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甲子園通算16勝。山形の名将・渋谷良弥監督が勇退(その1)

楊順行スポーツライター
(写真:アフロ)

「あ〜、悔しい。ホント、悔しい……」

1992年、2年ぶり10回目の夏の甲子園出場を果たしたときだ。日大山形は、県勢として初の2ケタ得点を記録して2回戦を突破(○12対2延岡工)したが、臨んだ3回戦は4失策など守備が乱れ、1対5と北陸に敗れてしまう。試合後の、渋谷良弥監督。「また一からやり直しです」などと話していた取材の輪が徐々にほどけ、取り囲むのが見知った地元紙の記者ばかりになると、思わずもらしたのだ。あ〜、悔しい……。

ホンネだっただろう。当時の山形は、47都道府県のうち唯一、甲子園でのベスト8進出がない県で、通算勝ち星も全国最下位。野球後進県と陰口をたたかれ、大会前の抽選会で山形代表とのクジを引いた相手は、その場で拍手して喜んだともいわれている。そういう山形で育ち、地元の高校野球を牽引してきた自負がある渋谷にとって、まずは初めてのベスト8に進出し、少しでも郷土の野球を認めさせたいところだったのだ。

1回戦は、エース・笹原吉雅の好投で柳ヶ浦を下し、県勢6年ぶり、チームとしては13年ぶりの勝利。2回戦も突破と2勝したから、もし2回戦から登場という組み合わせなら、県勢初の準々決勝進出だった。だからよけいに、「あ〜、悔しい」なのだ。

渋谷の野球人生には、いくつもの「山形県勢初」がある。72年、母校の監督になると、翌73年センバツに県勢として初出場し、春夏を通じて初勝利。75年には、初芝に勝って夏の初勝利。79年夏には、初の1大会2勝。のちに転じた青森山田での戦績を合わせると、甲子園通算16勝は東北屈指だ。

この山形の高校野球の功労者は、ちょっとした偶然がいくつか重ならなければ、誕生していない。渋谷は言う。

「そもそも日大山形に入ったのは、甲子園を目ざす、なんてつもりはさらさらなく、県立校の受験に失敗したからです。当時県立に落ちた中学生にとっては、山形第一(63年度から日大山形)が受け皿だった」

受験は失敗、就職先の野球部は休部……

小さな村の校長先生のような、見るからに人のいい表情。純朴な口調。教え子たちが“おやじ”と敬愛するのがよくわかる。

47年2月28日、JR北山形駅近く、のこぎり職人の家に5人きょうだいの末っ子として生まれた。兄3人はいずれも野球に親しみ、地元の野球界では、渋谷4兄弟として知られていた。

日大山形2年の63年の夏には、1学年上の兄・邦弥とともに“甲子園”に出場。卒業後は、関東学院大への進学が決まりかけていたが、「ゆくゆくは母校の指導者に」と渋谷を買っていた学校側が「日大へ行ってほしい」。その日大では控え投手として4年間を過ごしたため、もう少し現役を続けたいと社会人野球を志す。だが、強豪・電電東北(現東北マークス)の受験に失敗。静岡の金指造船に入社したのが69年だ。

金指造船は都市対抗出場も視野に入れるチームだったが、オイルショックのあおりで71年度限りで休部の憂き目にあう。渋谷が母校の監督になるのは、それと相前後する72年のことだった。「それと、高校時代に“甲子園”に行ったといっても、それは開会式だけなんです。あの63年は、45回の記念大会で出場校が多く、西宮球場を併用した。日大山形が試合をしたのは、その西宮だったんですよ(●3対4首里)。しかも私は、控え投手で試合には出ていません。甲子園でプレーしたかったという思いが、指導者としての下地にありました」

25歳。それにしても、だ。高校は受験を失敗し、大学は進路を変更し、就職もまた試験に落ち、行った先がやがて休部……。偶然が重なっての、母校の監督というわけか。

しかし野球部は、言葉にするのがはばかられるほどすさんでいた。案の定、赴任してすぐの春の大会は1回戦でコールド負け。ハラをくくった渋谷は、「私の方針に従えなければ、部を辞めてもらってかまわない」と荒療治を敢行した。まずは私生活から厳しく律する。20人いた3年生は、ヘキエキしてたった2人になった。夏は、残った下級生中心でいくしかない。やはり、初戦負け。「渋谷も大したことないじゃないか」そんな雑音が聞こえてきた。(続く)

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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