新潟県中越地震から10年:災害報道と復興への道
■新潟県中越地震
2004年(平成16年)10月23日17時56分新潟県中越地区で発生。
震度7:新潟県川口町
震度6強:新潟県小千谷(おぢや)市、山古志村、小国町
震度6弱:新潟県長岡市、十日町市、刈羽村(原発のある場所)など。
死者68人、重傷633人、軽傷4,172人。
住宅の全壊3,175棟など、12万棟の建物が被害を受けた。
孤立した集落、全村避難した村もあった。
最大で10万人を超える避難者がいた。
地元の人は震災(新潟県中越大震災)とも呼ぶ。
東京と新潟を結ぶ上越新幹線は脱線。各所でトンネル等が破損し、全線開通したのは、この年の12月28日だった。
高速道路関越道を一般車両が通れるようになったのは、11月5日。ただし、速度制限や重量制限があり、完全復旧したのは、翌年2005年の12月26日だった。
■私と中越地震
私は、新潟市で新潟県中越地震を体験した。新潟市では大きな被害はなかった。自宅では子どもがおびえていたが、当時新潟青陵大学の学生部長だった私は、その日、数十名の学生と一緒に大学に泊まった。
地震直後。東京のテレビ局からの番組で、地震の仕組みについて放送していた。今回の地震というよりも、一般的な地震のメカニズムだ。私は、そのまったく役に立たない番組を見て、無性に腹が立った。
「被災者」という言葉にも、何かもやもやとした違和感を感じた。
地震の1週間後、以前から予定していた新潟県中越地域での講演会に講師として出かけた。高速道路は通れない。どの道が通れるかもわからない。しかし主催者から実施したいと連絡があった。
道路交通情報センターにも、国道の情報しか入らない(多くの問い合わせがある中、答えられないのが本当に辛かったと、後日職員の人から聞いた)。
講演会スタッフの方が、実際に道を走り、私に手作りの地図を届けてくれた。大きな落石を横に見ながら車を走らせた。山を越え、視界が広がり、悠然と流れる川が見えた。地震前と変わらず流れる川の姿に、涙が出る思いがした。
地震から3週間後に小千谷市に行く。新潟市で軍手や水や食料を買い、車に積み込んで。しかし、一番大きな小千谷市総合体育館の隣にあるスーパーはすでに営業していた。商品もふんだんにあった。通常の営業をしているスーパーに関する報道は、私の目には入らなかった。
避難所に行くと、地元のボランティアリーダーが、食べかけの昼食を脇にやり、熱い思いを語ってくれた。
■災害報道
□余震におびえる小千谷市民?
最大の避難所になった小千谷総合体育館には、大勢のマスコミが来ていた。余震は続いている。避難者の中には、特に余震におびえている人もいる。けっこう平気な人もいるのだが。
東京から来た取材陣が、その特にふるえている人への取材をしようと、順番待ちの列を作っていた。
「余震におびえる小千谷市民」の映像が欲しかったのだろうか。
□不安にふるえる関係者?
ある病院の院長から聞いた。その病院には、豊富な備蓄品があった。院長は、数日後にはきっと支援の物資も人員もたくさん来ると確信していた。だから、遠慮せず備蓄品を使ええと職員達に指示していた。
そんなとき、東京からの取材があった。
院長は、取材に答えて、大丈夫だと力強く答えた。しかしインタビュアーは、もし支援物資が来なかったらどうすると食い下がってきた。そんなことはないと思うが、万が一そんなことになったら、それはとても困ると、院長は答えた。
後日報道されたのは、院長の「困る」と語った部分だけだった。
院長は怒りを込めて、私に話してくれた。
□子どもたちはPTSD?
