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ブラック・スター・ライダーズ来日直前インタビュー/スコット・ゴーハム、シン・リジィ秘話を語る

山崎智之音楽ライター
BLACK STAR RIDERS (スコット・ゴーハムは右から2人目)

シン・リジィはアイルランドから世界規模の成功を収めた、初のロック・バンドだ。1970年にデビュー、「ヤツらは町へ(ザ・ボーイズ・アー・バック・イン・タウン)」や「脱獄」などのヒット曲で知られる彼らは、アイルランドの歴史の教科書にも載っている国民的バンドである。

2014年ソチオリンピックのフィギュアスケート男子シングル金メダリスト羽生結弦選手がショートプログラム曲として使用した「パリの散歩道」を書いたゲイリー・ムーアも、シン・リジィに在籍していたことで知られている。

バンドのカリスマ的リーダー、フィル・ライノットは1986年1月4日に亡くなったが、残されたシン・リジィのメンバーが彼の遺志を継ぐべく、1994年に再集結。メンバーを変えながら活動を続けてきた。

2013年、アルバム『オール・へル・ブレイクス・ルース』を発表するにあたって、彼らはブラック・スター・ライダーズと改名。2014年5月には来日公演を行うことになった。

シン・リジィの名曲の数々も披露されるライヴを前にして、1974年からバンドの屋台骨を支えてきたギタリスト、スコット・ゴーハムがインタビューに応じてくれた。

●あなたにとって、久しぶりの来日ですね!

前回日本でプレイしたのは1994年だった。シン・リジィの最初の再結成ツアーだよ。フィル・ライノット抜きでシン・リジィとしてステージに立つのは、それが初めてだった。当初は日本で数回のライヴをやって、それで終わりにするつもりだったんだ。

●1994年の日本でのシン・リジィ再結成は、どのようにして実現したのですか?

元々はギタリストのジョン・サイクスの提案だった。最初、俺は「あまり乗り気じゃない」って断ったんだ。フィルがいないし、誰が歌うんだよ?ってね。ジョンが「俺が歌うよ」と言い出したとき、半信半疑だったんだ。彼がシン・リジィにいた1年間、歌ったことなんて一度もなかったからね。でも彼は自分の歌うCDを何枚か送ってくれた。それで俺も納得して「(ドラマーの)ブライアン・ダウニーがやるんだったら俺もやるよ」と答えたんだ。彼も乗り気だったし、とにかく日本でシン・リジィの曲をプレイして、みんなで楽しもうということになった。

●日本のツアーを終えたら、それでおしまいのつもりだったのですか?

その通りだ。でも、それでは終わらなかったんだ。世界中のファンとプロモーターから電話とファックス、手紙が送られてきた。「地球の反対側にある日本でプレイしたのに、イギリスでやらないのはおかしい!」とか「アメリカでもツアーしてくれ!」とかね。リジィのことをまだ愛している人が世界中にこれだけいることに驚いたし、嬉しかったよ。そうして1回、また1回と、ライヴを行っていったんだ。イギリスやヨーロッパ、アメリカ…ただ皮肉なことに、シン・リジィとしてはその後、日本でプレイすることがなかった。でも新バンドのブラック・スター・ライダーズで久々に戻ってくることが出来て嬉しいよ。

●ブラック・スター・ライダーズはシン・リジィとまったく別のバンドと考えますか?それとも同じバンドが名前を変えただけでしょうか?

別のバンドだと考えているよ。シン・リジィの曲もプレイするけど、リッキー・ウォリックやマルコ・メンドーサ、デイモン・ジョンソン、ジミー・デグラッソというラインアップで、新しい生命を吹き込むんだ。彼らとはシン・リジィ名義でも活動してきたし、ブラック・スター・ライダーズとしてはまだ1枚しかアルバムを出していないから、シン・リジィの曲もたくさんプレイするよ。

シン・リジィ時代よりも良いギターを弾いているよ

●フィル・ライノットにとって最後の来日となった1983年5月のシン・リジィ来日公演について、どんなことを覚えていますか?

