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社会人野球日本選手権は、ヤマハが初V。MVP・池田駿への私的な思い入れ

楊順行スポーツライター
大卒2年目でドラフト候補に成長し、雑誌にも登場した

「社会人最後の試合。体が壊れても、絶対投げ抜く」

ヤマハ・池田駿は、今大会3試合目の先発。疲労があってもおかしくないが、精神は充実していた。それはそうだ、巨人からドラフト4位指名を受けたあとの"最後の大会"で、決勝まで勝ち進んだのだから。

意地もあった。入社2年目で初めて出場した都市対抗では、東京ドームの雰囲気に飲まれ、JFE東日本戦は6回途中までで7安打6四死球の4失点。再度先発したJR九州との2回戦でも、4回に崩れて5失点と、反省ばかりが残っていた。無駄な力を抜き、バランスよく投げることがテーマだったはずが、どこかに力みがあったのか。

それが、日本選手権の決勝では、気合いのエネルギーを鋭い腕の振りにうまく変換した。140キロ台の直球、要所でキレのいいスライダーを交え、日本通運打線を10三振。序盤から飛ばしたため8回途中で降板したが、134球の熱投だった。3対2で逃げ切ったヤマハは、日本選手権初優勝。19回3分の2を投げて5失点の池田駿は最優秀選手に輝き、

「一から自分を育ててくれて、(会社には)感謝してもしきれない」

と目を潤ませた。

ワタクシゴトながら、新潟勢の活躍がうれしい

実は池田駿には、ちょっとした思い入れがある。新潟県・出雲崎中の出身。僕の育った柏崎市からは20キロほどで、お隣といってもいい。2010年の夏、新潟明訓のエースとして池田駿が甲子園に出場したとき、そんな雑談をかわした記憶がある。

「去年(09年)夏に準優勝した日本文理の遊撃手・高橋隼之介も、柏崎の出身だよ」

「はい、知っています」

などと……。その高橋が3年だった日本文理を県大会の決勝で破った新潟明訓は、甲子園でもベスト8まで進出。池田駿は3試合に先発し、つごう18回を投げて自責1という素晴らしい投球を見せている。専修大に進むと、1年春から2部リーグ戦に登板。年間4勝をマークした。その後はヒジの手術、1部昇格即降格などを経ながら、3年秋、4年春はエースとしてそれぞれ3勝し、4年秋の1部昇格に貢献した。

1、2部通算13勝でヤマハ入りすると、「運動能力が高く、仕上がりも早い」と美甘将弘監督に評価され、3月の東京スポニチ大会から登板。自己最速の147キロをマークし、ストッパーとして台頭した。都市対抗予選では不振で、本大会の登板はなかったものの、大会後にチェンジアップを会得すると、先発陣の一角に食い込んでいる。

「1年目は、強くて速い球をストライクゾーンに投げ込みながら、コントロールや変化球で勝負する大切さを学びました。またチェンジアップで空振りが取れるようになり、直球やスライダーもより生きてきました」

今季は、5月の東北大会でトヨタ自動車東日本を完封し、都市対抗予選でも2完封を含み32回3分の2を自責4の防御率1.10。「試合をつくるすべが身についたし、股関節周りを強化したことでケガもなくなった」と自信の2年目だった。プロ入りを前にして、その集大成が日本選手権Vと、最優秀選手だったのだ。

中央球界での活躍がとぼしい新潟県出身者にとって、社会人野球でのMVPというのはおそらく初めてではないか(日本文理出身の吉田篤史が1990年、同じヤマハで都市対抗の橋戸賞を獲得しているが、厳密には東京生まれという)。そうそう、今大会のヤマハでは、準決勝の大阪ガス戦で、伊藤直輝が4回を2安打無失点という好救援を見せている。この伊藤も、新潟出身。池田駿が出場した1年前、夏の甲子園で準優勝した、日本文理のエースである。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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