自分のことは自分で決めるのが人間!?:映画「ノア 約束の舟」から考える人間観と幸せになる方法
■『ノア 約束の舟』感動と論争
人類滅亡、世界の終わり。とても暗い話なのですが、なぜか人は魅かれます(私も好きです)。それは、滅亡は再生の象徴だからなのかもしれません(自分が死ぬ夢も、心理学的には新しく生まれ変わる再生の象徴ととらえたりします)。
さて、人類の最も古い滅亡と再生の物語のひとつ、「ノアの箱船」。今までも映画化されたことはありましたが(1966『天地創造』など)、今回は見事な映像技術をつかったスペクタクル映画として、登場です。
『ノア 約束の舟』
「『ブラック・スワン』のダーレン・アロノフスキー監督最新作。」
「ノアの箱舟」伝説が かつてないスケールでついに映画化!壮大なスペクタクル感動作誕生!!」
「あなたは、新たな世界の創造を目撃する。」のだそうです。
出演は、『レ・ミゼラブル』のラッセル・クロウ、名優アンソニー・ホプキンス、『ハリー・ポッター』のハーマイオニー役エマ・ワトソンなど。期待できそうな配役です。
映画は世界で大ヒット。そして「世界中に感動と論争を巻き起こした話題作」だそうです。
面白い、つまらないという議論もあるでしょうが、宗教家たちから肯定的、否定的、それぞれの意見が出ています。イスラム国の中には、ノアを描くこと自体に反対し、上映禁止になった国もあるようです(ノアの箱船が登場する旧約聖書は、キリスト教徒もユダヤ教徒もイスラム教徒も読みます)。
聖書と内容が異なると批判する人もいます。
ノアが、方舟を奪おうとする人と戦い殺すシーンに違和感を感じる人もいるでしょう。「神様」の存在が、愛と義の神というよりも何だか訳のわからない存在と感じて不快感を持つ人もいるでしょう。ノアたちを手伝うものたち(天使?モンスター?)に疑問を感じる人もいるでしょうし、聖書ではノアの息子たちにはみな妻がいるのに、映画では違うといったこともあります。
これは聖書の映画化ではなく、聖書を題材とした別の物語ともいえるでしょう。監督自身も、映画には宗教的意味合いは持たせていないと語っています。
■箱舟
それはさておき、映画の箱舟は聖書の記述どおりです。高さ13メートル、幅22メートル、長さ133メートル。これは、木造船としては人類史上最大です。
1億2千500万ドルもの莫大な制作費をかけた今回の映画でも、三分の一の部分だけ作り、後は映像効果を使いました。この巨大な箱舟が大洪水の中に浮かぶシーンは、大迫力です。
聖書に描かれた箱舟のデザイン(長さ、幅、高さの割合)は、現代の造船技術から見ても、もっとも安定した形なのだそうです。
聖書ではこう書いてあります。
「あなたは、いとすぎの木で箱舟を造り、箱舟の中にへやを設け、アスファルトでそのうちそとを塗りなさい。その造り方は次のとおりである。すなわち箱舟の長さは三百キュビト、幅は五十キュビト、高さは三十キュビトとし、箱舟に屋根を造り、上へ一キュビトにそれを仕上げ、また箱舟の戸口をその横に設けて、一階と二階と三階のある箱舟を造りなさい。」 (創世記6章/口語訳)
「アスファルト」の部分は、新改訳では「木のやに」、新共同約では「タール」ですね。リビングバイブルだと「樹脂の多い木で船を造り、タールで防水を施すのだ」とあります(聖書の舞台である中近東では昔から地面にアスファルトがにじみ出ていたようですが、この部分の原語が現在の何を指すのか特定するのが難しいのでしょう)。
また聖書では、動物とノアの家族が船にはいると、「主は、彼のうしろの戸を閉められた」と書いてありますから、人間が開けようと思っても開けられなかったとも解釈できます。
映画では、ノアの奥さんが他の人も助けてあげようと語るシーンがありますが、聖書ではそのあたりのことは書いてありません。なにしろ大昔の作品ですから、現代小説のような心理描写はあまりないのです。でも、ノアもきっと苦悩したことでしょう。