あるメディアの人に子どもたちの絵を見てくれと頼まれた。子どもの絵から、子どもの深い心の傷を探ろうということらしい。しかし、中越地区の普通の子どもたちが普通に描いた絵に、それほど特殊なものが簡単に見つかったりはしなかった。
私は、無理にそのような絵を探すことはあまり意味がないと、伝えた。
もちろん、心に傷を負った多くの人はいる。ある少年は、地震後、怖いと言って寝室では寝られず、玄関先で寝ていると、少年の姉から聞いた。自宅は怖いので自動車内で寝泊まりした人も多い。
地震後しばらくたって、それまでの勇気や決断力を失っている人々にも会った。
心の傷は当然ある。ただし、いつもメディアが思っているような形というわけではないだろう。
□報道の意味
被害状況を報道することが、悪いわけではない。
中越地震直後、実際は最大震度の震度7を記録した川口町からは、まったく情報が入らなかった。地震被害によって、震度の記録も届かなかった。震源地川口町の惨状は人々に伝わらなかったのだ。
私は、新潟県内のあるローカル放送局にいた。そこに、川口町から一人の女性がやってきた。
「放送して欲しい!」「川口町の状況を報道して欲しい!」「報道されないから、川口町には支援物資も支援の人員もやってこない!」「報道して欲しい!」
涙ながらの訴えだった。
災害報道は必要だ。情報が入りにくい箇所からの報道こそ、必要だ。
■災害報道のあり方
災害直後は、被害を受けた人々のニーズに直接応えられる情報が必要である。次に必要なのは、現地の人が元気になるような報道だ。「かわいそうな被災者」という報道だけを繰り返すのは、逆効果だ。
頑張る自衛隊や、ボランティアといった報道も良いが、被災地の人々自身が頑張っている姿を報道することこそが、必要だ。
これらの報道は、中央のメディアよりも、ローカル放送の方が得意かもしれない。これから先もずっと地元の人々と一緒に生きていく地元のメディアは、「かわいそう」という報道ばかりをしてはいけないと、ローカル放送曲の人が話していた。
また、地元密着の大切だが小さな情報を伝えるのに一番役立つのは、ローカルラジオだろう。ラジオがもっともフットワークが軽い。また、ローカルテレビは、報道したいことがたくさんあっても、中央からの番組を流さなくてはならないもどかしさがあったようだ。
■人々の声
大きな災害があれば、膨大な報道がなされる。不謹慎な言い方だが、中越地震直後の小千谷総合体育館周辺は、まるでイベント会場のようだった。たくさんの中継車が並び、大勢の取材スタッフがいた。自衛隊やボランティアの人々が行き交い、活気にあふれていた(ただし、小さな避難所の状況はもちろん違っていたのだが)。
マスコミからも、人々からも、たくさんの話を聞いた。それほど多くの話を聞きながら、私は「ああ、その話は聞いた」と思ったことは一度もなかった。どれもこれも新鮮だった。
脱線した新幹線に、知人が二人乗っていた。一人は、「びっくりした」と語った。もう一人は「死の恐怖を味わった」と語った。同じ脱線した新幹線に乗っていても、乗っていた車両によって、体験はまるで違う。
脱線した新幹線を降りて、長岡駅まで歩く様子は、二人とも同じだった。不思議と誰も文句を言わず、暗く寒い線路の上を歩いたという。互いに助け合う姿も見られた。だが、そのあとは違った。在来線も止まっていたために、一人は長岡から新潟に帰るのに、ずいぶん苦労した。もう一人は、長岡から新潟まで約60kmを、タクシーで移動した。
メディアに登場する、ものすごい体験、とても感動的な出来事。それは、とても貴重だ。同時に、報道されない一人一人の体験も、同じように貴重だ。いや、液晶画面を通さない生の声は、直接私たちの心に響いてくる。
■復興への道
中越地震直後、新潟市内に復興の基地ができた。たくさんの自衛隊の車両。まるで戦場のようだった。そこから、「災害派遣」のプレートをつけた車両が次々と出発していた。
新潟空港も、自衛隊のヘリコプターが次々と離着陸していた。
それは、とても頼もしい光景だった。
新潟県中越地区の道路やトンネルはずたずたに分断された。それが、すさまじい勢いで修復されていったと感じている。山間の道路は何年もかかったのだが、完璧に直されていった。
国が威信をかけて復興を進めていると、私は感じた。正直言って、この過疎の地域にこれほどのお金と労力をかけるのかと思ったほどだ。日本は、地方を見捨てないのだ感じさせるような復興だった。
特に山古志村と、その村長は、復興のシンボルになったように思える。見事な「復興」だった。
だが、中越地震から10年たち、山古志の人口は半減している。世帯数は3分の1だ。地震によって、過疎化と高齢化が、20年早く進んだと言われている。
道路は直ったが、人は戻ってこなかった。
しかし、地元の人々の努力は続いている。長岡造形大学や様々なボランティア団体の支援も続いている。地元メディアもずっと応援を続けている。
被害者遺族の心の傷は、10年たった今も、癒されていないかもしれない。しかし、歩みは続いている。新しい出会いがあり、新しい企画がなされている。
中越は、山古志は、決してさびれていない。多くの人々が訪問している。住む人は減っても、昼間訪問する人は増えている。
中越地震直後、被災地にお母さんが話してくれた。
「ひどい目に合ったが、大勢の自衛隊や大勢のボランティが来てくれた。震災のおかげで、こんな田舎ではとても見られない東京の人形劇等も見せてくれた。大勢の善意の人たちが、子どもたちに温かく接してくれた。それは、子どもたちにとってとても良い体験になった」。
♪「悲しいとき、あの人は、あたたかな握手をしてくれた・・・ふるえるほど、ありがたかった」
新潟県中越地震を体験した子どもたちの作文をもとに作られた歌『ありがとう』。
今日、10周年の式典でも、子どもたちが元気に歌っている。
♪「地震にも負けない強い心を持って」と子どもたちは歌っている。
中越地震直後から、今も、自衛隊やボランティアに対する心からの感謝の声を、私は多くの人々から聞いている。
地震のために、夢破れた人の話も聞いている。そして、地震後に新しい夢を持った人々もいる。
中越の人々は語っている。
「必死の10年だった」
「応援してくれたみなさんのおかげです」。
新潟県中越のチャレンジは、これからも続いていく。
〜〜〜〜〜〜〜〜
「マリと子犬の物語」
新潟県中越地震の実話をもとに描かれた絵本の映画化。