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東大卒・銀行員・作詩作曲家 小椋佳から学ぶ会社員と副業の流儀 二枚目の名刺のその前に

常見陽平千葉商科大学国際教養学部准教授/働き方評論家/社会格闘家
2016年1月の日経「私の履歴書」は小椋佳。超絶良連載だった。

「冒険に出よう」のその前に 小椋佳さんを知ってますか?

「自由な働き方」や「二枚目の名刺(副業や社会貢献活動、勉強会の企画など会社以外の活動をすること)」などが話題となって久しい。そういえば、「ノマド」なんていう言葉があった。「冒険に出よう」と言った人たちはどこに言ったのだろうか。

しかし、この手の議論をする際に、避けては通れない人物がいる。小椋佳さんだ。

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「”二枚目の名刺”を持ちたいですぅ」などと思っている意識高い系会社員'''たちに告ぐ。今すぐタクシーをとめて図書館に駆け込み、1月の日経のバックナンバーをあさり「私の履歴書」を全部読みなさい。今回。このコラムで取り上げられた小椋佳さんの生き様を直視せよ。そして、感想を1200字以上2800字未満で書きなさい。

小椋佳さんは東大卒、元第一勧業銀行(現みずほ銀行)の銀行員、在職中から作詩・作曲家として活動していたことで知られている。日経が2016年の1月に彼を取り上げた意味を噛み締めている。自分の中で消化しきれていないが、この超絶良コラムを振り返るとともに、2016年現在の会社員と二枚目の名刺、自由な働き方について考えてみよう。

毎年1月の「私の履歴書」は日本のビジネスパーソンへの張り手である

私は日本経済新聞の名物コラム「私の履歴書」が大好きな人材である。私は無神論者だが、毎朝、このコラムを読めることを神に感謝し、生きている(生かされているとも言う)ことを実感する。今年の3月で60周年を迎えるこのコラムだが、この1月は作詩・作曲家の小椋佳さんだったわけだ。

「1月は行く、2月は逃げる、3月は去る(だから頑張れ)」というのは学校や会社で、構成員を管理し、心身ともに支配するために連呼される常套句であるが、これほど1月の時間の流れ方が、不思議だったことは我が人生においてない。早く次の朝が待ち遠しいとも思い、とはいえ1月が終わってしまっては小椋佳さんの連載が終わってしまう。この複雑な心境のもとに、この2016年の1月を生きた。本日、1月31日に小椋佳さんの回は終了した。日経電子版の画面を眺めつつ、涙し、この想いを共有せねばならないと思い、いてもたってもいられず、キーボードに向かっている。

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「私の履歴書」の毎年1月の人選は、日経からの日本のビジネスパーソンへのメッセージ、檄、張り手だと思っている。'''ここ数年の登場人物を振り返ってみよう。2013年は渡辺淳一さん、2014年は小澤征爾さん、2015年は王貞治さんだった。大御所揃いである。元気になりそうな人を持ってきている印象がある(高校の先輩である渡辺淳一先生のピンクの旋風はFacebookのOB・OG会コミュニティでも話題になったことをお伝えしておこう。このYahoo!個人でも以前記事化した)

スーパーサラリーマンでありウルトラシンガーソングライターである小椋佳さん

実際、小椋佳さんの連載も元気をもらえるものだった。

第2回でさっそく明かされた料亭の子供として、真面目なお父様と江戸っ子気質のお母様のもとで育ったというルーツに関するエピソードからしてすでに、文武両道のにおいがする。実際、少年時代の歌に野球にバスケットボールに勉強に没頭。その際の武勇伝はいちいち面白い。

都立上野高校時代に、帝国ホテルの社長あてに

「私は英語を実践的に学びたいと思っている一高校生ですが、ご宿泊客の中で東京の観光を望んでいる外国人、できればアメリカ人をご紹介ください、私が無報酬で個人的にご案内致します」

出典:日本経済新聞2016年1月11日付朝刊「私の履歴書」より

と手紙を出した話など、意識高すぎである(社長名義で返事がきたそうだ)。課外授業では先生に本の精読法を学び言葉の奥深さに気づいた話(言葉の迷宮にはまり、悩んだとも記されていたが)など、のちの作詩家小椋佳への伏線もいちいち面白い。

一浪の末に東京大学に合格。漕艇部(ボート部)に入部するが、すぐに退部し、創作の模索。表現者を志したまま日本勧業銀行(のちに第一勧業銀行→現みずほ銀行)への入行。海外の大学院への留学と、レコードデビュー。会社とは時にトラブルになりつつも、シンガーソングライターとしての活動を継続し「シクラメンのかほり」の大ヒットにも恵まれる。

