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「記者個人の表現の不自由」という新聞メディアの”病”

楊井人文弁護士

毎日新聞の同じ記者が、昨日と今日で全くトーンの違う記事を書いていることに気づいた。

1つ目は、「憲法改正論議と参院」と題した<記者の目>というコラム(毎日新聞10月14日付朝刊オピニオン面)。政治部の飼手勇介記者が「主に参院の取材を担当する私としては、議会制民主主義という国民に身近な制度から憲法を考える必要を感じる」と切り出し、2院制のあり方について憲法改正も視野に入れた論議の必要性を訴えている。

2つ目は、7月の参院選の1票の格差を「違憲状態」とした広島高裁岡山支部判決を受け、「迫られる抜本改革」と見出しがついた雑感記事(10月15日付朝刊2面)。これも飼手記者の署名記事だが、参議院の「合区」解消論が強まる自民党と司法判断のずれを指摘しつつ、「参院議員を『都道府県代表』と位置付ける憲法改正は時間がかかる」という消極的な一言で片付けられている。

コラムで強調した「憲法改正論議の必要性」 翌日の記事で消える

毎日新聞10月14日付朝刊「記者の目」(上)と同じ記者の15日付朝刊記事(下)
毎日新聞10月14日付朝刊「記者の目」(上)と同じ記者の15日付朝刊記事(下)

私の見立ては、こうだ。

まず、<記者の目>は、記者の視点で自由に書けるコラムだから、思い切ったことを書けた。「この際、憲法で参院は『地方代表』と位置づけることを検討してはどうか」とも提案しているが、憲法改正に極めて慎重な姿勢をとってきた毎日新聞にあって、かなり踏み込んだといえるだろう。

一方、1票の格差「違憲状態」判決が出て、飼手記者が担当した「雑感記事」も、本来はニュースの背景事情や今後の見通しなどを記者の視点で書くことができる。だが、<記者の目>と比較して読むと、抜本改革の必要性に言及した点では同じだが、憲法改正は「時間がかかる」とかなり消極的な印象を与える表現になっていた。おそらく、この雑感記事は「社論の空気」を忖度して書かれたのではないかと想像する。オピニオン面のコラムと異なり、ニュース報道の一部である雑感記事はデスクなどの手も入りやすいので、編集過程でニュアンスが変わっていった可能性も否定できない。記者としては、参議院を「地方代表」と位置付ける場合は「憲法改正」マターであることを示唆する文言を入れるだけで、精一杯だったのかもしれない。

以上はあくまで想像にすぎないのだが、傍証がある。同じ日に掲載された「参院選違憲状態 抜本改革を迫る警告だ」と題した社説だ。

こちらも、前日の判決を受けて参議院の抜本的改革が迫られていると指摘している。「参院選挙制度改革は格差の観点からだけでなく、衆参両院の役割の見直しとともに考える必要がある」とまで述べているのだが、なぜか憲法改正には一言も触れていない。「衆参両院の役割の見直し」は「憲法改正事項」になるはずだが、不自然なまでに言及を避けているのだ。<憲法改正のパンドラを箱を開けたくない>という改憲アレルギーをもつ人々への”配慮”なのかもしれないが、それが担当した論説委員の本意なのかどうかも疑わしい。「社論」ではなく「社論の空気」とあえて呼ぶのもそのためだ。

いずれにせよ、社説は、一介の記者が立ち入れる領域ではない。忙しい一線の取材記者が、わざわざ社説を事前に読んで記事を書くということも、普通はしないだろう。だとすると、同じ日の「社説」と「雑感記事」の書きぶりが共振しあっているのは、記者が「社論の空気」を読み、<記者の目>で開陳したような自らの問題意識を抑えて記事を書いた/書かされたからではないだろうか。

日々のニュース報道における「不自由さ」の正体

もとより、こうした現象は、個人より組織を優先し、協調性を重んじる日本の組織文化の表れであって、新聞メディア特有の問題ではないのかもしれない。

そもそも「社論の空気」と異なる視点で記者コラムを書ける自由があれば、それで十分ではないか、といわれるかもしれない。

私も、記者コラムのような記者個人が表現の自由を行使できる空間が存在することは、きちんと評価したい。が、その空間はまだまだ非常に狭いと思う。

新聞の主要なコンテンツは、やはり何といっても「ニュース報道」であり、記者の大半の仕事は「ニュース報道」をつくることにある。記者コラムを書く機会はごくたまにしか訪れず、それほど多くの人の目にとまるわけではない。大半の読者がそれよりも圧倒的に日々接しているのは、ニュース報道(雑感や解説を含む)である。

そこに「記者の視点」を盛り込めないかというと、そんなことはない。ストレートニュースは事実を極力淡々と伝えるべきものだが、その構成や見出し、情報の取捨選択、そして雑感や解説には記者の視点が自ずと入るし、入れるものだ。しかし、それが「記者が本当に伝えたい視点」ではなく、「社論の空気を読みながら記者の処世術として書く視点」になっていないだろうか。日々のニュース報道で本当に書くべきことを書けない、その「不自由さ」の正体について、注意喚起したいのである。

今回の例でいえば、せっかく<記者の目>で発露された真摯な視点ー2院制の抜本改革には憲法改正論議が避けられないことーが、ふだんの報道記事になると途端に消え失せてしまっていることが、非常にもったいないと感じたのである。ニュース報道の一部として位置づけられる雑感は、記者コラムと性格が異なり、抑制的な文体になることは当然である。しかし、もしその「不自由さ」がなければ、「参院議員を『都道府県代表』と位置付ける憲法改正は時間がかかる」とだけで済ませず、「参議院の選挙制度や権限を抜本的に改革するためには憲法改正が必要となる。今後そうした論議が高まることも予想される」というような表現になっていたのではないか。

そう書くことが憚られ、借り物の表現になってしまう「不自由さ」の正体とは何か。

そしてステレオタイプな見方が再生産される

新聞以外の媒体を使って生き生きとした記事を書いていた現役記者に、尋ねてみたことがある。なぜ新聞で同じことが書けないのですか、と。彼は少し困惑しながら、こう答えたことが印象に残っている。「新聞とはこういうふうに書くものだ、あるいは、そういうふうには書かないものだ、という長年の染み付いたものがあるんだと思うね」。

いかに、記者が本音を自由に書ける空間が少しばかり確保されているとしても、結局は、各々の感じ取っている「空気」とミスマッチしないように当たり障りのない表現で、真剣な思考や吟味を経ていないステレオタイプな見方を再生産する構造が、その「個々の記者の自由な着眼と表現」を吹き飛ばしてしまう。そのつまらなさに、元来「表現の自由」という最も重要な価値の担い手と自任しているはずの新聞メディアの”病”を見出してしまう、というと大げさであろうか。

(*) 一部、表現を加除修正し、小見出しを付け加えました。(10/16 1:15)

弁護士

慶應義塾大学総合政策学部卒業後、産経新聞記者を経て、2008年、弁護士登録。2012年より誤報検証サイトGoHooを運営(〜2019年)。2017年、ファクトチェック・イニシアティブ(FIJ)発起人、事務局長兼理事を約6年務めた。2018年、共著『ファクトチェックとは何か』出版(尾崎行雄記念財団ブックオブイヤー)。2023年、Yahoo!ニュース個人「10周年オーサースピリット賞」受賞。現在、ニュースレター「楊井人文のニュースの読み方」配信中。ベリーベスト法律事務所弁護士、日本公共利益研究所主任研究員。

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