残念ながら、最後のツアーは不本意なものだったんだ。みんな疲れていたし、フィルも俺もドラッグで酷い状態だった。たしか東京だったと思う。「それでも君を」をプレイしているとき、フィルが俺の方を振り向いたんだ。ただでも汗かきの彼だけど、汗が顔を伝って、まるで涙を流しているようだった。そのとき実感したんだ。シン・リジィが本当に終わるんだってね。

●当時子供だった私は、まだロックのライヴを見るようになって日が浅かったせいもあるのか、素晴らしいステージだと思いました。

その頃の君に、ベストのシン・リジィを見せたかったよ!思えば、1994年に再結成ライヴを日本で行ったのは、それが頭にあったんだ。それまで日本のツアーは常に楽しいものだったし、ファンから暖かく受け入れられていたから、そんな形で終わるのが残念でならなかった。シン・リジィのベストなライヴをもう一度見せたいと思ったんだよ。

●そして2014年5月、ブラック・スター・ライダーズとして日本のステージでシン・リジィの曲をプレイすることになりましたが、どんなライヴを期待できるでしょうか?

最高のミュージシャン達が最高の音楽をプレイするライヴになるよ。俺自身、体調も良いし、昔より良いギター・プレイをしていると思う。1974年にシン・リジィに加入してからの10年は、無我夢中だった。自分をコントロールすることなんて考えなかったんだ。だからバンドの後半では体調を悪くしてしまった。でも今では悪いものに手を出すこともないし、若くないぶん健康に気を遣っている。それはステージ上の演奏にも影響していると思うね。

リッキー・ウォリックだったらシン・リジィを正しい方向に進められる

フィル・ライノットが亡くなってしまった今、シン・リジィの曲をプレイすることには賛否がありますが、あなたはどう考えていますか?

フィルは最高のフロントマンだったし、誰も彼の代わりにはなれない。でも、シン・リジィの名曲をプレイして、バンドと観客が一緒に楽しむことは素晴らしい経験だし、彼に対する敬意を表すことにもなる。もし俺たちがシン・リジィの曲をプレイしなかったら、名曲の数々は永遠に失われてしまう可能性だってある。俺たちが演奏することによって、それらの曲を生かし続けるんだ。

●リッキー・ウォリックはどのようにバンドに溶け込んでいますか?

彼とはすぐに打ち解けて、友達になったよ。興味深かったのは、彼がフィルと同じような曲の書き方をすることだった。二人ともストーリーテラーだったんだ。単に詩的表現や韻を踏ませるためだめに歌詞を書くことはなく、物語を紡ぐタイプなんだ。アイリッシュ特有の歌い回しもフィルと共通しているし、彼だったらシン・リジィの財産を、正しい方向に進めてくれると確信した。リッキーがシン・リジィに加入すると発表したとき、世界中からクエスチョン・マークが沸き上がったのを覚えている。でも彼は世界のステージに立つことで、そんな疑いをひとつひとつ潰していったんだ。日本のリジィ・ファンでも「リッキー・ウォリックが歌うの?」と首を傾げている人はいるだろう。でも実際にライヴを見れば、ほとんどのお客さんが笑顔を浮かべるだろう。

●リッキーが古巣のジ・オールマイティを再結成させるという噂がありますが、ブラック・スター・ライダーズのライヴで彼らの曲をプレイする可能性はありますか?

実はまだジ・オールマイティは聴いたことがないんだ。今度聴かせてもらうよ。ただ、ブラック・スター・ライダーズのライヴでジ・オールマイティの曲をプレイすることはないだろうな。そうしたらデイモンは彼の古巣であるブラザー・ケインの曲をプレイしたくなるし、俺も21ガンズの曲を…となってしまう。それは避けたいんだ。音楽性をごちゃごちゃにしないためにも、ブラック・スター・ライダーズとシン・リジィの曲に専念するのがベストだと思う。

●ブラック・スター・ライダーズで、往年のシン・リジィを知るのはあなた1人のみですが、当時の楽曲をプレイするにあたって、他のメンバーにはどのように指示するのですか?

