描写待望論

常見陽平千葉商科大学国際教養学部准教授/働き方評論家/社会格闘家

『失楽園』などで知られる直木賞作家の渡辺淳一さんが2014年4月30日に前立腺がんで東京都内の自宅で亡くなっていたことが5月5日、明らかになった。80歳だった。葬儀は既に近親者で営んだという。

故人のご冥福をお祈りしつつ、私なりに彼のことを偲びたい。

■追悼は、感情の赴くままにするべきで故人を美化しすぎてはいけない

最初に、私の「追悼」という行為についての考えを明らかにしておく。

私は、この「故人を偲ぶ」という行為は、あくまで個々人が、感情の赴くままに行うべきだと思っている。故人を侮辱しない程度に、だ。お通夜や葬式で、古くからの友人が「あいつは、昔から酒が好きで、飲んだら朝まで、潰れるまでバカやっていたな、うっ、うっ」と振り返るように、カッコ悪い部分、人間臭い部分も含めて振り返るべきだと思う。

死んだ人は、神格化される。この4月に40歳になった。中年だ。しかし、26年間に渡り「中二病」と闘病している私は、ロックスターの命日に、思わず故人のことを思い出してしまう。この4月から5月にかけては、「そうか、◯◯さんより長く生きてしまったんだ」という感慨に浸ってしまうことが多い。なんせ・・・

4月5日 カート・コバーン

4月26日 尾崎豊

5月2日 忌野清志郎、HIDE

と、ロックスターたちの命日が続くのである。しかも4月4日は私の誕生日で、4月28日は親父の命日だ。「◯◯さんより、俺は生きてしまった」というロック好きな中二病が人生を振り返る機会がありすぎる。ただ、さすがに悲しみというよりは、そうか今年もこの日がきたかくらいの感情になっているのだが。そして、故人を振り返る時も、カッコ悪いことも含めて振り返らないといけない。例えば、HIDEに関していうと、インディーズ時代の暴れた武勇伝などがいっぱいあるわけで。忌野清志郎も生前、『僕らの音楽』で鳥越俊太郎氏に「忌野って、大ヒット曲ないじゃん」とバッサリ言われていて、ファンとして悔しかったなあとか。「日本のロックの時代を作りました」的な、いかにも新聞社が書きそうな文章に踊らされて振り返ってはいけない。

大槻ケンヂは筋肉少女帯の「もーれつア太郎」という曲でこう歌っている。

脱いだら天才か?! 死んだら神様か?! 狂えばカリスマか?! 何もしなけりゃ生き仏か?!

様々な解釈が成り立つが、死ぬと、やたらと神格化されたり、美化されたりする。

私は、個々人が故人を、ありのままに、それこそ感情的でいいから振り返るのが追悼のカタチだと思っているのだ。

渡辺淳一さんに対しても、あくまで個々人の感情の赴くままに、偲ぶことにしたいと思う。ファンの方にとってはカチンとくる表現もあるかもしれない。不謹慎だという人もいるだろう。あらかじめお含みおき頂きたい。

■「図書館で逢引するエロい先輩」という思い出

渡辺淳一さんの存在をちゃんと知ったのは高校時代だ。高2だったか、高3だったか、やや記憶が曖昧だ。いや、もちろん、新聞や、書店、図書館などでその名前は知っていた。しかし、作品を読む機会がなかったのである。

彼を知ったキッカケとは何か。それは、彼が、高校の先輩だからである。彼は私の母校、札幌南高等学校の第2期生だ。私は第43期生だ。

図書館を運営する図書局という組織があり、そこに所属する生徒数人が、「図書館だより」(だったと思う)という会報誌で、偉大なる渡辺淳一先生を取材しており、そのインタビュー記事を読んだのだ。この記事が、実にロックだったのだ。学生の質問も、渡辺淳一先生も、それを生徒に配布した高校も。

生徒:「先生の作品には、図書館での逢引シーンがありますが、先生って図書局員でもあったのですよね?」

先生:「ああ、鍵を持っていたので、よくやっていたよ」

こんな会話が載った「図書館だより」が、そのまま全校生徒に配布されたのだ。実に刺激的だった。そうか、大作家先生もここまで赤裸々に自分語りをするのかと衝撃を受けた次第だった。

というわけで、「図書館で逢引するエロい先輩」というのが、私の彼の第一印象だったのだ。

■「代表作」って、所詮売れたものなのか?

