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水谷隼と伊藤美誠は、なんと同じ少年団出身! 世界卓球

楊順行スポーツライター
(写真:アフロ)

鹿児島の鍛冶屋町に行ったことがある。鹿児島中央駅から東へまっすぐ歩き、左手の高麗橋で甲突川を渡ったエリアだ。江戸期には下加治屋町と呼ばれ、戸数わずか75。この限られた区域から、明治維新を推進した西郷隆盛と大久保利通の両巨頭をはじめ、大山巌・東郷平八郎らの近代日本の建設者が数多く育っている。

それにしても、書物では知っていても、実際に歩いてみると、その人材輩出の濃密さには圧倒される。なかでも西郷の生家と、大久保の育った家は文字通り目と鼻の先。ハナタレ坊主のころからいっしょに駆け回っていたはずで、幼いころの遊び仲間がそろって明治維新成立の立役者になるというのは、一種の奇跡じゃないだろうか。

そして……世界卓球で活躍中の女子の伊藤美誠と、男子の水谷隼は、いずれも静岡県磐田市の豊田町卓球スポーツ少年団出身だ。さらに両者とも、リオ五輪の代表が決まっている。同じ少年団の出身者2人が、同時にオリンピックに出場するというのも、けっこう奇跡に近い。

水谷は5歳のとき、父(信雄さん)が結成した少年団で卓球を始めた。

「でも練習時間は実質1時間ほどで、ほとんど遊びの延長線上でした。ただ小学校2年で全日本(選手権、バンビの部=小学校2年生以下)を優勝したあたりから、親の指導にもだんだん熱が入ってきて。そもそも右利きだった僕を、卓球に有利だからと左に転向させたほどの親ですから、週に1回の少年団のほかにも、実業団に出向いたり、公民館に行ったりで、ほぼ毎日が練習、練習でした」

と水谷はいう。両親はいろいろなことをやらせ、そこから夢中になるものを見つければいいと考えたようだ。卓球のほかにも習字、ピアノ、そろばん……と習い事がびっしりの忙しい毎日。半ば辟易していたが、週に1回の少年団の練習だけは楽しかったという。両親は自分以外の子に教えるのに手一杯で、その分自由に練習できたからだ。その練習日以外でもみんな、それぞれの環境で練習した。いわば、秘密特訓だ。そしてその成果を、少年団で披露する。先週は楽勝した相手が新しいサーブを覚えたら、その週には苦戦することもある。

水谷はこの世界選手権まで、団体・ダブルス含め、08年以来通算6個の銅メダルを獲得しているが、その土台には少年団での経験があったのだ。

同じスポーツ少年団からオリンピック同時出場

一方、水谷と11歳違いの伊藤。横浜在住時代の2歳のときには、すでに両親の影響で卓球を始め、出生地の磐田に戻ると、5歳で少年団に入った。すると、8歳で全日本選手権バンビの部に優勝。14年には、平野美宇との女子ダブルスでドイツオープン、スペインオープンと2週連続優勝したスーパー中学生だ。伊藤は振り返る。

「スポ少の練習がない日でも、高校生の集まるクラブや、浜松まで行って企業で練習させてもらったり、家でやっていました。でも、お母さんが厳しくてイヤでしたね、幼稚園のころは帰ったら一眠りして、5時ころからときには夜中の2時ころまでやるんですよ! 眠いんで、トイレにしゃがみながら10分くらいうたた寝していました。でも、好きだったし、友だちもたくさんいたから、やめようとは思いませんでした。2年生になるころには、母親と試合をしてもいい勝負ができるようになりましたし」

伊藤でびっくりするのは、中学生とは思えないコメント力だ。たとえば、なぜ大人と互角の勝負ができるのかと質問すると、

「ラケットを使うスポーツって、ほかの球技と違い、相手とぶつかることがないじゃないですか。サッカーのように体をぶつけ合って消耗することもないし、その分思うままに細かい技術を使っていけます。たとえばサーブだったら、邪魔されることなく自分の思った変化をつけられますし、それによってラリーが有利にもなる。それと卓球は、動く範囲も限られるじゃないですか。だから体が小さくても、年上の選手が相手でも、いい勝負ができるんだと思います」

この2人がもし、リオでそろってメダル級の活躍でもすれば……磐田市は大騒ぎになるだろうなぁ。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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