指示?指示なんかしないよ。リッキーとデイモンは俺よりリジィの音楽に詳しいぐらいだ。マルコももう20年近くリジィの曲をプレイしてきたし、今更言うことはない。彼ら自身がリジィのファンなんだ。「悪名」をやろうよ!とか「ウィスキー・イン・ザ・ジャー」をやろうよ!とか、ファンの視点から提案してくれる。それでもちろん演奏はプロフェッショナルだから、両者の長所を兼ね備えているんだ。こないだデイモンに「『ダウンタウン・サンダウン』のソロはこう弾けばいいのかな?」と訊かれたんだ。俺自身何十年も弾いてない曲をだぜ!しかも彼は、完璧に弾いてみせた。逆に俺が「どうやって弾くんだっけ?」と訊いたほどだった(苦笑)。

●空白期間を起きながらも、あなたは40年近くシン・リジィの名曲をプレイしてきましたが、それらの曲が輝きと刺激を失わないのは何故でしょうか?

結局、俺はシン・リジィの音楽が好きなんだよ。「脱獄」や「エメラルド」、「ヤツらは町へ」、「ダンシング・イン・ザ・ムーンライト」…どれもステージで演奏して飽きることがない。ライヴ会場を訪れるお客さんたちも、それらの曲を愛しているし、誰も「チェッ、またいつもの曲かよ」とは思わない。グレイテスト・ヒッツはいつ聴いても、何度プレイしても、新鮮なままなんだ。

ゲイリー・ムーアには良い形でさよならを言えた

●それでは今後の予定を教えて下さい。

ブラック・スター・ライダーズのセカンド・アルバムをこれから作るところなんだ。何人かプロデューサーの候補がいたけど、ジョー・エリオットに頼むことにした。ジョーはシン・リジィの大ファンだし、ブラック・スター・ライダーズの『オール・へル・ブレイクス・ルース』のファンでもある。バンド全員の友人でもあるし、彼に頼まない理由はなかった。ダブリンでミーティングを持ったけど、ニュー・アルバムに関する明確なヴィジョンがあった。そのヴィジョンに共鳴して、一緒にやることにしたんだ。新曲のアイディアを少しずつ書きためていて、9月にスタジオに入る。まだ完成した曲はないけど、ジャパン・ツアーまでに出来上がったら、プレイするかも知れないよ(笑)。

●シン・リジィ関連のリリースはありますか?

2015年にシン・リジィのキャリアを網羅したボックス・セットが出るんだ。みんなが愛している名曲からレア・トラック、これまで世に出たことがないパートを加えたリミックスなども収録される。何曲か収録されるデモは俺自身、もう30年以上聴いていなかったものだ。初期ヴァージョンだからあまり世界中のファンに聴かせたくなかったんだけど、「歴史的に重要ですから!」と説得されて、出すことにしたんだよ。それに合わせて、2015年に何回かシン・リジィとしてのライヴを行うかもね。そのときにはブライアン・ダウニーとダーレン・ウォートンにプレイしてもらおうと考えている。ブライアンは今、ダブリンにいることは判っているんだけど、昔からプライバシーを大事にする人だったし、普段何をしているか誰も知らないんだ。自宅の電話番号を変えていなければいいんだけどね!

●ジョン・サイクスとは連絡をとっていますか?

いや、もうジョンとはずっと話していない。最後に話したのは、彼がシン・リジィを辞めたときだよ(2009年)。彼がバンドを去った表向きの理由は、“自分の音楽に専念したい”というものだった。でも、彼が去ってからシン・リジィはブラック・スター・ライダーズに名前を変えて、アルバムを出したけど、彼は何もやっていないよね?…まあ、これ以上は言わないでおくよ。彼は才能のあるギタリストだし、キャリアを建て直して欲しいね。

●2011年2月に亡くなったゲイリー・ムーアと最後に会ったのはいつですか?

ダブリンでのフィルへのトリビュート・ライヴのとき(2005年8月)だった。シン・リジィの音楽を一緒にプレイして、いろんな話をして、楽しい週末だったよ。その時はまさか彼が亡くなるとは思っていなかったけど、結果として良い形でさよならを言えたと思う。

●ゲイリーが1979年7月、シン・リジィの北米ツアー中に突然バンドを脱退したことで、フィルと一時犬猿の仲になったことは有名ですが、あなたとゲイリーの関係はどうだったのでしょうか?