ところで、渡辺淳一さんが亡くなった時の第一報で各紙は、どの作品を代表作として紹介したのだろうか?彼の逝去を伝える5月5日の初期段階の報道で、各紙がどの作品を紹介していたかを調べてみた。全国紙は次のようになっていた。

読売:失楽園 ひとひらの雪

朝日:失楽園

毎日:失楽園

日経:失楽園、愛の流刑地

産経:遠き落日、失楽園

であった。

そうか、やはり「代表作」は『失楽園』か。いや、この結果にケチをつけるつもりはない。なんせ、300万部を超えるベストセラーであり、映画化、ドラマ化もされ、社会現象になった作品だ。とはいえ、何か文学賞をとった作品ではない。しかも、激しい性描写が日経の文化面に連載されて賛否両論を読んだ作品である。最後は、セックスをしながら死ぬのだ。テレビのニュースで渡辺淳一氏の死を知った家族は、子供の「何を書いた人なの?」「失楽園ってどんな話?」という無邪気な質問に、どう答えたのだろうか。

いや、ちょうど私が就活をしている頃、日経に出ていたので「所詮、大人の世界もこんなもの」と、ある意味、世の中の現実を教えてもらえたとも言えるのだけど。

やや意地悪な言い方をすると、「代表作」というのは、やはり一番売れた本であると再認識した次第だ。売れたから、社会的影響力を持ったとも言えるわけで。ただ、この辺の因果関係は作品により違うかもしれない。社会的影響力があったから、結果として売れたとも言えるし。『失楽園』が話題になっていったプロセス、部数の伸び方については、残念ながら私はまだ調べていないし、記憶もないのだけど。

そして、このベストセラーは、彼が60代に入ってからのものだった。人生は長いと再認識した次第だった。

ただ、この「代表作」とか「ベストセラー」という捉え方は、あくまで「大衆」が故人を振り返る際の表現であること、もっと言うと、新聞社が大衆を代表して故人を振り返る際に並べられる作品であることを、確認しておきたい。渡辺淳一といえば、どの本というのは、個々人によって違っていい。

その点、地元北海道の地域ブロック紙の雄、北海道新聞は死去の第一報でかなり網羅的に作品を紹介していた。

リンク先の記事は、速報から、さらに更新されたものだが、私が5月5日にこの記事を確認した時も『失楽園』を代表作としつも、かなり網羅的に時代ごとの作品を紹介していた。

この記事で再確認したのは、北海道民にとって、そして、札幌南高等学校のOB・OGとしては、渡辺淳一さんと言えば『阿寒に果つ』なのである。私が高校生だった90年代前半、渡辺淳一氏のことは授業でもたまに話題になり、教員が特に触れたのは『阿寒に果つ』のことだった。いや、もちろん『失楽園』が世に出る前だったのだけど。渡辺淳一さんの私小説であり、時任純子のモデルとなった人は、札幌南高等学校に実在したという。高校の資料館に、彼女が描いた絵があるとか、ないとか。そんな話も聞いた。生前の日経『私の履歴書』においても、この作品に関するエピソードにはかなりの文字数が割かれていたと記憶している。

もちろん、どのくらいのファンなのかにもよるが、最も売れた本で故人を振り返りがちだ。いや、それは仕方がない。ただ、北海道民として、札幌南高等学校のOBとして『阿寒に果つ』も忘れないで、と言いたい。

■俗欲、情愛を普段から礼賛しろ

ところで、逝去を伝える報道から1日経ってニュースを見たが、渡辺淳一さんの礼賛のされ方が、なかなか面白かった。

例えば、朝日新聞では、中村真理子さんという方が追悼記事を書いている。

デジタル版から一部を引用する。

■愛と性、真っ正面から描く

30日に亡くなった作家の渡辺淳一さんは、真っ正面から愛と性を描き続けた。時に情痴小説とも呼ばれたが、それは、生と死を生涯追究した作家がたどり着いた人間賛歌だった。

「小説を書くときは自らその場に行って、見て、体験しないとだめ」と2010年の朝日新聞のインタビューで語った通り、恋愛小説にも女性たちと自身との体験が投影されていた。

純愛とは何か。その答えが「失楽園」や「愛の流刑地」だ。人生半ばをすぎた男女は激しい愛におぼれ、理性をなくし、家庭を壊して、体も命も投げ出す。愛を燃えあがらせる障壁は不倫であり、幸せの頂点は死であった。年齢を重ねても性愛のテーマは揺るがず、13年の「愛ふたたび」では性的不能となった70代の男が新しい愛を見つける。

