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軍歌の「効用」

山口浩駒澤大学グローバル・メディア・スタディーズ学部教授

小ネタ。マイブームというのは世間のはやりとまったく関係なく訪れるものだが、最近なぜかマイブームになっているのが日本の軍歌だ。こういうとすごく警戒感を持たれそうだが、別にそっち方面の方々にありがちな憂国の士を気取るとかいう話ではなくて、作業しながら横目でYouTubeの動画を見ていたら関連動画のつながりでそこらへんにたどりついてしまったというだけのことだ。昔溜め込んだmp3ファイルをiPodに放り込んで、主に移動中に聴いている。

別にそういう自分を正当化しようというわけではないが、たまには軍歌を聴くのも悪くないなあ、と思ったので、その「効用」についてひとくさり書いてみる。

軍歌の何がいいというと、まずはリズムだ。歩きながら音楽を聴く際、軍歌は最も適した類の音楽といえるのではないか。要は曲のリズムと歩くペースを同期させると非常に歩きやすいというか、元気に歩けるので、ウォーキングにぴったりであるわけだ。数年前にも行進曲マイブーム(まああれも概ね近い領域ではある)があったし、水戸黄門のオープニングテーマ曲『あゝ人生に涙あり』もけっこう好きだったりするから、まあ歩くぐらいの速さの音楽が好きということなのかもしれない。

Wikipediaによると、軍歌にも部隊歌、兵隊ソング、軍楽、愛国歌・時局歌、国民歌謡といろいろな種類があるらしいが、ここではあまり気にせず、総称して軍歌としておく。別にどのジャンルがいいとかはあまりないが、上記の通り歩くぐらいのテンポのものがよい。あまり暗い歌は好きではないので長調と短調なら長調のやつがよろしい。今のところ特にお気に入りなのは『ラバウル海軍航空隊』とか『燃ゆる大空』みたいな空系のもの。

楽曲としてみると、軍歌、特に昭和期の軍歌には、戦後の歌とのつながりを強く感じる部分がある。70年代ぐらいまでのアニメや特撮ものなどの主題歌には、軍歌とよく似た作りの曲がよくあるように思うし、60年代ぐらいまでの歌謡曲にも、どことなく軍歌っぽいものは珍しくない。上記の軍歌の定義からいえばそれも当然で、それらは国民に広く受け入れられる歌としての特徴を備えていたということだろう。

一方、歌詞はというと、当然ながら、あの時代の空気をよく写しとっている。戦争末期の悲壮なものは本当に悲壮で、聴いててドン引きしたり耐えられなくなったりすることがあるが、上記の『ラバウル海軍航空隊』みたいな明るい曲調のものでも、死を前提にしたものが当然ながら多いわけで、それはそれでかえってつらかったりする部分もある。

要は、これが自分の身にふりかかったらどう思うか、という話だ。たとえば『出征兵士を送る歌』というのがある。比較的有名な歌だと思うが、歌詞にはこんなくだりがある。

讃えて送る 一億の

歓呼は高く 天を衝

いざ征け つわもの 日本男児

勇ましいことこの上ないが、「万歳」とか旗振られて自分が戦場に送り出される身だったら、あるいは自分が大切に思う人を送り出す身だとしたら、この歌をどう聴くだろうかとか想像してみるわけだ。自分はとても「つわもの」なんて呼ばれる柄じゃないし、こんな歌を歌われたら「すいませえええん!」と叫んで逃げ出したくなるにちがいない。自分が大切に思う人を「死んでこい」と送り出すのも、考えるだけで吐きそうになる。

それから、さらに有名なところでいえば、『同期の桜』という歌がある。特攻隊員の間で流行したという話だが(真偽の程は知らないがさもありなんではある)、これを歌いながら敵艦に突っ込んでいく自分の姿を想像してみたりするわけだ(上記の『ラバウル海軍航空隊』リンク先動画の最後のあたりは敵艦に突っ込んでいく特攻機の映像だ。米軍が撮ったものだと思うが、あの中に自分が乗っているところを想像してみるとよい)。どう考えてもこわいだろうこれは。無理無理絶対無理。

咲いた花なら 散るのは覚悟

みごと散りましょ 国のため

YouTubeにこの手の動画をアップしたり、それにコメントしたりしてる「その筋」の方々は、そういうのを絶賛されている場合が多いようだが、ほんとに自分がその身になったら、と考えているんだろうか。私は正直、送るのも送られるのも真平御免だ。どなたかが「他国が日本に攻めてきたら、9条教の信者を前線に送り出す」みたいなことをどこかで書いて話題になったらしいが、むしろ逆だろう。そう主張する方こそ、自ら率先して最前線に飛び出していくのがスジというものではないか(実際にはそういう方は自衛隊にとってははた迷惑かもしれないが)。というか私は臆病者なのでどうかそちらで何とかしてくれと切にお願いしたい。

