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祝! 3000本安打。21年前、2年目の"イチロー"はなにを考えていたのか? その2

楊順行スポーツライター
1995年発売の雑誌『インタ』。懐かしい名前が見えます

あくまでマイペースかと思えば、こういう古風な面もあるから、イチローという映像の輪郭がなかなか見えてこない。当節はやりのストリート・ファッションに身を固めながら一方では、手にツバをして威勢よく道具を手にする職人ふうの頑固な気質も香ってくる。これまでになかったタイプのプロ野球選手であることは確かだ。その「職人」がいい仕事をするときというのは、どういう状態なのか。高校時代のデータ分析では、イチローのアルファ波の数値は超人的という結果が出ていたという。

「調子がいいときっていうのは、表現するとしたら、相手が自分に合わせてきてくれる感じですかね。わざわざワナにはまってくれる。アルファ波の数値がそのままあてはまるのかどうかはわかんないけど、集中力が高まっているのは確かでしょうね。これは別に鍛えたりしたわけじゃなくて、遺伝だと思いますけど。

そういえば小学校3年生ごろから、至近距離でトスバッティングをやっていたんですよ。オヤジに、どうかな、3メートルくらいななめ前のところから全力で投げてもらって、それを打ち返す。思い切り投げるんですから、そりゃ速いですよ。シロウトの人だったら、ボールが10メートルくらい行きすぎてから振っているでしょう。もちろん硬球ですよ。オヤジ、怖かったでしょうね。僕が振り遅れたら、打球が直撃しますから。

これを、3年間やりました。この練習で、集中力はついたかもしれない。スピードにしたら、160キロは超えていたでしょう。それを振り遅れないように、打ち返す。もし、『やばい、オヤジに当たる』と思ったら、瞬間的に手首でバットをコントロールして打球方向を変えたり。そういうことをやっていたから、プロに入ってもスピードに戸惑うということはなかったですね。

そのころからプロ野球選手になるつもりで、小学校の卒業文集にまでそう書いていたんです。それを実現できた推進力は……なんだろう。運ですかね。実はドラフトでオリックスに指名されたときは、正直ちょっとがっかりだったんです。イヤ〜、最悪だなぁって、友だちに相談した。『イチロー、どうしたの?』『オリックスなんだ、どうしよう』『なんで悩むの』『だって、選手の名前とかも全然知らないチームだから……不安だよ』

待っているだけじゃ運はめぐってこない

「だけどもしそこでためらってオリックスに来なければ、河村(健一郎、当時巨人コーチ)さんにも、仰木監督にも、新井(宏昌)コーチにも出会えなかったんだから、いまの僕があるかどうかはわからない。この3人は僕の恩人ですから、オリックスで出会えたのはやはり運ですよね。でも運って、黙って待っているだけじゃやってこない気もする。

運のほかには、もちろん継続もあるでしょうね。スポーツはずっと、野球だけです。そうそう、小学校時代に一度、サッカー部の先生からしつこく誘われたことがあったなぁ。サングラスをかけた怖そうな先生でしたけど、『イヤだ。毎日野球の練習があるから』って断ってました。そのころから自分の考えをハッキリ言ってたな。いまよりハッキリしてましたよ。『なんでサッカーなんかやらなきゃいけないの?』って、子どもだからなおさら、やんわり話すとかできないじゃないですか」

ということは、あえて劇的に考えれば、もし怖い先生の恫喝的勧誘に屈してサッカーをやっていたら、いまごろJリーグでばりばりプレーしていたかもしれないわけだ。自分の考えを貫いて決断するのは、イチローの少年時代からの資質だったのだろう。いま子どもたちに一番人気のあるスポーツはサッカーだが、イチローという名前は子どもたちのあこがれだし、サッカー好きの少年たちでも知っている。(続く)

*所属などは1995年当時

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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