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春闘賃上げ、最低賃金の引き上げを歓迎するメディアの「愚」 それは労働者の首を絞めるだけだ!

山田順作家、ジャーナリスト
経済財政諮問会議をリードする安倍首相(写真:代表撮影/ロイター/アフロ)

■日本政府は「愚か者の考え」「幻想」に染まっている

11月21日、経団連が、政府要請に応じて2016年の春闘での賃上げを企業に呼び掛ける方針を固めたというニュースには、本当に失望した。賃上げは、安倍晋三首相が、5日の官民対話で経済界に要望していたのもで、経団連がこれをあっさりと受け入れてしまったからだ。

さらに、24日、安倍首相が経済財政諮問会議で、全国平均で現在798円の最低賃金を毎年3%程度増やし、「時給1000円」を達成すると表明したのには、もっと失望した。

報道によると、政府は、最低賃金の引き上げはパートやアルバイトの賃金増加や待遇改善につながり、足踏みが続く個人消費を底上げする。それにより、「GDP600兆円」の目標が達成できるとしている。

しかし、これは「愚か者の考え」「幻想」「ウソ」である。そんなことは、経済低迷を続けるこの日本では絶対に起こらないからだ。

しかもこのウソの性(たち)が悪いのは、政府が渋る企業に賃上げを要求することで、労働者の味方をしているように思わせていることだ。このペテンにメディアも簡単に引っかかって、政府のやり方を批判しない。

もはや、日本のメディアは経済の基本的な仕組みすら忘れてしまったかのようだ。

■最低賃金の引き上げは企業に対する増税と同じ

そもそも、資本主義においては、労働条件は政府が法律で決めるものではなく、労使の合意で決めるのが自然だ。モノの価格が需要と供給のバランスで決まるように、賃金も市場で決まるべきものである。

そうでなければ、好景気なら賃金が上がる、不景気なら賃金が下がるというメカニズムはなくなってしまう。好景気だろうと、不景気だろうと、政府が賃金を決めてしまえば、企業行動は大きく変わってしまい、最終的にそのツケは労働者に回ってくる。

経済学者の間で論争はあるものの、古典的な経済学では「最低賃金の引き上げは企業に対する課税と同じ」とされてきた。また、「最低賃金の引き上げは個々の労働者に恩恵をもたらすが、企業全体ではコストが増えるので結果的に労働者の解雇が進んで失業が増える」とされてきた。

労働者の賃金は固定費だから、それが上がれば、企業の業績は悪化する。その結果、企業は採用数を減らしたり、リストラをしたりする。一時的に賃金が上がっても、その恩恵は全労働者に及ばない。とくにリストラにおいては、もっとも賃金が低い労働者から解雇されることになるので、政府の目論見とは逆の結果がもたらされる。

■地方の中小・零細企業のダメージは大きい

不思議なことに、日本では「最低賃金法」は労働者を守るためにあると信じられている。政治家もメディアもこれを疑わない。だから、景気が悪いのに、これを引き上げようとする。

日本では、最低賃金の水準は、毎年夏に、労使の代表が厚生労働省の中央最低賃金審議会で議論して、その「目安」を決めることになっている。それを基にして、地方の審議会が地域ごとの最低賃金を決める。したがって、歴代の政権はこれを尊重して、賃金には介入してこなかった。

ところが、安倍政権になってからは、政府が露骨に介入し、昨年は過去最大の18円増が決まった。春闘における賃上げも同じで、安倍政権は2年連続で大企業に「ベア」を要求してきた。

しかし、円安で業績を改善させた大企業はともかく、最低賃金の引き上げは、中小・零細企業の経営の圧迫につながる。とくに最低賃金が都市部と比べて低い地方では、中小・零細企業は大きなダメージを受ける。その結果、中小・零細企業が人を雇うのを減らせば、その影響をモロにかぶるのは、ほかならぬ労働者である。

■アメリカではすでに最低賃金の引き上げが始まった

安倍政権の最低賃金の引き上げ政策は、アメリカのパクリという見方がある。というのは、アメリカでは昨年から今年にかけて、多くの自治体で最低賃金(時給)を15ドルに引き上げる条例が可決されてきたからだ。たとえば、サンフランシスコ市では、市民投票で、これまで12.25ドルだった最低賃金を2018年7月までに段階的に15ドルに引き上げることが決まった。ロサンゼルス市も、議会が2020年までに引き上げる法案を可決した。

また、すでに、引き上げ案が可決され、引き上げが始まった自治体もある。シアトル市では、段階的な引き上げが決まった後から、先行して引き上げを始めたレストラン、スーパーなどが出現した。また、郊外のシータックという町では、客室100以上のホテルや従業員数25人以上の会社、レストランなどの最低賃金が15ドルに引き上げられた。