ゲイリーがツアーを途中で放棄して失踪したときは、絶対に許せないと思った。彼のことはプロフェッショナルで、友人だと考えていたけど、そのどちらでもないと考えたね。それから数年後、フィルはゲイリーと仲直りして、「アウト・イン・ザ・フィールズ」(1985)で共演したけど、俺はゲイリーと顔を合わす機会がなかったし、ずっと疎遠だった。彼ら二人は十代の頃からの付き合いだからね。フィルはゲイリーの性格をよく知っていたし、そういう突拍子もないことをすることを判っていたかも知れないけど、俺にとってはショックだったよ。その後もわだかまりがあったけど、2000年頃、何かの授賞式で一緒になったんだ。それで一杯飲んで、過去のことは水に流したんだ。ゲイリーは自分がやったことが間違いだったと認めていたし、謝ってくれたよ。

羽生結弦選手がゲイリー・ムーアの「パリの散歩道」を使ってくれて嬉しい

●2014年ソチ冬季五輪フィギュアスケートで羽生結弦選手がゲイリーの「パリの散歩道」を使ったことはご存じですか?

うん、テレビで見たよ。凄く嬉しかった。羽生選手も素晴らしかった。彼のパフォーマンスは曲のムードと完璧に合っていたよ。オリンピックを見ている世界中の人々が「パリの散歩道」を知ったのと逆に、音楽ファンがフィギュアスケートに興味を抱くきっかけにもなったんじゃないかな?フィギュアスケートやスノーボードの選手は生命の危険を冒して競技をやっているし、本当に凄いよ。その最高峰の選手が「パリの散歩道」を使ったというのは、俺もゲイリーを誇りに思う。

●「パリの散歩道」の1979年のミュージック・ビデオでは、あなたも付けヒゲをしてアコーデオンを弾いていますが、そのときのことは覚えていますか?

あまり覚えていないなあ…当時まだミュージック・ビデオは新しいものだったし、みんな変なことをやっていたよ。あるビデオで、俺が女の子を抱きかかえて、紙で出来たカーテンを後ろから破って登場するというシーンを撮影するとき、女の子を抱えたままひっくり返ったことがあった。みんなが笑いを堪えているし、気まずくてしょうがなかったよ。監督は無表情で「はい、もう1回」って言ってるし(苦笑)。あれはもう忘れたい。「アリバイ」のビデオだったかな?

(注:おそらく「ウィズ・ラヴ」ビデオだが、該当シーンは収録されていない)

●「サラ」のビデオも面白かったですね。

そうだね。あのビデオにはフィルだけが出るはずで、俺は関係ないと安心していたんだ。そうしたらフィルに「スコット、お前も来いよ!」と言われた。フィルの娘のサラが徐々に成長していくというビデオで、いろんな年齢の子役モデルが出演して、最後に大人になったサラの役で俺が登場するというものだったよ。1980年代になって、MTVのおかげでミュージック・ビデオは飛躍的に進化したけど、シン・リジィはその頃には解散していた。恩恵を被ることが出来なかったんだ。

●イギリスの人気TV番組『オールド・グレイ・ホイッスル・テスト』に1979年1月、ライヴ出演したときのことは覚えていますか?

もちろん!ゲイリーのアルバム『バック・オン・ザ・ストリーツ』のプロモーションだったんだ。ゲイリー、フィル、コージー・パウエル、ドン・エイリーと俺で、2曲をプレイした。この番組では、基本的にライヴ一発撮りを録画して放映するんだけど、俺たちはどうしてもファースト・テイクを気に入らなくてね。司会者のボブ・ハリスを取り囲んで、「もう1回撮影しろ!」って脅迫したんだ(笑)。ボブは最初は「一発録りがルールだ!」と主張したけど、結局折れて、もう1回やらせてくれた。【オールド・グレイ・ホイッスル・テスト】で2テイク撮ったのは、俺たちぐらいなものだよ!

