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野球王国・四国復活か? 上甲×馬淵、懐かしの盟友対談 その3

楊順行スポーツライター
(写真:アフロ)

その1999年夏、上甲正典率いる宇和島東は、3年連続出場の甲子園で初戦負け(●5対10新潟明訓)。上甲がふたたび甲子園に姿を見せるのは2004年春、済美を率いてだった。馬淵史郎は、そのことも"カタが強い"と言う。

馬淵「なにしろ、創部丸2年でしょう。それとカタが強いいうたら、優勝したこのときの東北(宮城)戦、高橋(勇丞・元阪神)の逆転サヨナラ3ランもあったじゃないですか。そうや、準々決勝で、ワシらは次の試合。9回やけん、グラウンドに出る準備をして見よったんや。6対2から2点返したけどランナーなしで一、二番がヒットで出て」

上甲 「東北の若生(正広)監督がタイムを取ったから、僕は当然高橋を呼びますよ。アイツはその大会、当たってなくてね。ヒットを1本しか打っていない。だから"思い切って振ってこい"」

馬淵 「ニコニコと(笑)。でも笑顔じゃない、作り笑いなんよね。それと僕が見ていたら、あの場面、マウンドの真壁(賢守)がはまったように思ったね。逃げているというか……というのはね、ロージンを持ったときに、レフトを守っていたダルビッシュのほうを見よったもん。僕はそういうところ、よう見るんですよ。ネット裏にいても、選手の態度をけっこう見ます。気が強いな、強がっているけど虚勢を張ってるな……。

それにしても、二死走者なしからつないだ一番、二番がすごいね。あれホント、不思議やったわ。一人でもアウトになったら終わりなんですから。だから27のアウトのひとつひとつを、大事にせなあかんですね。あそこで高橋に打順が回るというのも、やっぱりカタが強いんですよ」

その9回は、4点を追う攻撃だった。済美は2点を返しながら、二死走者なし。そこから一、二番が執念で出塁し、三番の高橋が逆転サヨナラ3ランを放つという劇的な決着だった。打球は、肩の張りで登板を回避し、レフトを守っていたダルビッシュの頭上をはるかに超えていった。

上甲 「いやあ、ここまででカタの強さを使いすぎや。そんなに長いことは続かんのやけん(笑)」

馬淵 「上甲さんやったらどうですか。あの場面、ダルビッシュにピッチャーを代えるね」

上甲 「そう。若生さんがタイムを取ったから、てっきりピッチャー交代と思ったんよ。高校野球は、負けたら終わりやからね。馬淵君も僕もそうなんやけど、あの短い間に頭を猛スピードで回転さすんですよ。僕は、薬局をやっていたことが一番役に立っているね。どういうたらいいかね……同じ頭痛薬でも、その人に効く薬とそうでない薬がある。そこでどうするかというと、問診なんよ。僕ら医者やないけん、打診も触診もできないけど、問診はできる。問診で話しながら、頭の中のコンピューターで、この人に合う薬を考えるわけです。そういうんで、選手によって対応する感性を養わされたところはあるね」

馬淵 「それはともかく、僕もあの場面なら代えてるね。多少エースの肩が張っていても、高校野球は目の前の試合を勝ちきらな。そういう野球を、伊予の人間はしますよ」

愛媛と高知、野球は違うのか

上甲はその伊予にとどまっているが、馬淵は伊予から土佐、つまり愛媛から高知に行っている。野球の違いはあるのだろうか。

馬淵 「同じ愛媛でも南予と中予、東予では気質が違うんです。東予は関西が近いから目端が利くし、南予は気候からしてものんびりしている。ただ、とくに南宇和と高知の宿毛のあたりは、文化圏がいっしょですね。僕は高知で野球やってますけど、南予のにおいがすごくありますもん」

上甲 「南予というのは比較的我慢強いんですよ。それと、人がエエ」

馬淵 「人がエエ。上甲さんみたいな人が(笑)。ただ高知は、どちらかというと豪快な野球よね。皿鉢料理にたとえたことがありますよ。カツオのたたきとか、いろんな料理を大きな皿にどーんと盛って、豪快に食べる。それが高知の野球……。高知に行った最初のころ、満塁でスクイズさせたことがあるんです。そうしたら"馬淵はバカじゃ"言われるんですよ。ホームランなら4点、長打で3点取れるのに、わざわざ1点を取りにいくは、と。ちまちましたことは、性に合わないんですね。

でも伊予の人間からしたら、満塁でもときにはスクイズするのは当たり前で、まあ実際は年にいっぺんくらいかもしれませんが、する。いうたら、皿鉢料理に対して瀬戸内の細かい磯の魚よね。だけど明徳は新しいチームですから、伝統校のような豪快だけじゃ勝てない。いいところはマネするけど、豪快さに緻密さを加えながら、チームづくりをしていったわけです。

今でこそ高知はセンバツの勝率が全国1位ですけど、野球に関しては遅れていたんですよ。高知から初めて全国大会に出たのは、戦後になった1946年の城東中。慶応大学の監督をされた前田祐吉さんがいたときで、これは四国はおろか、沖縄を除いたら、全国でも宮崎の次に遅いんです。なにしろ高知は、陸の孤島や。南は海で、東西と北は山……。坂本竜馬は、そこを抜けて脱藩するんやけど。

明徳の事務長に、昭和20年代、高知商で甲子園に出た人がいたんです。聞くと当時は、松山で四国大会があれば、まず関西汽船で大阪に出て、そこから松山に入ったらしいね。山越えの道路が整備されていなかったんやけど、そんなして松山まで行ったとしても、移動で疲れ果てて野球どころじゃないわな。いまは高速を使えば高知から2時間半で松山だから、便利にはなったけど。

そういう環境で愛媛に勝とうと思ったら、きめの細かい野球ではどうしてもかなわない。細かい野球は実戦経験が必要なのに、地理的条件もあって、高知では練習試合の相手が限られるでしょう。それなら、こまいことをやってくる相手に対して、力でねじふせちゃる、と。守備力よりも攻撃力を重視せざるを得なかったから、高知の野球が豪快になったんでしょう」(続く)

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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