米証券会社メリルリンチに派遣されインベストメントバンキングを学び、新商品を開発してヒットさせ、浜松支店長、財務サービス部の部長をへて49歳にして銀行を退職。

東大に学士入学し、哲学を学び大学院修士課程修了。闘病生活、そして古希を迎えて臨んだ「生前葬コンサート」・・・。

歌好きの「カンダコウジ(神田紘爾)」少年が、作詩・作曲家の「小椋佳」になっていくドラマを存分に味わうことができた。

スーパーサラリーマンにして、ウルトラシングソングライターなのだ。

「私の履歴書」に関しては、成功した人のドヤ顔自分語りという批判があるが、この小椋佳さんの人生の模索、武勇伝の数々は日本を元気にするメッセージだったと思っている。嫌味がなく、実に痛快、爽快なコラムだった。

それにしても、小椋佳さん、日経のメッセージとは何だったのだろうか。個々人によって解釈が分かれることだろう。痛快、爽快と書いたが、ご本人はすさまじい才能の持ち主だし、努力をしていると感じたし、なんせビジネスにおいても、音楽においても圧倒的な成績を残している。

「出る杭は打たれる」というが「出すぎた杭は打たれない」とも言う。「お前らもっと自由に生きろ」という風に解釈したいところだが、「もっと頑張れ」という風にも聞こえる。

何より、49歳で銀行を退職し、大学(のちに大学院)に入りなおし、音楽活動も本格させたというエピソードに私は反応してしまっている。そのニュースはリアルタイムで知っていたのだが、いま読むと、中高年よ人生の仕上げをせよと言っているようにも聞こえる。よく、会社に縛られない若者が話題となるが、若者がそんなことをしても生きづらいだけなわけで。むしろ組織から解き放たれ、知見を社会に還元しつつ、自分を取り戻すべきなのは中高年なのではないかと思っている。

副業に文句を言われないために

肝心の会社員の副業について考えよう。ここ数年、会社員の副業礼賛論を見かける。必ずしも副業じゃないにしろ、「二枚目の名刺」ムーブメントなるものもある。2枚目の名刺には勉強会の主催や、社会貢献活動なども入る。

いかにも意識高い系が苦手な私だけど、実はこのムーブメント自体には肯定的である。問題は、何のために、どのレベルでやるか、どのように周りに(特に勤務先に)認められるかという話である。単にセルフブランディングのためというのは痛いが、中途半端にやって勤務先に迷惑をかけるのもいかがなものかと思う。小椋佳さんレベルで仕事も音楽もやりきれば文句を言われないという話なのだが、ここまでやれる才能とやり切る力の持ち主は稀有なのではないか。

副業も、どう位置づけるかという問題がある。収入のためなのか、現在の仕事の延長戦上なのか、まったく違う活動なのか、将来のための助走期間なのか、などである。副業とは何か。個人としても会社としても定義、在り方を模索する時期だと言えそうだ。

最後に、少しだけ自分語りを。私は10代の頃に井上陽水の「白い一日」をキッカケに小椋佳さんと出会った(作詞が小椋佳さんだ)。彼が第一勧業銀行の行員だと知って、まるで普段は仕事をしていて、ヒーローとして活躍する特撮の主人公のように見えた。

私も、働きながら何かしようと10代の頃から考え、その後会社員になったが32歳でライターデビュー、33歳で著者デビューした。同世代の著者の中ではデビュー時期は普通だけど、兼業著者では最も早いではないかと思う。

会社員で副業をしていた際は、風当たりが強かった。うしろゆびさされないように本業にがむしゃらに取り組んだのだが、どんなに頑張っても副業をしている事実について悪く言われる。そんな時代を経験した。代表作『僕たちはガンダムのジムである』を書けたもの、この会社員経験、および働きながらの副業経験があるからだと思う。

今や世間は副業推しのようで、労務管理上も情報の管理上も問題があり風当たりが強いのもまた事実だ。そんな中で、小椋佳さんが日経の「私の履歴書」に出てくれたことは大きな意味があると思う。今一度、この連載を読み返し、会社員として働くこと、副業することの意味、会社員のやめどきを考えてみよう。

小椋佳とは私である。小椋佳とはあなたである。

「私の履歴書」は明日からはサッカーの釜本邦茂さんだ。これまた毎日が楽しみだ。

行こうぜ、満員電車の向こうへ。

千葉商科大学国際教養学部准教授/働き方評論家/社会格闘家

1974年生まれ。身長175センチ、体重85キロ。札幌市出身。一橋大学商学部卒。同大学大学院社会学研究科修士課程修了。 リクルート、バンダイ、コンサルティング会社、フリーランス活動を経て2015年4月より千葉商科大学国際教養学部専任講師。2020年4月より准教授。長時間の残業、休日出勤、接待、宴会芸、異動、出向、転勤、過労・メンヘルなど真性「社畜」経験の持ち主。「働き方」をテーマに執筆、研究に没頭中。著書に『なぜ、残業はなくならないのか』(祥伝社)『僕たちはガンダムのジムである』(日本経済新聞出版社)『「就活」と日本社会』(NHK出版)『「意識高い系」という病』(ベストセラーズ)など。

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