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広島カープ、マジック点灯。山本浩二が振り返る1975年の初V その2

楊順行スポーツライター
懐かしの広島市民球場(写真:アフロ)

1975年のカープはオープン戦を12勝13敗で終え、シーズンに突入する。開幕から10試合は4勝6敗ながら、ルーツ監督は4月11日の中日戦で退場処分を受けてる。さらに27日の阪神戦で、ボールの判定に抗議してまた退場。さらに球団への不信感もあって、開幕からわずか15試合で退団するという異常事態に。

「頑固だったからね。ただ、後任が決まるまで野崎(泰一コーチ)さんが監督代行を務め、"野崎さんのためにも"とチームがひとつになったところはあったと思います。確か野崎さんが代行の間は、負けていないはずです(3勝)。そして古葉監督の新体制がスタートするのが、5月4日の阪神戦ですか。古葉さんになって、"ひとつでも先の塁へ"という姿勢がますます強まりましたね。積極走塁はルーツのときもそうでしたが、古葉さん自身、現役時代足を売り物にしてきたわけですから、とにかく"前へ前へ"という野球で、まず地元で3連勝。

そのあとに、沖縄での試合があるでしょう? (5月17〜18日、大洋戦)。そこでシェーンが、プロ野球初の左右打席ホームランしたりで連勝し、確か首位に立ったんよ。ただ、ここからイッキに抜け出すというわけにはいかなかったんじゃないかな。なにしろ先発が外木場(義郎)さん、佐伯(和司)、池谷(公二郎)くらいしかいないでしょう。前年に先発で20勝していた金城(基泰)は、交通事故で大けがをしていたんです。ほかにだれかいたかいな……永本(裕章)、若生(智男)さんくらいか。それで記憶にあるのが、6月中旬のヤクルト3連戦ですね。最初の二つを落として5連敗。勢いがなくなりかけた」

この時点で広島は、通算26勝25敗と4位に落ちる。

ローテの谷間でガマンのエース温存

「負けたあと、神宮球場から宿舎までのバスで、古葉さんがいうんです。"明日はピッチャーがいないから、打線が打ってやってくれ"。当時のローテーションは、中3日か4日が基本。中3日なら翌日は外木場さんが先発なんですが、開幕からフル回転で疲れが出る時期です。もちろん、負けたら貯金がなくなるわけですからエースでいきたい誘惑はあったと思うけど、古葉さんはそこをガマンし、勝負はまだ先、と腹をくくったんでしょう。それが"打ってくれ"ということ。そして翌6月19日、先発は二軍から昇格したばかりの永本、抑えに宮本(幸信)さんでヤクルトに勝ち、連敗を止めました」

カープはそこから、引き分けをはさんで4連勝し、6月25日には首位に立つが、この6月は1カ月で6回も中日、阪神などと首位が入れ替わる大混戦だった。それでも前半戦を首位で折り返し、迎えたオールスター第1戦の甲子園で、山本と衣笠が2打席連続のアベックホームランをかける。これが、ひとつの転機だった。

「あそこからじゃないですかね。優勝経験のまったくないチームが全国区になり、赤ヘルが認知されたのは。8月になっても中日、阪神との争いは一進一退です。1試合1試合がむしゃらでしたが、"ひょっとしたら……"と感じはじめたのがこのころでしょうね。ただそのころは、春先からがむしゃらにやってきた疲れも出てきます。優勝争いのプレッシャーも初めての経験ですから、精神的にも肉体的にも全員疲れていた。地元の試合では、試合前の相手の練習時間に4、5人が点滴を受けるほどでしたね。私も腰痛の持病がありましたが、それでも休むわけにはいかん。ですから移動日などで時間が取れれば、かかりつけの病院や整体に通い、痛くならないよう予防に努めていました」

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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