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「よりよく忘れる」ということ

山口浩駒澤大学グローバル・メディア・スタディーズ学部教授

東日本大震災から2年が経過した。

この間、さまざまなものが変わり、さまざまなものが変わらなかった。被災地のようすもさまざまで、まだら模様といったところだろうか。復興に向けた歩みをすすめるところもあり、復興どころかがれき処理さえまだまだといったところもある。

「復興に遅れ」半数…被災地42首長アンケート」(読売新聞2013年3月6日)

東日本大震災から2年を前に、読売新聞が岩手、宮城、福島県の津波被災地や東京電力福島第一原発周辺の42市町村長にアンケートを行ったところ、復旧・復興の進展状況について、「予定より遅れている」「全く進んでいない」と答えたのは約半数の22人だった。

しかし、被災地以外の場所では、状況は概ね似通っているのではないだろうか。すなわち、直接大きな被害を受けなかった人々にとって、2年前の大地震は、少なくとも意識の上で、次第に「過去のできごと」になりつつある、ということだ。

もちろん、そうでない人たちもいる。今でも心を痛めている人はたくさんいるし、被災地支援のための活動に活発に取り組む人たちもいる。来る「次の大地震」への備えを進める人も少なくない。

しかし、全体としてみれば、震災直後に日本を覆いつくしたかにみえた「非常時」という認識はもうない。復興が遅々として進まないと報じるニュースすら震災前とさして変わりばえのしない「日常」の風景の一部となり、復興「特需」の分け前に預かる一部業界をのぞいて、被災地への関心自体、薄れつつあるというのが実状ではないか。

被災地で活動のNPO 支援の義援金が激減

(NHKニュース2013年1月3日)(リンク切れ)

被災地で活動するNPOなどを支援するため中央共同募金会が全国から受け付けている去年9月までの半年間の義援金が、おととしの同じ時期に比べて5分の1に減少していることが分かりました。

こうした関心の薄れは阪神大震災の後にも起きたことであり、今回が特別というわけではない。総務省統計局のウェブサイトには、内閣府の家計調査に基づく勤労者世帯の寄付金の支出額平均が、大災害の後どう推移したかを示すグラフがある(リンク)。これをみると、阪神・淡路大震災にせよ東日本大震災にせよ、発生当月には大きな寄付が集まるものの、いずれもその後約3ヶ月で通常レベルの月あたり200~300円付近に落ち着くことがわかる。「人の噂も七十五日」とはよく言ったものだ。

薄情な、と思われる向きもあろうが、このような関心の薄れは被災者に対してだけのものではない。内閣府が2、3年おきに行っている「防災に関する世論調査」では、国民が防災のために自分でどのような備えをしているかが調査されている。平成21年に行われた「防災に関する特別世論調査」では、その回答の推移がわかるので、グラフにしてみた。

防災意識の変化
防災意識の変化

一見、防災意識が上がったり下がったりしているだけのようにみえるかもしれないが、ここに日本で起きた大きな地震、たとえば10名以上の死者を出した地震が起きたタイミングを赤い矢印で入れてみる。

たとえば、グラフの中で最も数値の大きい、「携帯ラジオ、懐中電灯、医薬品などを準備している」人の割合をみてみると、平成3年調査あたりまではおおむね4割前後だったものが平成7年調査では一気に6割まではね上がり、その後平成14年調査あたりまでゆるやかに下落した後、平成17年、19年調査では連続して上がっている。

9月に行われた平成7年調査の前に赤い矢印がある(1)。想像がつくだろうが、同年1月に発生した、いわゆる阪神大震災(兵庫県南部地震。死者・行方不明者6,437人)だ。また、平成3年調査から7年調査までの間には、平成5年7月の北海道南西沖地震(死者・行方不明者230人)もあった。

