日本人メジャーリーガーの誕生から半世紀以上。当時チームメイトだった殿堂選手6人中5人は今も健在
9月1日は、日本人選手が初めてメジャーリーグでプレーした日だ。しかし、今年、その記念日について報じる記事は見当たらなかった(私が見落としただけかもしれないが)。そこで、遅ればせながらここに書いてみた。
日本人メジャーリーガーの歴史は、今から52年前の1964年9月1日、ニューヨークのシェイ・スタジアムで幕を開けた。サンフランシスコ・ジャイアンツの投手として、マッシー村上(村上雅則)が8回裏のマウンドに上がり、ニューヨーク・メッツの5番打者から始まる攻撃を、三振、ヒット、三振、内野ゴロで0点に抑えた。
前日の時点で、ジャイアンツはリーグ首位と6.5ゲーム差の3位、メッツは34.5ゲーム差の10位(最下位)にいて、最終的にはそれぞれ4位と10位に終わった(リーグ2地区制は1969年、3地区制は1994年にスタートした)。
だが、当時のジャイアンツは、将来のホール・オブ・フェイマー(殿堂選手)を数多く擁していた。村上のデビュー戦に出場したウィリー・メイズとオーランド・セペダの他にも、ウィリー・マッコビー、デューク・スナイダー、ホアン・マリシャル、ゲイロード・ペリーがいた。一方、この年にメッツでプレーした選手は、誰も殿堂に入っていない(ケーシー・ステンゲル監督は2年後に殿堂へ迎えられた)。
メイズら6人のうち、スナイダーは1964年限りで引退したが、他の5人は翌年も、村上とともにジャイアンツでプレーした。7月にはウォーレン・スパーンも加わり、ジャイアンツにいる将来のホール・オブ・フェイマーは再び6人となった。
1964年のジャイアンツは、少なからぬ人数の監督も輩出した。この試合に出場しなかった選手も含め、メッツからメジャーリーグの監督になったのはロイ・マクミランだけだ。それに対してジャイアンツは、村上のデビュー戦に出場したデル・クランドル、ハル・ラニアー、ジム・ダベンポートの3人に加え、ハービー・キーンもメジャーリーグで采配を揮った。いずれも監督としてのキャリアはそう長くなかったものの、キーンは1982年6月からミルウォーキー・ブルワーズの指揮を執り、球団初のワールドシリーズ進出を果たし、ワールドチャンピオンまで1勝に迫った。ラニアーは1986年にヒューストン・アストロズを率い、地区優勝を飾った。
日本プロ野球でプレーした選手もいる。マティ・アルーは1974~76年に太平洋クラブ・ライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)で、計262試合に出場した。メッツのダグアウトから村上のメジャーデビューに立ち会ったジョージ・アルトマンは、1968~74年に東京オリオンズ/ロッテ・オリオンズ (現・千葉ロッテ・マリーンズ)、1975年に阪神タイガースでプレーした。2人とも、日本プロ野球の選手だった時期は村上と重なる。アルトマンはチームメイトとしても過ごした。村上は1963年と1966~74年に南海ホークス(現・福岡ソフトバンク・ホークス)、1975年に阪神、1976~82年に日本ハム・ファイターズ(現・北海道日本ハム・ファイターズ)で投げた。
ちなみに、1964年9月1日の試合で、メイズを挟んで外野を守った2人のアルー、マティとヘススは兄弟だが、彼らの兄フェリペも、前年まではジャイアンツにいた。1963年9月には、試合途中から3人が外野に揃ったこともあった。また、メイズは村上の13歳上ながら、誕生日は同じ5月6日だ。
今年8月には、1964年にジャイアンツでプレーした殿堂選手5人が顔を揃えた。ジャイアンツの本拠地、AT&Tパークの前でペリーの像の除幕式が行われた際に、ペリーのみならず、すでに自身の像が設置されている4人、メイズ、セペダ、マッコビー、マリシャルも集まった。ただ、スナイダーのジャイアンツ在籍は1964年だけなので、そこに像がないのは当然ながら、すでに死去しているため、姿を見せることもできなかった。
村上のデビュー戦に出場した両チーム計21人中、3分の1の7人が亡くなっている。ジャイアンツのダベンポートとジム・レイ・ハート、メッツのジム・ヒックマンは、今年永眠した。ジャイアンツがユニフォームの右袖につけている2つのパッチのうち、「DAVVY 12」はダベンポートを悼んでいる(「MONTE 20」は殿堂選手のモンテ・アービン。1949~55年にニューヨーク・ジャイアンツでプレーした)。
出場21人のなかで最も若く、19歳だったメッツのエド・クレインプールですら70歳を超えている。20歳でメジャーデビューした村上は、現在72歳だ。村上や5人の殿堂選手だけでなく、他のメンバーについても、さらなる長寿を祈りたい。