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甲子園通算16勝。山形の名将・渋谷良弥監督が勇退(その2)

楊順行スポーツライター
(写真:アフロ)

1972年、初めての夏の大会を初戦負けした渋谷だが、「大したことないじゃないか」という批難も、若さにはエネルギーになった。夏休み中の練習は、毎日10時間以上。バリバリの25歳だから、野球の腕は高校生よりよっぽど上で、なんでも先頭に立ってやった。あまりの厳しさに、連日生徒が倒れる。救急車を要請する。5日目には、救急隊から叱責された。指導はごくシンプルで、基本をおろそかにしないこと。高校野球では、バント、走塁、キャッチボールがしっかりできれば戦える。これは金指造船時代の、望月教治監督の教えだった。

一方練習試合は、あえて勝てそうな相手と組む。前チームから7人のレギュラーが残り、力はそこそこあったチームに、勝つ味を覚えさせるためだ。するとその秋、チームは山形県を制し、東北大会も東北、仙台育英という強豪に競り勝って優勝。そして翌73年、県勢初めてのセンバツに出場して初勝利(○5対2境)……。渋谷は振り返る。

「ぶっ倒れるほど練習したのは勉強不足で、生徒には申し訳なかったけど、意地でしたね、意地。ただ、もし就任したときに、上級生になあなあ気分で接し、改革に手をつけなかったら、いまの日大山形野球部はなかったと思います」

もっとも73年春、高校時代にはプレーできなかった甲子園での初采配は、気がついたらもう5回。どんなサインを出したかも記憶にないというから、歴戦の名将とはいえ最初は可憐なものだった。同じ73年の夏、鹿児島実に勝って県勢の夏の初勝利を挙げると、日大山形は甲子園の常連となり、白星を積み重ねていく。だが……ベスト8の壁は厚く、なかなか崩せないでいた。

渋谷だけではなく、山形の野球の転機になったのは、85年の夏だ。甲子園に出場したのは、日大山形を県の決勝で破った東海大山形。だがその東海が、KKのいたPL学園に、29対7という記録的な大敗を喫してしまうのだ。PLは29という最多得点だけじゃなく、史上初にして唯一の毎回得点、.593は1試合最高打率、32安打も最多……。その屈辱的な敗退は、山形県議会でも話題になった。

この期間は渋谷にとっても、針のムシロのようである。就任以来、少なくとも3年に1回は春夏どちらかの甲子園に出ていた。だが85年から87年までは、まるまる出場歴にブランクがあるのだ。うち2回の夏は、決勝で東海に敗れている。

県外の有望選手をどんどん迎え入れる東海に対し、寮もなく、県内出身者がほとんどの日大。そういう方針の差はあるにしても、どちらもマンモス大学の系列校だから、ライバル意識は相当なものだろう。遅れを取った責任を痛感し、渋谷は学校に進退伺いを出しもした。もっともそのときは、「バカヤロー。オマエしかいないんだ」と乱暴に慰留されたのだが。

「ただ、あの7対29はやはり、大きなきっかけでしたね。議会に採り上げられたことで予算が付き、私とほかに2人の指導者とで、強豪校の視察に回りました。報徳学園、高知、明徳義塾、土佐……。最新の技術や知識を吸収するとともに、人脈も広げていってね。またのちには日本生命の監督だった佐竹政和さんをアドバイザーに招いたり、原貢さんの講習会をやったり。県外チームとの交流も盛んになりましたし、1年生大会を始めたのも、山形は早かったと思います。下級生だからといって裏方に甘んじるのではなく、野球の楽しさを知ってもらって退部を防ぎ、また試合経験を積ませることなどが目的でした」

春夏の初勝利から40年後、教え子が4強に

こうして“7対29”以降、徐々にではあるが、県勢は力を蓄えていく。その成果が92年、日大山形の2勝であり、続く93年も力はあったのだ。大分工に勝って初戦を突破すると、3回戦ではこの大会で準優勝する春日部共栄に7回表で2対1とリード。結局追いつかれ、延長でサヨナラ負けするのだが、「一塁ランナーが左中間を破る二塁打で生還できなかった場面がありました。あの1点があれば勝てていた」と渋谷が言うように、互角以上の内容だった。

なんとか、全国レベルとも対等に戦える……手応えを感じた山形県勢は、95年には甲子園通算勝ち星で新潟を抜いて最下位を脱し、04年のセンバツでは東海大山形がようやく、県勢初のベスト8に進出した。

その間渋谷は、01年の夏限りで母校の監督を勇退。02年度からは、青森山田を率いていた教え子・五十嵐康朗のたっての要請で、青森山田の監督となった。そこでも、通算7勝。敗れはしたが06年夏には、田中将大(現ヤンキース)を擁して3連覇のかかった駒大苫小牧と、9対10の名勝負も演じている。その山田を11年度限りで離れ、山形市のスポーツアドバイザーを務めていた12年8月、市立山形商の監督となった。

「渋谷にやってもらおう、という市民の声が市長に届いたらしくて。ただ、日大にしろ山田にしろ、40年間私立で教えてきたから、ギャップは感じますよね。環境、素材……なにより、“甲子園に行くんだ”という生徒の意識、本気度から変えていかないとね。強くなるには、時間はかかります」

山形勢は、東海大山形がベスト8に進んだ04年春以降も、翌05年センバツで羽黒が初めてのベスト4に進み、06年には、日大山形が夏の8強に進んだ。そして13年の夏には、日大山形がついにベスト4。率いたのは渋谷の教え子である荒木準也監督で、渋谷が率いた日大山形の春夏初勝利から、ちょうど40年がたっていた。

山形商は昨秋、村山地区予選を突破して県大会まで進出した。この春の初戦は、30日の予定である。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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