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私がチラ見したイスラム世界(シャルリー・エブド事件によせて)

渡辺輝人弁護士(京都弁護士会所属)

筆者は弁護士であり、人権とか、表現の自由とかについては一通り専門教育を受けてきた部類の人間ですが、件のシャルリー・エブド事件とその後のフランス社会の反応については、テロに反対するのは当然のこととして、表現の自由の問題として自分がどう考えたらいいのか、結論が出ません。今でも迷っています。

それは、おそらく、自分自身は月並みな仏教的風習と八百万神をあがめる風習をなんとなく身につけながら、それほど仏様に帰依もしていないいい加減な宗教観に起因しているとおもうのですが、もう一つは、イスラム教徒のイスラムの教えに対する帰依のあり方について理解が足りないからではないかと思います。そう思っていたら、はたと、2009年9月にラマダン中のシリアに旅行に行ったときのことを思いだしたので(今は危ないから行かないでね)、当時書いたブログの記事を若干改稿て紹介したいと思います。

ラマダン中のシリア旅行は可能か

イスラム世界にはラマダン(断食月)というのがあって、この期間中は日の出後日没までの間、飲食をしません。厳格な人は唾液さえ吐き捨てます。なんでも、飢餓状態を味わうことで、食べ物のありがたみを知るのだとか。この期間中は人々の活動が停滞しがちで、みんな仕事を早く切り上げてしまうし、犯罪も減るらしいです。ただし、地域によってもかなり温度差があり、筆者が訪れたことがある国では(ラマダンとは関係なく)トルコと、意外なことにイランが割とイスラム教の教えに対して面従腹背だと感じました。いずれにせよ、ラマダンの時期であっても、多生の不便はあるものの、旅行自体は可能です。

ラマダンの風景

シリアに到着し、ダマスカス市内に入るとすでに夕方になっていました。宿に着いて荷物を下ろし、一服してから市街をぶらつこうと思って外に出たら日が暮れた直後でまだすこし空が明るい。通りをみると、2時間くらい前まで車が一杯だったところが閑散としていてほとんど1台もいない。店もシャッターが閉まっている。筆者はシリアについては何の知識もなかったので、ヨーロッパのように夜は街が閑散とする国なのかと思いました。

でも、レストランに入りご飯を食べていると、いつの間にやら街中が賑やかになり始め、道路も車で大渋滞し始めました。最初は何のことか分かりませんでしたが、このような日没→閑散→賑やかという構図は旅行中、どこの街でも一緒で、これがラマダン中の生活風景なのだということに気づきました。仕事をしている人たちは日没=飲食解禁のために急いで家に帰り、ご飯を食べた後は街に繰り出して夜中まで遊ぶのです。

今は灰燼に帰したアレッポの市場
今は灰燼に帰したアレッポの市場

ラマダンに対してどう接するか

シリアでさえ、公式には「ラマダンをどうするかは個人の自由な意思に任されている」というようなことが言われます。しかし、これは西洋向けの彼らの精一杯の「建前」だと感じました。実際には、ラマダンの風習は日本人が初詣に行くよりもずっと深く浸透しています。パルミラでおんぼろタクシーに乗ったとき、車の中には筆者と運転手しかおらず誰も咎める人がいないのに、運転手が日の入りの号砲と同時に水を飲み始めたときは感動を覚えました。彼は一日しっかりと神の教えを守ったのです。

ラマダン明け直前のウマイヤド・モスク(ダマスカス)
ラマダン明け直前のウマイヤド・モスク(ダマスカス)

こういう国に旅行に行ったときは「郷には入れば郷に従え」が基本だと思います。もちろん、シリア人は外国人がラマダン中の日中に飲食をしても、直接的に非難しません。でも、心の底では「こいつら、分かってないな~」と思っていると思います。ハマからアレッポに向かうバスの中で、外資系の企業に勤めていて熱心に英語を勉強している青年と慣れない英語で会話をしたのですが、彼は筆者が水を飲まないことについて「イスラム教徒じゃないのだから飲んでもいいのに」としきりに勧めました。筆者がそれでも「飲まない」というと「何でだ」と聞くので、僕が「イスラム教徒ではないが、飲まない方が礼儀正しい(polite)と思う」と言ったら、とても満足そうな顔をしていました。きっと、日本に来た外国人が敷居を踏まずに部屋に入ってきて端正に正座したら私たちも何となく嬉しいのではないでしょうか。

では、実際にどうしていたかというと、遺跡に行ったときとかにかげ隠れて水を飲んだりお菓子を食べたりしていました。一度、日中ほとんど飲まず食わずでやってみたのですが、あまりに苦しくて途中でギブアップしました。

ラマダン明けの礼拝が始まったウマイヤド・モスク
ラマダン明けの礼拝が始まったウマイヤド・モスク

でも、ラマダン中の日没時にモスクの中にいると、親切なおじさんがお菓子を分けてくれたり、果物をくれたり、一目で外国人と分かる筆者に対してもイスラム世界らしい、互助精神を示してくれます。こういう人たちの気持ちを傷つけてはいけないな、と思ったのでした。

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と、ここまでが、当時書いた記事なのですが、今のフランスをはじめとするヨーロッパの国々は、こういう(程度に濃淡はあれ)信仰や習慣を身につけた人たちが、人口の数%とか10%とかになっている訳で、キリスト教とは異なる文化の人々が共存する社会になっている訳です。

そういう社会において、信仰の対象となる人物や物(コーランとか)を侮辱する表現の自由というのは、表現の自由としてあるのではないかと思いつつ、社会における少数派に対する差別や排斥、果ては同一社会内での対立を招く要素になりやすいのではないかと思います。宗教の衣をまとった国際対立も不必要に助長します。そういう意味では、何となく仏教徒、何となく神道の人が多い日本のネット住民が某所の巨大仏像にかめはめ波を発射させるコラージュを作る(これ自体が仏教を侮辱しているのは間違いないでしょう)のとはレベルが違うと思います。そう考えたとき、シャルリー・エブドの風刺画がどう扱われるべきか、というと・・・・やはり結論は出ないんですよね。筆者にとっては難しい問題です。以上、煮え切らないエントリです。

そして、移民をどう考えるべきかについては、人口減少が続く日本でも、待ったなしの問題なのですが、筆者はここでも、あまりマシな回答を出せずにいます。日本の方が、ヨーロッパよりもイスラムに寛容になれるかしら?

弁護士(京都弁護士会所属)

1978年生。日本労働弁護団常任幹事、自由法曹団常任幹事、京都脱原発弁護団事務局長。労働者側の労働事件・労災・過労死事件、行政相手の行政事件を手がけています。残業代計算用エクセル「給与第一」開発者。基本はマチ弁なので何でもこなせるゼネラリストを目指しています。著作に『新版 残業代請求の理論と実務』(2021年 旬報社)。

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