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嗚呼、タイブレーク導入……となると、こんなドラマはもう見られない?

楊順行スポーツライター

「まさか」というか「やはり」というか……。日本高野連では、選手の負担を軽減するためにかねてからタイブレーク制度の導入を検討していたが、20日の技術・振興委員会で、導入の意向を固めたという。まずは来春の都道府県大会や地区大会から採用される見通し。春の大会は、センバツと選手権という甲子園に直結するものじゃないが、もし早ければ方式はともかく、再来年以降の甲子園で実施されてしまうらしい。

つまり、06年夏の早稲田実と駒大苫小牧の決勝引き分け再試合のような名作ドラマは、そもそも生まれる余地がなくなったわけだ。9月30日づけのこの欄にも書いたように、まことに味気ないなぁ……。

というわけで、ささやかな抵抗にもなりはしないけど、過去の名作ドラマをひとつ。

タイトルを、『ノーサイド 8時間42分』という。

03年、第85回全国高等学校野球選手権・福井県大会。1回戦の大野東と敦賀気比の対戦は延長15回、5対5の引き分けとなった。再試合も、またも3対3の引き分け。雨で1日順延となった3試合目、敦賀気比が6対1と、ようやく決着をつけた。トータルの試合時間が8時間42分、足かけ4日、39回の激闘である。試合終了の挨拶が終わると、どちらからともなく「ありがとう」「負けるなよ」と声をかけ合う。まさにノーサイドと呼ぶにふさわしい戦い。校歌が終わると、敦賀気比・古谷真一監督(当時)は相手ベンチにかけより、大野東・荒木康監督(当時)に握手を求めた。グラウンド上では、きわめて異例のシーンだった。

39回のノーサイド 8時間42分

2003年 7月21日

大野東 000040000010000=5

敦賀気比002010010010000=5

7月22日

大野東 000003000000000=3

敦賀気比010020000000000=3

7月24日

大野東 000000010=1

敦賀気比20200200x=6

どうですか、このスコア。

この両者には、因縁がある。02年の秋に始まり、03年春、そしてこの夏と、3大会連続で初戦で当たっているのだ。さらに、古谷と荒木は、ともに若狭高校の出身。古谷が69年、荒井が76年生まれと、学年では6つ違うが、荒木が入学した年、大学生だった古谷が母校のコーチとなり、97年まで指導していた。荒木によると、

「古谷さんは高校時代、最初は怖い感じがしましたが、野球についてよく話したものです」

古谷が気比の監督となった00年、荒木も大野東の監督になった。つまりこの対戦は、師弟対決でもあったのだ。過去2回は6対1、12対3の7回コールドで、いずれも気比の勝利。まあこの時点で甲子園ベスト4の経験があり、東出輝裕(広島)、内海哲也(巨人)らプロ野球選手も輩出している気比に対して、一介の公立高校・大野東だから、実績、素質、選手層、練習量……で、気比が圧倒してもおかしくない。

「高校時代から指導者になりたかった」荒木は、中学の指導者から大野東に赴任して思いをかなえたわけだが、最初はがく然とした。地元である若狭は比較的雪が少ないのに比べ、大野では積雪が1メートルを越すこともめずらしくない。また大野東は、71年から96年まで、夏の大会26年連続初戦負けという不名誉な記録を持つ。学校創立が65年(当時は大野工、91年に学科を再編し大野東に)だから、ほとんど出ると負けのようなものだ。97年、ようやく27年ぶりの夏1勝をあげてベスト8に進出すると98、99年の夏も1勝。とはいえ気比だけではなく、福井商、福井工大福井……と、県内には強豪が目白押しだ。だから、着任してすぐの荒木が「甲子園に行きたいヤツは手をあげろ」といっても、部員たちはノレンに腕押し、まるで現実感がなかった。初年度の00年は、春夏秋といずれも初戦敗退である。

だが、翌年。「弱いチームだからこそ、自分たちが強くしたい」と、地元の有望選手がたまたま入部し、サマになってきた。1年生中心の新チームで臨んだ01年秋の大会で、ベスト8にまで進出するのである。徐々に力をつけた大野東、00年から03年夏を迎えるまで、春夏秋の大会でベスト16が2回、ベスト8が2回。26年夏の勝ち星がなかったことを思えば、大躍進といっていい。

力的には、コールドでもおかしくない

そして03年夏、大野東と敦賀気比のプレイボールは7月21日、14時20分のことだった。試合は大野東が11回表、5対4と1点勝ち越すが、気比はキャプテン・大瀬良直紀のアーチで同点に。そのまま引き分けた。翌日22日の第2ラウンドは気比・一ノ瀬弘将と大野東・三橋哲平の好投で、7回以降は両軍得点を許さず、引き分け再々試合が実現する。

翌23日は、雨。そして24日は、史上初めての引き分け再々試合という熱戦に、県大会の1回戦レベルでは空前の取材陣がつめかけた。スポーツ紙から、ワイドショーまで。ネット上の掲示板には「それにしても、すごいですね」というたぐいの書き込みが多数見られた。スタンドには、無名校の大健闘を見守るファンが鈴なりだ。だが……敦賀気比が、底力を見せた。前年秋と同じ6対1。ベンチで全員がふらふらになりながら、強豪に一歩も引かなかった大野東の挑戦が終わる。

翌04年に取材したとき、荒木はこう語ったものだ。

「力的にはコールド負けでもおかしくないんですよ。1試合目は、初戦独特の緊張でお互い力を発揮できないとしても、2試合目も7回以降は9個のゼロが連なって。以前はリードされるとすぐあきらめていたのが、この1、2試合目はリードされていたのを粘って粘って追いついたり、一時ひっくり返したり。ほめてやらな、と思いますね。

負けてよかった、ということはない。”最終的には気持ちで負けたんや“という人もいます。もし力が互角なら、そうかもしれません。でも明らかに力の差があってですから、そのがんばりはほめてやりたい。高校生の力ってすごいな、と思います。再々試合効果でしょうか、(04年春の)新入部員は20人も入ってくれました。初めてです。なかには”気比との試合を見て感動したから“という子もいます。甲子園に行きたいヤツは手をあげろ、というと、全員がパッと手を上げるんですよ。就任当時とは、大違いですね」

延長15回を2試合、30回を譲らずに戦わせたものはなんだったのか。負けたくない、という気持ち。仲間との結束。大野東の校歌は、最近はやりのハイカラ系で『Good Days,Good Fellows』という。91年の校名変更の年、新たに作られたものだ。二番には、こうある。

『友よ 思いのかぎり 挑んでは

ともに泣き ともに笑う 日よ

憧れ尽きぬ Good Days

夢をひとつにする Good Fellows……』

夢をひとつにする、いい仲間たち。ちょっとできすぎの歌詞でしょう。まあ、タイブレークが導入されても、チームメイトはいい仲間たちのままだろうけど、つごう39イニングの名勝負はもう、見られませんね。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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