その次の矢印(2)は平成14年調査と17年調査の間に発生した平成16年10月の新潟県中越地震(死者68人)であり、17年調査と19年調査の間の矢印(3)は平成19年7月の新潟県中越沖地震(死者15人)を示す。最後の矢印(4)は平成20年6月の岩手・宮城内陸地震(死者・行方不明者23人)だ。平成19年調査で数値が大きく上がっているのは、調査時点が10月で、新潟県中越沖地震から3か月しかたっていないことが影響しているだろう。そして何より、数値が下がり続けた平成9年調査から14年調査までの期間には、死者・行方不明者が10人を超えるような大規模な地震被害は発生していないのだ。

また、「防災訓練に積極的に参加している」「自分の家の耐震性を高くしている」「ブロック塀を点検し、倒壊を防止している」などと回答した人の割合は、こうした数々の大災害の発生にもかかわらず、ほとんど変わっていない。

もちろん他の要因もあるだろうが、ここからみえる部分だけをおおざっぱにまとめれば、人は大きな地震被害の発生によって防災意識を高めるが、時間の経過とともにその意識が薄れていく、ということになるだろう。また、何らかの意味での「コスト」を要する「備え」とそうでないものとでは、対応が異なることもわかる。当たり前の話だが、「めんどくさい」対策、「コストがかかる」対策は、なかなか進まない。

もちろん誰しも、いったん大災害が起きれば、こうした備えの有無が大きな差を生み、ときには生死を分ける境目となることは、「理屈」として理解しているだろう。しかし人にはそれぞれ事情があり、優先順位もさまざまだ。発生直後には何よりも恐ろしいと感じた災害も、時がたてば他の問題と比較され、順位づけられる。それが合理的であるとは限らないが、何らかの基準によって相対化されれば、第一の関心事でなくなることもありうる。

自分のことでなければなおさら優先度は低いだろう。他人の心配をする前に自分の心配をしなければ、と思う人の方が多いのはむしろ当然だし、今回の被災地以外にも被災地はあり、困っている人はいる。東日本大震災の被災地支援が引き続き重要なテーマであるにしても、自身にとって何よりも優先すべき課題であり続けるという人が多数派でないことは、むしろ自然なことかもしれない。

つまり、防災意識にせよ被災地支援にせよ、「意識の薄れ」とは、その存在そのものを忘れることではなく、全体の中での優先順位が下がることなのだ。繰り返すがそれが合理的とは限らない。しかし、個人の思い出としてはともかく、社会全体としては、そうした変化が起きること自体はある程度避けられないことと考えるべきだろう。

「人は忘れる」と指摘すると、「忘れてはならない」という規範的な主張で反論する人がよくいる。しかし、気持ちはわかるが、これは少なくともあまり効果的な議論ではない。大災害のたびに私たちは「忘れてはならない」といい、そしてそのたびに忘れてきた。大災害を「今度こそ忘れまい」という決意自体は悪くないしそう唱えることの価値も認めるが、それに依拠することはできない。私たちは、「人は忘れる」を前提として、ものごとを考えなければならないのだ。

「忘れてはならない」というメッセージがなぜ効果的でないかは、「忘れる」プロセスがどのように生じるかをみればわかる。たとえばこのような記事があった(両記事ともリンク切れ)。

「東日本大震災:復興計画が再起の壁:修復しても立ち退き?」

(毎日新聞2012年2月26日)

津波に襲われた宮城県沿岸部で「震災前の生活を取り戻そう」と店舗や住宅を修復した被災者が、その後に示された行政の復興計画により、立ち退きを求められかねない状況に陥っている。「せめて改修前に計画を示してくれたら」。現場では行政への不満や批判の声が聞かれる。

「再建した住宅 立ち退き迫られるケースも」(NHKニュース2013年3月2日)

東日本大震災の被災地では、ようやく防災施設の整備計画が定まり始めていますが、宮城県内で計画されている河川沿いの堤防の予定地に、340棟ほどの住宅や事業所があり、再建したばかりなのに立ち退きを迫られるケースが多数あることが分かりました。