アメリカにおける最低賃金の引き上げは、著名な経済学者のジョセフ・E・スティグリッツ氏、ポール・グルーグマン氏、ジェフェリー・サックス氏などが提唱してきた。彼らは、最近の研究・調査により、「最低賃金を物価上昇とリンクさせて引き上げることによる経済的な恩恵は、最低賃金の引き上げによる経済的コストを上回る」「最低賃金の引き上げは労働者の離職・転職率を減少させ、企業の労働生産性を向上させる」と主張した。

今年の7月、次期大統領候補のヒラリー・クリントン氏は、経済に関するスピーチで、「連邦政府は賃金引上げに向けてさらに強く働きかけることができるし、またそうすべきだ」と主張した。

しかし、アメリカがやったから日本もやる。アメリカができたから日本もできると考えるのは、安易すぎる。なぜなら、アメリカ経済は曲がりなりにも成長しているが、日本経済はアベノミクスによっても長期停滞から抜け出せないばかりか、GDP成長率はマイナスに転じているからだ。

■能力の劣る労働者を排除するためにできた

アメリカで最低賃金制度ができたのは、19世紀後半から20世紀初めにかけてである。連邦法で定められたのは1930年代になってからだ。当時の経済学では、「最低賃金を定めれば雇用が減る」とされていたのに、なぜ、このような制度が生まれたのだろうか?

それは、経済学者や政治家たちが 最低賃金によって、能力の劣る労働者(つまり安い賃金でしか雇われない人々)を排除すれば、経済効率が高まり、社会は発展するだろうと考えたからだった。

また、当時はまだ人種差別があった。黒人に対する差別と偏見が存在していた。つまり、最低賃金制度は、黒人労働者を排除するという“裏目的”もあった。実際、これにより、黒人労働者の労働環境は改善されるどころか劣悪化した。

アメリカ史上、もっとも愚かな大統領の1人とされるフーバー大統領は、大恐慌になったにもかかわらず、企業に圧力をかけて賃下げをストツプさせた。これを、労働組合は大歓迎して拍手喝采を送ったが、結局は自分たち自身が首を切られ、失業者は街に溢れた。

■本当にブラックなのは政府のほうではないのか?

最低賃金が引き上げられたシアトル郊外の町では、あるホテルが、夜間のフロント係や保守係など15人の従業員を解雇した。また、人件費のかかる併設のレストランを閉鎖してカフェに切り替えた。

また、あるピザショップは閉店を従業員に通告した。現地の報道によると、その店の女性店主はこう話していた。

「4月に従業員を1人解雇し、勤務時間を1時間縮めて、その分は自分で働いてきました。自分には給料を払わなくてすむからです。少しですが値上げもしました。ほかにやりようがなかったからです」

原油安で経済危機に陥ったベネズエラでは、マドゥロ大統領が11月1日に最低賃金を30%引き上げた。これは今年4回目の引き上げで、ベネズエラの最低賃金は1年間でなんと97.3%も増加することになった。ベネズエラでは、すでに販売業者に値上げを禁じる物価統制令も引かれている。これは、明らかな共産主義的な政策で、自由市場を殺してしまうものである。

ところが、一般国民は大統領の経済政策を大歓迎し、労働者たちは大統領支持を叫んで街を練り歩いた。

いまやIT技術の進展で、単純労働は機械に置き換えられるようになった。スーパーを見ても、自動レジ化が進み、レジ係の店員が姿を消している。機械には賃金を払う必要がない。この流れは、もはや止められないだろう。

政府の強制による賃上げがなにを招くか、私たちはもっと真剣に考える必要がある。最低賃金の引き上げは、好景気ならともかく、不況が続く日本では、いまやるような政策ではない。

政府は、ブラック企業の規制も始めているが、規制を多くすれば、民間経済は活力を失う。本当にブラックなのは政府のほうではないのか?

作家、ジャーナリスト

1952年横浜生まれ。1976年光文社入社。2002年『光文社 ペーパーバックス』を創刊し編集長。2010年からフリーランス。作家、ジャーナリストとして、主に国際政治・経済で、取材・執筆活動をしながら、出版プロデュースも手掛ける。主な著書は『出版大崩壊』『資産フライト』(ともに文春新書)『中国の夢は100年たっても実現しない』(PHP)『日本が2度勝っていた大東亜・太平洋戦争』(ヒカルランド)『日本人はなぜ世界での存在感を失っているのか』(ソフトバンク新書)『地方創生の罠』(青春新書)『永久属国論』(さくら舎)『コロナ敗戦後の世界』(MdN新書)。最新刊は『地球温暖化敗戦』(ベストブック )。

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