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『シン・ゴジラ』を組織と人材から考えてみる

常見陽平千葉商科大学国際教養学部准教授/働き方評論家/社会格闘家

『シン・ゴジラ』を見てきた。言うまでもなく、話題作であり、大ヒット作である。実は先週末に、近所の映画館で見ようとしたら午後の回は満席。平日の深夜の枠でやっと見ることができた。可能な限りネタバレなしで、レビューのようなものを書くことにする。

率直な感想を言うならば、Nスペのような作品だった。戦後史、平成史を読んでいるかのような感覚でもある。言うまでもなく、『ゴジラ』はSF作品であり、フィクションなのだが、まるでドキュメンタリーを見ているかのような感覚だった。膨大な取材をもとに、フィクションを練り上げた山崎豊子の作品にも似ている。

ゴジラ以外は、宇宙人や悪の組織が登場するわけでもないし、ありえない未来的な兵器も、ほぼ登場しない。現在の東京に、ゴジラがやってきた。ただ、それだけだ。ゴジラも別に東京を壊すために現れたわけではないだろう。ゴジラは移動しているだけであり、攻撃されたからやり返している。ただ、それだけだ。

私たちはすでに怪獣映画のような体験を「してしまった」ことも大きい。1995年、2011年、2016年の集合的記憶とも言える大災害を経験している。怪獣から逃げたことはないが、集団で帰宅したことはある。避難所での生活を余儀なくされた人もいる。体験しなくても、そのような光景を見聞きしている。テロや凶悪な事件を日常的に見聞きしている。

同作品のキャッチコピーは「現実(ニッポン)対虚構(ゴジラ)」だが、同作品の中での虚構は、ゴジラと、一部の演出だけに過ぎない。そのゴジラも、想定の範囲内を超えた災害や、原子力や兵器などのメタファーであることは言うまでもない。虚構と現実はすでに融合しているかのような社会で生きているし、ネットなどICTがその垣根をより分からなくしている。

この作品の描写がいちいちリアルであることもあるが、私達はすでにこれまでの想定の範囲を超えるかのような時代を生きている。だから、まるでNHKスペシャルや、山崎豊子作品かのような感想を『シン・ゴジラ』に抱くのだろう。

『シン・ゴジラ』は、怪獣映画、SF作品、サブカル映画を装った、政治映画、風刺映画である。無駄なものが一つもなくいちいちリアルな映像と、本質をつくセリフから、日本という国家、その戦略と組織が問われ続ける。想定外のことが起きた際に決められないリーダーや、縦割り組織の弊害など日本の問題点に容赦なく斬り込んでいく。政治家や官庁に対する皮肉は痛快だ。

米国を始め、諸外国との関係についても、実社会が投影されている。米国との関係についても「傀儡」など刺激的な、しかし庶民も薄々気づいているようなフレーズが自然に飛び出す。戦後約71年の日米関係がフラッシュバックする。官邸のメディアへの介入が問題視され、いつの間にか自主規制してしまう世の中だが、このような手段があったか。いや、本来これは映画というか、コンテンツが果たすべき役割の一つなのだけれども。

もっとも長年、批判される日本のエリートや組織だが、本作品でもそれについて痛快に批判する一方、その可能性が提示される。ネタバレだが「我々はもっとやれるはずだ」「優秀な若者はいっぱいるんだ」(正確なものではなく、うろ覚えであることをご容赦いただきたい)というようなセリフが登場し、その言葉は現実となる。日本人であることや、日本の組織について自虐的になりすぎるのは思考停止だ。官庁にも企業にも優秀な人材はいる。しかし、彼らが必然的に思考停止してしまうシステムが問題なのだ。

これもまたネタバレだが、前半の決められないリーダー、縦割り行政の弊害、結果としての人災のような、まるで我が国が体験したかのような流れから、後半は当初から問題意識を持っていた若きリーダーの抜擢、組織の壁を超えた組織が作られる。この組織も当初は形成期、混乱期を経て統一期、機能期を迎える。まるで組織論の教科書を読んでいるかのような展開だった。

外部の組織や、諸外国を巻き込み、問題を解決するための、オープン・イノベーションが短期間で達成される。この若きリーダーの上には、総理代行のような、いかにもお飾りの人が登場する。別に決められないリーダーが悪なのではなく、決められないなりに下がしっかりすれば良いし、責任さえとってくれれば良い。日本の会社員が感じる組織の閉塞感と、その打開策の方向性が提示されていると感じた。

最初、この作品を見た時に『失敗の本質』(戸部良一,寺本義也, 鎌田伸一, 杉之尾孝生, 村井友秀, 野中郁次郎 中央公論新社 ※もともとはダイヤモンド社より1984年に刊行)のことを思い出した。同書は、善悪や好悪をいったん手放して「日本軍はなぜ負けたのか(各戦地の作戦において)」を戦略と組織に注目して検証したものだった。しかし、いったん思い出したものの、『失敗の本質』で研究対象となった日本軍と『シン・ゴジラ』を同一視し、「日本の戦略と組織は、昔と変わらない」と断じてしまうのはやや雑だ。特に後半のゴジラ対策組織は、日本的な良さを残しつつも、縦割りの問題点や決められないリーダーなどの問題を乗り越えたものである。