「こんな大きな船、ノアの家族だけで作れないだろう」という疑問への映画の解答が、ノアたちを手伝う存在の登場なのでしょう。また、「こんなにたくさんの動物の世話なんかできないぞ」という疑問への解答として、動物たちをみな眠らせたのでしょう。そして、「いくら大雨降っても地球規模の洪水なんかにならないよ」という疑問への解答が、地表から吹き出す大量の水でしょう。
■ノアの苦悩と選択
映画の中でも、ノアは苦悩します。映画雑誌「キネマ旬報」6月下旬号では、本作「ノア 約束の舟」を特集し、ノアの「選択」に注目していました。
ネタバレになってしまうので、あまり書きませんが、たしかにノアが苦悩して選択する場面が何カ所も出てきます。現代社会の人間観から見ても、聖書の人間観から見ても、私たちは、神に操られるロボットではなく物事を選び取れる意志を持った存在です。だから迷います。
■悪役とヘビ
映画には悪役が登場します。彼は、神は自分には何も語りかけず見放されたと思っていました。映画の世界、大洪水前の地球には、超自然的な存在があるように、神の存在は疑えない事実としてあります。しかし悪役にとっては、神は「沈黙する神」でした。
そして、悪役はノアの息子をワナにかけます。「自分で考えて自分で決めろ、それが人間だ!」と迫ります。
一方ノアは、神のみ心に従おうとします。これは私の映画解釈ですが、悪役は人類を誘惑したエデンの園のヘビの象徴ではないでしょうか。そして、実は神は悪役にも語りかけていたのではないでしょうか。
映画の中では、神様は白いひげのおじいさんの形などでは表れません。それどころか、具体的な言葉で語りかけることすらしません。ノアは神が示すイメージを見て、深く考え、そして自ら判断していきます。
だから、実は神は悪役にもイメージを送っていたのではないかと思うのです。しかし悪役は神の思いを知ろうとはしませんでした。一生懸命自分の命を守ろうとしながら、その結果は悲惨なものに終わります。
■善悪を知るのは誰か
聖書によれば、人類は神の命令に背き、「善悪を知る木の実」(知恵の実)を食べて、楽園から追放されます。賢くなることはとても良いことだと思えますが、人間が自分だけで善悪を判断するならば、結末はアン・ハッピーエンドではないでしょうか。
テロリストも通り魔も、妻を殴る夫も、子どもを追い詰める母親も、みんな自分が、自分だけが正しいと思っています。
自分で考え、自分で決める。たしかにそれが人間です。でも、自分の思いと判断だけでは、人は道を誤るでしょう。宗教を信じる人も、自分の考えだけが絶対だと思ってしまえば、恐ろしいことが起こるでしょう。
まともな宗教家は、絶対的な信仰を持っていても、同時に冷静さや客観性を持っているものです。自分が善悪の絶対的最終的判断者ではなく、いつも神仏の心を知ろうとし続けていることでしょう。
神様が、子どもにふさわしい学習塾がどこかを直接具体的に教えてくれるわけではありません。だから、同じ宗教家同士でも、政治的判断の意見は分かれます。
カルト宗教は、自分が絶対と思っています。自分たちの行動のせいで周囲が困っても、それで良いと思ってしまいます。たとえば、普通の宗教家が牧師や僧侶になる、出家しようとして、家族が反対したり寂しがれば、きっと心を痛めるでしょう。しかし、カルト宗教は自分の判断が絶対です。
自分で決めるのが人間ですが、迷い、心を痛めるのも人間でしょう。自信を持つことは大切です。同時に、謙虚さも大切です。
だから反対意見も聞くし、だからみんなで議論するし、だから選挙をするのでしょう。だから一生懸命祈ったり聖書や仏典を読むのでしょう。決して、一番賢く正しい人が全部を決めようとはしないのです。私たちはいつも不完全だからです。
何が正しいのか、私は何をするべきなのか。消費税も、集団的自衛権も、サッカー日本代表の監督選びも、迷いながら、祈りながら、みんなで考えていきたいと思います。私たちの幸せのために。希望に満ちた約束の虹を見るために。
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