震災から2年になって始まった防災施設の整備が、兆しが見えてきた復興を脅かす事態となっています。

上の毎日の記事では「復興計画が再起の壁」とあり、下のNHKのニュースは「防災設備の整備が復興を脅かす」としている。「復興」が脅かす側と脅かされる側双方で使われていること自体も興味深いが、いっていることはどちらも同じだ。すなわち、「行政の無配慮が善良な住民を苦しめている」という趣旨だ。庶民の味方を自認する報道の方々が大好きな構図だが、短絡するのは少し早い。

細かい事情はわかりかねるが、震災後の復興の前提として、防災対応を強化しなければならないこと、その計画を立てるために一定の期間を要することはあらかじめわかっていたはずだ。もちろん被災者への対応や移転補償が十分かどうか、決定のプロセスやスピードはどうだったかなど議論の余地はあるだろうが、少なくとも行政は、人々の再起や街の復興をじゃましたいと考えているわけではないだろうから、行政が一方的に悪いかのような表現には疑問を抱かざるを得ない。

もちろん、立ち退きを迫られている人たちにも言い分はあろう。地震や津波のリスクももちろん承知の上で、他の要因、たとえば当面の生活を守る必要性や、破壊された自分のふるさとを一刻も早く取り戻したいという気持ちなどを優先させただけではないか。それは、もし自分であったならと考えれば、理解できるという人も多いだろう。上記の記事は2つともこの立場をとったわけだが、だからといって、時間と手間とコストをかけて作った行政の計画を反故にせよとまでは主張していない。

これこそ、今まさに起きつつある「忘れる」の現場だ。いつか起きるかもしれない大災害への備えと、日々の暮らしが天秤にかけられ、そして後者をとった人々に共感が示された。「忘れる」をもたらすのは、人々の身勝手でも政府の怠慢でもなく、このような、それぞれに汲むべきところのある意見や利害の衝突だ。「正義の敵は悪ではなくまた別の正義」などとよくいうが、それと少し似ている。

上記のニュースの例で、衝突を回避する方法はないではない。行政がいったん再建された店舗や住宅の所有者に対して充分な補償をし、移転先での生活再建にも万全の対策をとることで、問題の多くの部分は解決できる。報道の方々はおそらくそう主張したいのだろう。しかしここには、そのコストを負担するのは最終的には国民だという視点が抜けている。

1つの事例に対応すれば、他の事例でも同じ基準を適用しなければならない。行政が計画をまとめるまで自らの生活再建を犠牲にして待った人々とのバランスはどうなるのか。東日本大震災での被害の規模からいって、また今後発生するであろう大災害を考えればなおさら、単に政府が金を出せばいい、ですむ話ではない。いわゆる「ディープ・ポケット」がディープなのは、それが私たち全員の財布に直結しているからだ。必要なコストを負担するのはいいとして、それが野放図に拡大してもいいと思う人はいないだろう。

個別事例について判断を下すことが目的ではないから、一般論に戻る。「忘れる」ことがいいとか悪いとかいっているわけではない。「忘れる」こと自体は私たち人間が生来持っている性質なのであって、それ自体に善悪はない。「忘れる」ことで、人間は貴重な教訓を生かせないこともあれば、よりバランスのとれた考えに至ることもある。考えるべきなのは「忘れる」を前提とすること、言い換えれば、「忘れる」という人間の性質をいかに生かすかということと、忘れると実害のあることについては制度化するなど忘れてもいいしくみを作ることだ。

「忘れる」が他の問題とのバランスを考えるということなのであれば、何をどの程度忘れていいかについて、シンプルな「正解」はない。私たちはこれからも、「よりよい忘れ方」を模索していかなければならないのだろう。「正当にこわがることはなかなかむつかしい」といったのは随筆家としても知られた物理学者の寺田寅彦だが、「正当にこわがる」と「よりよく忘れる」はきわめて近いものなのではないかと思う。

駒澤大学グローバル・メディア・スタディーズ学部教授

専門は経営学。研究テーマは「お金・法・情報の技術の新たな融合」。趣味は「おもしろがる」。

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