●当時レインボーのメンバーだったコージー・パウエル、ドン・エイリーとの共演は珍しいですね。

コージーとはこの時、始めて会ったんだ。スピード狂のカーマニアだと聞いていたから、とんでもない乱暴者なんじゃないかと思ってびびっていた。実際に会ってみると、すごく親しみやすい人だったよ。でも、強力な個性を持った人間でありドラマーだと思った。後に彼はゲイリーのバンドに入ったけど、すぐ辞めたと聞いて、すごく納得がいったよ。2人ともお互いに譲らないタイプだからね。ドン・エイリーはゲイリーがシン・リジィに入る前にやっていた、コロシアムIIのメンバーだったんだ。それでシン・リジィの『ブラック・ローズ』のリハーサルをしている時にもスタジオにしょっちゅう顔を出していた。「サラ」でキーボードを弾く可能性もあったんだ。結局実現しなかったけどね。彼は今、ディープ・パープルでやっていて、再結成リジィと一緒にツアーしたこともある。世界最高のロック・キーボード奏者で、最高の人物だよ。

●シン・リジィの『ブラック・ローズ』とゲイリーの『バック・オン・ザ・ストリーツ』、そしてフィルのソロ・アルバム『ソーホー街にて』はほぼ同時進行で作られていたといいますが、そのせいでギャラの計算がいい加減で、スノーウィ・ホワイトは『ソーホー街にて』でギターを弾いたギャラをもらっていないと笑っていましたが…。

そういえば俺ももらっていない!でもソロ・アルバムのセッションはバハマで10日間のバカンスを兼ねて行ったんだ。現地での滞在費や食費はすべてフィル持ちだった。しかもスタジオなんて3回ぐらいしか行かなかった(笑)。だから文句は言えないよ。

フィル・ライノットもシン・リジィ復活を望んでいた

●リッキー・ウォリックはジ・オールマイティでハード・ロックだけでなく、パンクのバックグラウンドもありますが、あなた自身はパンクについてどう思いますか?

パンク・ロックとは1970年代から関わってきたよ。シン・リジィはオールドスクールのロック・バンドとしては珍しく、パンクと積極的に交流していたんだ。セックス・ピストルズのスティーヴ・ジョーンズやポール・クック、ブームタウン・ラッツのボブ・ゲルドフやジョニー・フィンガーズ、それからクリス・スペディングと俺たちとでグリーディー・バスターズというプロジェクトを組んで、3回ライヴをやったこともある。若くてエネルギーに溢れるミュージシャン達と一緒にやって、楽しかったし、学ぶことも多かったよ。同じ顔ばかり見て演奏していると、マンネリになって良くないんだ。グリーディー・バスターズのライヴでは、パンクスに唾を飛ばされたんだ。彼らにとっては、それがライヴを楽しんでいることの表現だったんだよ。俺は唾をかけられるなんて嫌だから、いつもフィルの後ろに隠れていたよ。ライヴが終わると、フィルのアフロ・ヘアは唾だらけだった。パンクで大事なのはアティテュードとエネルギーだったけど、良い曲もあったよ。「アナーキー・イン・ザ・UK」「ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン」は反社会性ばかりが話題になったけど、最高のロック・ソングだったと思う。

●もしフィルが亡くならなかったら、1986年にシン・リジィが再結成していたという説がありますが、それはあり得た話なのでしょうか?

フィルがなくなる3週間前、1985年のクリスマスのちょっと前に、ロンドンで彼と話したんだ。彼は「また一緒に曲を書こうよ」と言っていた。シン・リジィをもう一度やろうってね。ただ、その時点で、彼の体調は悪すぎた。もう遅かったんだ。俺たちが話したその日に彼がドラッグを止めたとしても、彼はやはり同じ日(1986年1月4日)に亡くなっていただろう。でも、もし奇跡が起こって、彼が健康を取り戻すことが出来たならば、きっとシン・リジィは再結成していただろうね。

Black Star Riders Japan Tour 2014

●2014年5月21日(水)22日(木)

TSUTAYA O-EAST

開場18:00 開演19:00

問い合わせ:M&Iカンパニー03-5453-8899

●5月20日(火)

なんばHatch

開場18:00 開演19:00

問い合わせ:なんばHatch06-4397-0572

音楽ライター

1970年、東京生まれの音楽ライター。ベルギー、オランダ、チェコスロバキア(当時)、イギリスで育つ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業後、一般企業勤務を経て、1994年に音楽ライターに。ミュージシャンを中心に1,200以上のインタビューを行い、雑誌や書籍、CDライナーノーツなどで執筆活動を行う。『ロックで学ぶ世界史』『ダークサイド・オブ・ロック』『激重轟音メタル・ディスク・ガイド』『ロック・ムービー・クロニクル』などを総監修・執筆。実用英検1級、TOEIC945点取得。

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