前半における総理や閣僚も、何もできなかったわけではない。ただ、ゴジラが想定を超えていただけだ。そして、この想定を超えた出来事にどう立ち向かうかというのが、我が国、いや世界が直面している問題である。決められないリーダーが問題だとして、では、その反動として決められる(決めてしまう)リーダーが現れた場合どうするか。

さらに言うならば、社会的な悪が登場した場合、事前に排除することが正当化されるのか否かという問題提起もされている。犯罪をすることが極めて高い確率で分かっている場合、それを事前に排除することが合法化されるのか否かという問題だ。ISや相模原の大量殺害事件などがまさにそうだ。社会を守るためには一見すると排除は正当化されるが、それは思想や信条が統制される社会が到来するリスクを孕んでいる。

「悪」や「敵」とは何かという問題提起も含まれていると思う。一応、玩具メーカーに3年半くらい在籍していたが、当時も特撮やアニメにおいて「悪」とは何かがわかりづらい世の中だという議論があった。彼らはなぜ悪なのか、目的は何なのか。悪の不透明感というのが今どきの問題だ。『シン・ゴジラ』を見ると、実は悪とは自分たち自身かのように思えてもくる。震災が人災と言われるのもそういう側面があるだろう。ゴジラは、別に東京を破壊することをミッションとしているわけではなく、ただ生まれ、成長し、移動し、攻撃してくるものに抵抗しているだけだ。

しかし、そのゴジラを制したものは、人間の知性、理性であり、情熱である。ここ数年、科学のあり方が根本的に問われるような不祥事が続いた。科学では説明しきれないことが人類につきつけられる時代だ。知性、理性で抑えきれない、ポピュリズムの時代でもある。しかし、この映画を見て、人間の知性と理性、そして情熱と可能性を信じようと思った次第だ。

最後に。何しろ、娯楽作品として実に楽しめる作品だった。リアリティ、スリル、カタルシスがたまらない。レイトショーで見たのだが、興奮して眠れなくなり。帰りのクルマの中から、帰宅して寝るまで夫婦でずっと語りあった。そう、昨年でいう『マッド・マックス 怒りのデスロード』のように、語りたくなってしょうがなくなる作品だ。明日、8月12日(金)には下北沢B&Bにてイベントが開催されるという。今後もこの手のイベントが多数開かれることだろう。

クラシカルなBGMもたまらない。いちいち、絵コンテが最高だ。

『新世紀エヴァンゲリオン』自体が特撮へのオマージュの要素が多々あったのだが、『シン・ゴジラ』はそのさらにオマージュとなっており、日本のSFやアニメの現在過去未来をつなぐ作品だと思った次第だ。あたかもグラミー賞でのファレル・ウィリアムス、Daft Punk、スティーヴィー・ワンダー、ナイル・ロジャースのセッションを見ているかのような気分になった。

皮肉なことに、庵野秀明として、久々に仕事をやりきったといえるのではないか。かっちり徹頭徹尾まとめていて、破綻していない。昨年発表した拙著『エヴァンゲリオン化する社会』(日本経済新聞出版社)では、『新世紀エヴァンゲリオン』と労働社会の変化について書いたものだ。その中で、1章かけて同作品を読み解いている。『新世紀エヴァンゲリオン』は、数々の謎が含まれており、評論家やファンが謎解きを試みた。ただ、それは率直に稚拙であったからであり、作品の完成の遅れや破綻というものからもきていた。

『シン・ゴジラ』は奥が深い作品であることは間違いないが、メッセージがストレートで、『新世紀エヴァンゲリオン』のように謎解きを楽しむ作品ではないと感じた次第だ。完成度が高いということだろう。

良い仕事だった。

おめでとう。

千葉商科大学国際教養学部准教授/働き方評論家/社会格闘家

1974年生まれ。身長175センチ、体重85キロ。札幌市出身。一橋大学商学部卒。同大学大学院社会学研究科修士課程修了。 リクルート、バンダイ、コンサルティング会社、フリーランス活動を経て2015年4月より千葉商科大学国際教養学部専任講師。2020年4月より准教授。長時間の残業、休日出勤、接待、宴会芸、異動、出向、転勤、過労・メンヘルなど真性「社畜」経験の持ち主。「働き方」をテーマに執筆、研究に没頭中。著書に『なぜ、残業はなくならないのか』(祥伝社)『僕たちはガンダムのジムである』(日本経済新聞出版社)『「就活」と日本社会』(NHK出版)『「意識高い系」という病』(ベストセラーズ)など。

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