この追悼記事にケチをつけるつもりはない。いや、極めて的確だと思う。生前、2013年1月に連載された日経『私の履歴書』と合わせて読むと、実に故人のことを理解していると言えるだろう。

ちなみに、彼の『私の履歴書』の最終回は、次のような記述から始まる

ここまで、「私の履歴書」を書いてきたが、ここから先は、改めて書くまでもない。

なぜなら、これ以降のことは、このあと書いたわたしの作品を読んでもらえば、ほぼわかるからである。その意味では、わたしは私小説作家であるのかもしれない。

(日本経済新聞 2013年1月31日朝刊 「私の履歴書」より)

しかし、各紙の追悼記事は奇妙でもある。「愛と性を真っ正面から描く」ことや、俗欲、情愛って普段から礼賛されているものなのだろうか?これが礼賛されるのは、渡辺淳一さんが、世間を超越した作家だからである(あたりまえだが)。

「あの社長は、愛と性に真正面から向き合っている」

「うちの上司は、俗欲、情愛と真剣に向き合っている」

なんていう会話は、そもそも成立しない。新聞も報じない。

長年審査員を務めた直木賞で、当時若干23歳の朝井リョウさんが男性として最年少受賞した際の贈呈式では「いつも欲望をぎらつかせていなさい」と言ったという。

ただ、これも直木賞作家先生同士の会話だから、まだ成り立っているし、老作家からの言いっぱなしだからいいのだが。朝井リョウさん、『情熱大陸』でも感じたが、いかにも消費しなそうじゃないか。

だいたい、欲望をぎらつかせてと言ったところで、お金と時間の若者離れは進んでいるわけで。

やや話が拡散したが、新聞が「愛と性」「俗欲」「情愛」という言葉を使うのは、やや唐突だし、ずれているとも感じる。いや、渡辺淳一さんが亡くなったのだから、しょうがないのだが。普段から礼賛しろよと言いたいし、「愛と性」「俗欲」「情愛」なるものに若者が興じられる社会をどう作るか、提言して欲しいものだ。

■渡辺淳一はLINEを不倫にどう使ったか?

大変興味があるのが、渡辺淳一さんの未発表作、遺作はあるのかという点である。渡辺淳一さんは、約10年に1回のペースで日経の文化面を賑わせてきた。1995年の『失楽園』、2004年の『愛の流刑地』である。2013年には『私の履歴書』で盛り上げてくれた。2014年か2015年には、また連載で盛り上げてくれるかと思っていたが、亡くなってしまった。

もし生きていたら、どんな作品を書いたのだろうか?

大胆に予測するならば、老人の性(インポテンツとの戦い)×ITという作品になったのではないだろうか。

『私の履歴書』の最終回では、次のような記述がある。

実際、今、わたしはインポテンツをテーマに小説を書いている。

これは、わたしが70代に入ってから実感したことで、当時のわたしに、もっとも重く突き刺さった問題であった。

幸いというべきか、残念というべきか、このテーマを直接書きこんだ作家は、日本や西欧にもあまりいないのではないか。

今、わたしはこのテーマを書きながら、人間、そして男と女について根底から考えこんでいる。

(日本経済新聞 2013年1月31日朝刊 「私の履歴書」より)

高齢者の性というのが強いテーマであることは間違いないだろう。

もう一つの注目ポイントはITの活用だ。『失楽園』においても『愛の流刑地』においても、携帯電話が大活躍している。

ライター・編集者の速水健朗さんは『1995年』(筑摩書房)という本で、渡辺淳一さんの作品と携帯端末についてふれている(なお『1995年』は超絶良著なので、是非手にとってほしい)。

やや、長い引用だが、その部分をご紹介しよう。テクノロジーに関する章での記述だ。1995年は携帯電話やPHSが普及したという内容の項目である。

常に新しい通信メディアの動向に敏感なのは、ギークとヤクザと不倫カップルであるという俗説がある。

この年、日本経済新聞に連載されていた渡辺淳一の新聞小説『失楽園』が大ブームになっていた。

主人公は、出版社に勤める50代の編集者。ただし、現在は閑職に追いやられ、業務といえば日がな新聞に目を通すのみの窓際社員だ。彼の人生は、30代の美しい人妻との不倫によって、生き生きしたものに変化していく。主人公は、仕事の都合で会社から携帯電話を持たされている。とはいえ、彼はもっぱらこの携帯電話を不倫相手の人妻との連絡用に用いている。相手の主婦の方は携帯電話を持っていない。主人公が、出先から一方的に家にいる彼女に連絡を取り、呼び出すのみという非対称な関係である。普及率1割という数字は、携帯を持っているのは片側だけという時代でもあったのだ。

