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【スピードスケート】長島圭一郎ロングインタビュー ~引退劇の舞台裏~

矢内由美子サッカーとオリンピックを中心に取材するスポーツライター
「理想のフォーム」と絶賛された長島圭一郎の滑り(撮影:高須力)

2010年バンクーバー五輪スピードスケート男子五百メートルで銀メダルを獲得するなど、冬季五輪に3大会連続で出場した名スケーター・長島圭一郎(日本電産サンキョー)が突然の現役引退発表を行なってから1カ月余りが過ぎた。

年齢的にはすでに33歳になっているとはいえ、昨季も数々の国際大会に出場し、今年3月のシーズン終了時には現役続行に意欲を見せていた。それだけに、引退発表は多くの驚きを持って受け止められた。

現役続行から一転、引退を決意するまでの間に何があったのか。5月下旬、長野県下諏訪町の日本電産サンキョー本社で長島に話を聞いた。

レース中の長島圭一郎(撮影:高須力)
レース中の長島圭一郎(撮影:高須力)

■5、6年前から…

―引退に至った理由や背景を教えてもらえますか。

長島「昨シーズンが終わった後の3月下旬に、会社から『もうそろそろ現役を辞めて、今後は後進の指導にあたってはどうか』と言われました。タイミングで言うと、シーズン最終戦があったオランダから帰国して数日後です。自分の中では5、6年前からもうそろそろかと思っていましたし、長年やってきて身体の故障もありましたから、良い時期だと思って引退することになりました」

―5、6年も前から引退を視野に入れていたのですか?

「バンクーバー五輪のシーズン中(09/10年)から、1シーズンやるともうギリギリだなと思っていました。バンクーバーの前のシーズン(08/09年)がピークで、その後はそこから下っていく感じでしたし、バンクーバーの年も日に日にそれを感じていました。ただ、内容が悪かったのでそう思っていたのですが、結果だけ見ればまだいけるとも思っていました」

―内容が悪いというのは?

「自分の思っているように身体を動かせなかったのです。動きが限界かなと思っていました。ただ、それでも結果は出ていたので、ソチまでもう一回、という思いでやりました」

―身体の故障とはどの箇所ですか。

「長い間スケートをやってきているので、いろいろなところに痛みがありました。急に出てくる痛みです。背中や肩、ひざ…。でも、悩みは痛みそのものというより、身体を思うように動かせなくなっていたことでしたね。バランスも崩れていました」

―とはいえ、今年3月のシーズン終了直後には来季への意欲を見せていました。

「そうですね。次のシーズンもやるという前提でいろいろと計画を立てていました。3月にオランダで新しい靴を注文しましたし、ブレードも買いました」

■靴もブレードも買っていた。意欲はあった。しかし…

―意欲があったのに引退を勧告された。どのような気持ちだったのでしょうか。

「ああ、そうか、という感じで、仕方ないと思いました。必要とされなくなったらそこで終わりです。僕が求めても相手が求めていなければ、僕は必要ない」

―もう一年やってみようと思っていた部分を、もう少し詳しく教えていただけますか。

「やろうと思うからには計画を持っていないとできませんから。ソチ五輪後の昨シーズンは1年で身体を作り直すためにリハビリ的なことを優先させていて、次のシーズンからは成績も出すようにという目標で、道具の方を準備していました」

―買ったものはどうするのですか。

「もうブレードは手元にあったので、そのまま眠っています。靴は、3月のシーズン最終戦の前にオランダで型を取ってオーダーで作りましたが、届いたら趣味で使おうと思います。屋外リンクが好きなので、実家(北海道池田町)でも、長野でも、時間があれば滑ろうと思います。遊びは外が一番。遊びだとスケートは結構楽しいですよ」

―ところで、「もうそろそろ」と言われたときは、どう感じたのでしょうか?

「仕方ないですからね…。昔からいつそういう声が掛かっても良いように、とは思っていました」

―逆に、ソチ五輪が終わった後には自分から引退を申し出たけど慰留されたのですよね。

「ソチ五輪の後に(日本電産サンキョーの)永守重信会長とお話をさせていただき、そのときは自分から引退を切り出したのですが、会長から『1年ずつやって、それでもしダメなら辞めればいいじゃないか』と言われ、現役を続けました。そのときは、まだやってもいいんだなと、思いました」

―身体を思うように動かせない苦しさは、世界から称賛される理想のフォームで滑っていたからこその悩みなのでしょうか?

「それは分かりません。そこまでギリギリで精度を上げていかないと戦えなかった、僕の実力のなさだと思います。もっと余裕を持って戦えるポテンシャルがあれば良かった」

―才能やポテンシャルを最大限に引き出せた現役生活でしたか?