もちろん、今でも、自衛隊の方々は任務として戦地に赴いてPKOに従事したり、あるいは日々の防衛の最前線に立たれているわけで、そういう方々の勇気や使命感には敬意をもっているが、軍歌、特に戦争末期に多く歌われたような、死を称賛するような軍歌に込められた考え方に対しては、とても賛同できそうにない。ましてやそれを口先だけで煽るような言論には断固として異を唱える。

もちろん、こういう歌を歌っていたであろう旧日本軍の軍人に殺されたりした人たちにとっては、軍歌の存在自が敵意の対象だろう。戦争という事情があったにせよ、そうした側面があることは覚えておきたいし、実際、聴きながら、ひりひりとしたものを感じてはいる。おそらく、戦場で実際に殺し合いに従事した人たちの中には、もっと苦しい思いをした人がたくさんいたはずだ。

そういう意味で、軍歌を聴くことは、私にとって、「戦争はやっちゃいかん」を改めて認識するきっかけになっている。殺された側、殺した側の痛みの一端にでも近づこうとすることには、それなりに意味があるように思う。

もう1つ、軍歌を聴くことの「効用」は、当時の考え方に触れることができる点だ。たとえば上記の『燃ゆる大空』は1940年公開の映画の主題歌だ(ちなみに作曲は山田耕筰)。この映画は、陸軍の協力の下、日中戦争での帝国陸軍航空隊の活躍を実機の映像をふんだんに使って作られたものだが(全編YouTubeに上がっている)、その主題歌であるこの歌にはこんなくだりがある。

文化を進むる 意気高らかに

もう1つ、『加藤隼戦闘隊』という歌を挙げる。飛行第64戦隊歌でもあるが、その後同名の映画(1944年の日本映画最大のヒット作らしい)が作られた際にその中で使われ流行歌となった。この歌にはこんな歌詞がある。

輝く伝統 受けつぎて

新たに興す 大アジア

いずれも、当時の日本の行動の正当性を主張するものだ。他にもこうした歌詞は多くの軍歌にみられる。これらの歌が戦時プロパガンダの一種であることからすれば当然の内容ではあるが、これらが人気を博したということは、当時の国民の多くが、こうした考え方に対して違和感を抱かなかったことを物語っている。

検閲その他で国民に情報が与えられなかったのだから当然だ、という意見もあろうが、まさにそこがポイントだ。さまざまな立場からのさまざまな意見があることを知ること、それについて自由に意見を交わし考える機会が与えられることがどんなに重要なことか。この点に関して、政府だけを責めるのはむろん酷だ。当時のマスメディア、特に新聞の責任は、「検閲のためやむなく」で正当化できる域をはるかに超えていたと思う。当時どんな記事が書かれていたかに興味がある方は、たとえば安田・石橋『朝日新聞の戦争責任』などをみるとよい(もちろん朝日新聞だけ責めるのはバランスを欠く。当時のメディアは全般に似た傾向があったし、その前提として検閲があった)。

とはいえ、大衆が権力やプロパガンダに流されるただの客体であったとも思わない。当時の権力者も世論の動きは注視していたし、メディアは当時から大衆の願望の鏡でもあったからだ。戦争によってチャンスを得た人々、経済的に潤った人々も少なからずいただろう。こうした世論が、大衆自身の声でもあったという要素はあったはずだ。仮に当時、広範な言論規制が行われていなかったとしても、日本の立場を正当化し、戦争を肯定する意見は数多く出たのではないか。

もちろん、当時の国際情勢や常識は、今とはちがうから、当時の人々の考え方を今の視点で単純に批判するだけではあまり有意義ではないとも思う。彼らには、彼らが重要と考える事情があり、彼らが正当と考える理由があったのだ。その一端が、軍歌にはあらわれている。その意味で、軍歌を聴くことには、当時これを愛唱した人々やその社会についていろいろ想像を巡らすことができるという効用もある。

そしてそれは、今の社会を客観視する視点をも与えてくれる。当時の大衆は、いろいろ制約はあったものの、当時なりにいろいろ考えていただろうし、まったく情報が入らなかったわけでもなかっただろう。決してバカではなかった当時の人々が、結果としてあれほどの愚行――愚行ということばがまずければ大失敗といいかえてもいいが――に走ってしまったことを思い出すことは、今の私たちも、やりようによっては同じような愚行なり大失敗なりに走ってしまうおそれがあることを改めて意識するきっかけになる。失敗の原因を理解するためには当事者の立場に立ってみろ、というのは、失敗学の基本だ。

というわけで、誰にでもお勧めとはいわないが、興味があるなら、聴いてみるといいと思うよ、軍歌。

駒澤大学グローバル・メディア・スタディーズ学部教授

専門は経営学。研究テーマは「お金・法・情報の技術の新たな融合」。趣味は「おもしろがる」。

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