不倫が通信メディアの先端を行く説は、この9年後の2004年に同紙で連載が開始され、やはり大ブームとなる『愛の流刑地』が証明している。この時代、携帯電話の普及率は、9割を超えている。ここでの中年の不倫カップルは絵文字入りの携帯メールを駆使している。

『失楽園』『愛の流刑地』と約10年ごとに日経新聞で連載を行う渡辺淳一の不倫小説は、移動体通信テクノロジーを反映させてきた。余談になるが、2015年に始まるであろう次回作には、スマートフォンを駆使した不倫恋愛が登場しそうだ。 

『1995年』(速水健朗 筑摩書房)より

改めて1995年の『失楽園』で携帯電話が不倫に大活躍しているのは、感覚が実に新しい。尖っている。

速水健朗さんも触れているように、もし、渡辺淳一さんが生きていて、最後の日経文化面で新聞小説を書いていたとしたら、スマホやLINEが大活躍したに違いない。Skypeを活用したプレイ、「妻が離婚に同意した」なんてメッセージに、不倫相手がスタンプを押す描写などがあったんだろう、きっと。

■悲しさというよりは、寂しさ 一つの時代が終わったという感じ

渡辺淳一さんが亡くなったと聞いて、私は驚いたが、不思議と「悲しい」という感情は起こらなかった。それよりも、「あっぱれ」という気持ちが強かったりする。そうか、あの人が亡くなったのか、実に彼らしく生き抜いてあっぱれだったな、と。

一方で、「寂しい」という感情はある。なんというか、大好きなドラマのエンディングのようだ。そうか、もう見れなくなっちゃうんだ、という。

そして、朝日新聞で林真理子さんはこうコメントしている。

文壇のキングと言える方で、この業界のひとつの時代が終わってしまったようなさびしさを感じています。私自身、銀座や祇園にも連れていっていただくなど、かわいがってもらいました。本当にショックです。

そう、こんな感じだ。ある意味、俗欲という男らしさ、というのがほぼ終わったような気がする。

・・・改めて、この一文を読んで感じたが、同じ直木賞作家でも、朝井リョウさんは、若手著者を銀座や祇園に連れて行かないな。

普通のサラリーマンにとって、渡辺淳一さん的な生き方は難しい。いや、彼の小説で出てくる不倫に興じるサラリーマンの生き方すら無理だ。

でも、彼は彼なりに、男闘呼(おとこと読むこと)の夢を描いたのだと思う。それが、平成26年の今となっては、お伽話のようなものだとしても。ビジネス書作家が、地に足がついていないことを書くのは問題で、冒険に出ようとか、秒速で1億とか、軽々しくい書くのはどうかと思うのだが、渡辺淳一さんは作家だから。

バブルの残り香を嗅いできて、消費させられてきたアラフォー男子だけど、渡辺淳一さんは一生かけても勝てない壁である。

長々と書いてしまった。

これが、私なりの追悼だ。

たくさんの夢、愛、そして性をありがとう。

偉大なる先輩に感謝。

合掌。

千葉商科大学国際教養学部准教授/働き方評論家/社会格闘家

1974年生まれ。身長175センチ、体重85キロ。札幌市出身。一橋大学商学部卒。同大学大学院社会学研究科修士課程修了。 リクルート、バンダイ、コンサルティング会社、フリーランス活動を経て2015年4月より千葉商科大学国際教養学部専任講師。2020年4月より准教授。長時間の残業、休日出勤、接待、宴会芸、異動、出向、転勤、過労・メンヘルなど真性「社畜」経験の持ち主。「働き方」をテーマに執筆、研究に没頭中。著書に『なぜ、残業はなくならないのか』(祥伝社)『僕たちはガンダムのジムである』(日本経済新聞出版社)『「就活」と日本社会』(NHK出版)『「意識高い系」という病』(ベストセラーズ)など。

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