「それも分かりません、もう一回やれるのだったら、違うやり方でやって評価しないと分からないです。もちろん、与えられた環境や条件で100%考えて、100%やってということに関しては、自分の中ではそれに近いものを出せたと思っています」

コーナーワークも一流だった(撮影:高須力)
コーナーワークも一流だった(撮影:高須力)

■確固たる自分の物差しがある

―ハイライトはやはりバンクーバー五輪ですか。

「どうですかね。そう言った方がいいならそう言いますが、僕の中では08年のワールドカップの2戦目の千メートルが一番です。あれが今までで一番ですね。環境も良かったし、同走の相手、観客、会場の雰囲気も良かった、僕のピークが一瞬でもそこに来て良かったと思ってます」

―08年11月16日、オランダ・ヘーレンフェーンでのレースですね。

「10000人以上の観客が入っていて、最高の雰囲気でした。同走はベンネマース。当時オランダで一番有名な選手です。でも最終組ではないですし、勝ってもいませんよ。100分の1秒差で負けました。トータルでは5位でした」

―1分9秒32という記録が残っています。タイムで言うと、自身がソルトレイクシティーでつくった日本記録より下ですし、優勝もしていません(優勝はシャニー・デービスの18秒99)。どういうところが最高だったのですか。

「当時は常に思っている以上のタイムや成績が出ている時期ではありましたが、このレースでは滑っているときから自分の身体も周囲の状況もすべて最高でした。氷を思った通りに押していない時間、とらえていない時間が一度もなかった。何をしても進んでしまう状態という感覚でした」

―長島さんの物差しは優勝とかタイムではない。

「それ以外のレースでは、滑っていてところどころ何となく嫌なところがありましたから…。五百メートルは最後まで一番良いと思えるレースはありませんでした」

―楽しいと感じられる瞬間を得るのは貴重な経験なのですね。

「社会人で10年やってきましたし、スケートでご飯を食べられるというのは幸せなことです。それに、ここは結果のみの世界ですから、しびれる環境ではありました。ただ、楽しかったのはワールドカップ優勝の13回と、千メートルの3本くらいです。通算300レース以上滑っていると思いますけど、楽しかったのは15、16回くらいですね」

5月、インタビューに応じた長島
5月、インタビューに応じた長島

■8割は我慢だった

―振り返ると悔いはあるのか、あるいはないのか。どちらでしょう。

「悔いは…、もう少し自分を出して、もっとわがままにやってもよかったと思っています。組織の中ではどうしてもそれだけではできませんが、もっと自分の思ったままにすべてやってみたかったという気持ちはあります」

―出来なかったことは何割くらいですか。

「8割は我慢でしたね。でも、会社の一員だという理由ではないですよ。いろいろと足も引っ張られますし」

―やってみたかったことの代表例は?

「若いときにオランダに行きたかったですね。社会人になってすぐのころです。僕は高校(北海道・池田高校)のときにオランダ流の練習をやっていたので、それから5年くらいが経過して、オランダがどれくらいの進化を遂げているのかを知りたいと思ったのです。高校のころというのは長野五輪の後くらい。当時の僕は長距離選手だったので、オランダ流の練習をやっていました」

―それはかなわなかった。

「オランダには行けませんでしたが、韓国には行かせてもらいました」

―現役時代の最大のライバルはチームメートでもある加藤条治選手だったと思います。

「僕の中で本当にライバルだと思ってやっていた選手、彼がライバルだったからこそ千メートルでも闘えるようになったという存在は小原唯志(元日本電産サンキョー、現競輪選手)です。一番のライバルであり、でも一番助け合って、応援しあってきたのは小原唯志。千メートルでも徐々に世界トップに追いつけたのは、小原唯志がいたからでした」

―同僚の加藤条治選手には何とエールを送りたいですか?

「好きなようにやればいいと思います。周りの人たちが守ってくれますから、本当に好きなようにやれば良いと思います」

―現役生活を総括するとどういうスケート人生でしたか?

「しっかりとここまでスケートで生きてこられたので、良かったです。スケートと出合って良かった。楽しい思いをさせていただきました。身体のことはしょうがないですね。常にフル稼働、ギリギリでやっていかないと勝負にならなかったので。思えば、もっと才能が欲しかった。いや、才能はいらない。もっと実力が欲しかったです」

―今後は後進の指導に当たるということですが?

「今、会社と話し合いをしていて、徐々に決めていっているところです。僕としてはできることならスケートのことで困っている子供を助けたい。僕を必要としてくれるのであれば、助けてあげたい。力になりたい。それが今やりたいことです。年齢は問いません。30歳でも子供でも。他の競技から転向してスケートをやりたいという子供がいれば教えてあげたいです」

ワールドカップ五百メートルで通算13勝。五百メートルと千メートルの総合成績で競う世界スプリント選手権では2009年に銀メダル、2010年に銅メダルを獲得している。また、2009年3月8日にソルトレイクシティーで出した千メートル1分08秒09の日本記録は今なお残っている。

輝かしい活躍だけではなく、「銀メダルでは才能を示したことにはならない。1番以外はどれも一緒」など、さばけたコメントでも魅力を放っていた長島。今後は指導者としての活躍に期待したい。

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サッカーとオリンピックを中心に取材するスポーツライター

北海道大学卒業後、スポーツ新聞記者を経て、06年からフリーのスポーツライターとして取材活動を始める。サッカー日本代表、Jリーグのほか、体操、スピードスケートなど五輪種目を取材。AJPS(日本スポーツプレス協会)会員。スポーツグラフィックナンバー「Olympic Road」コラム連載中。

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